I’m sorryがわからない日本人はいません
天西 照実
ささやかな主張。
帰宅途中の少年は、石階段の途中で足を止めた。
長ったらしい階段を登っていた少年は、いい加減時間がもったいない、などと思いながら進む先を見上げた。
急勾配な石段の先に、雲一つない青空が広がる。
真冬とはいえ階段登りで暑くなり、少年は学生鞄を足元へ置いた。
コートを脱ぎ、鞄と一緒に抱えた目の前に、蛇行する影が近付いた。すぐに見上げると、風に飛ばされていく1本の布紐が目にとまった。
それを追いかけるような足音も、階段上へ近付いていた。
「姉ちゃん、俺が捕まえるからいいよ! せやぁっ!」
声を上げながら少年は、宙を泳ぐ布紐に向けて鞄を投げた。
教科書やノートの詰まった学生鞄は弧を描いて布紐をまとわりつかせながら、階段の上へ着地した。
少年が駆け上がると、古い石畳の上で、学生鞄の下から薄紅色の布紐が引き出されたところだった。
「助かったわ。おかえり、早かったわね」
「ただいま。明日の入試準備で、生徒は半日授業だったんだよ」
返事をする少年に頷いて答えながら、姉は布紐の片端を口に銜えた。
すっすっと慣れた手つきでたすき掛けすると、仕上げに左胸の蝶結びをきれいに整え、
「お山の風が、あんたにも手伝わせなさいって言っているのかも知れないわね」
と、姉は少年に言う。
「なにを――なに、あのデカい板……?」
「依頼よ。看板の言葉を、私に書いて欲しいのですって」
「あぁ、書道の依頼か」
山の上の古寺。
なぎなた道場も兼ねているが、姉は書道家でもある。
3畳を横長に繋げたような大きさの木製板が、道場横に敷かれた茣蓙の上で干されていた。
少年が近付いて眺めると、すでに四季折々の花の絵が描かれていた。
「看板、日干ししてんの?」
日差しを反射する看板が眩しい。
「空港からの依頼なのよ。凄いでしょ」
「へー。あ、この絵、まだ乾いてないの?」
「乾いてるわよ。日を浴びられない場所に飾られるから。今の内に、たっぷりお日様を浴びさせてあげてるのよ」
「ふーん。じゃあ、看板もきっと喜んでるね」
少年は、風変わりな発言の多い姉に合わせて答えた。姉は満面の笑みで頷く。
「あ、中で書くから、運ぶ時は手伝ってね」
「うん。まだ日光浴させるの?」
「もう、良いかしらね。うがい手洗いして、着替えてらっしゃい」
「はーい」
道場奥にある母屋へ向かう弟を見送り、姉は青空を見上げた。
「今日が、いいお天気で良かったわ」
独り言を呟き、冷たい空気を大きく吸い込んだ。
「この看板を持って来た依頼者は、いい仕事したわ」
「この絵を見て、依頼を受けたってこと?」
書道用の墨ではなく、看板用の黒い塗料を使って書いたらしい。
看板運びを手伝った少年が、再び姉の様子を見に戻ると、道場にはペンキのようなにおいが広がっていた。
『日本語しか話せない日本人は多いですが、Thank youとI’m sorryがわからない日本人はいません』
四季折々の花が描かれた木製看板に、黒字で横書きされていた。
「姉ちゃん、英語なんか書けたんだ……」
換気のために窓を開けていた姉は、軽く肩を落として見せ、
「最近、よく書かされてるわ。印刷された文字よりも、目を引きやすいんですって」
と、溜め息を吐き出すように言った。
「ふーん……」
返事をしながらも少年は、看板を見下ろして首を傾げる。
「まだ触っちゃダメよ」
「うん。いや、依頼された言葉だよね? ここから何を読み取ればいいの」
「やぁねぇ。なにが、これを書かせてるかって考えてよ」
「……あぁ、うん。で、ただコレを教えるためなの? 使ってみてねってこと?」
少年に聞かれ、姉も看板を眺めながら苦笑いを見せる。
「ニホンゴワカラナイ~への返答じゃないかしら。私は、そのつもりで書いたわよ?」
「……それ、ウザい事にならない?」
ストレートに聞いてみると、姉はハハハッと軽快に笑った。
「バズ
「そうなの?」
「責任逃れのために有名書家を使う訳じゃなく、空港名を紐付けるって誓約書まで置いて行ったわ。もちろん私も同意して、名乗り出ませんって書いて署名したのよ。誠意を形にするって、こういう事よね」
「姉さんが書くものは、言葉に意味をもたせる……絵師さんの絵も、そういうのなの?」
「そうよ。わかる?」
「なんとなく」
「御朱印の絵が芸術的だって有名な神社が、隣町にあるのよ。そこの絵師ちゃんが書いた厄除けのお札をもらった事があるわ。めっちゃ効力あるのよ」
「姉ちゃんも、そういう商売――」
「しません。たまにくる、こういう依頼で十分でしょ」
「お疲れさま。あっち側の雨戸は閉めるよ」
古い道場は、戸袋から木製の雨戸を引き出して戸締りする必要がある。
「うん、お願いね」
「はーい」
ガラス戸を開けると、大きな満月が昇り始めたところだった。
「おぉ、ありがたいなぁ」
などと言い、高校1年生ながら少年は見事な満月に手を合わせた。
毎日の階段上り下りは大変だが、この景色は山の上住まいの特権だと思っている。
「看板で良い効果がありますように」
ひとり呟き、少年は雨戸を閉め始めた。
明日の空模様も、晴天の予報だ。
了
I’m sorryがわからない日本人はいません 天西 照実 @amanishi
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