ただいま

@polopolomango-

第1話



2008年11月9日。外はすっかり肌寒くなり、道行く人々が手袋をするような季節が訪れていました。そんな中、僕が夢中になっていたのは、いつ給食でシチューが出るかということでした。


給食カレンダーを確認すると、僕の嫌いなゴーヤチャンプルはもう出ないらしく、その事実がうれしくて思わず飛び跳ねてしまいました。その様子を見て、僕の友達――さやちんでお馴染みのさやちゃんが声をかけてきます。


「ゴーヤチャンプルなくなるの、ほんと嬉しいよね」


僕は首を縦に振り、「うん」と力強く答えました。その姿に、さやちんも自然と笑顔になります。


学校が終わり、下校の時間になりました。帰り支度をしていると、さやちんが「一緒に帰ろう」と言ってくれます。僕はもちろんそれを了承し、二人で帰る――それがいつもの下校の習慣でした。


帰り道では、何気ない会話で笑い合ったり、道端に落ちているゴミをおもちゃ代わりにして遊んだり、他愛もない時間を楽しんでいました。けれど、その日はいつもと違いました。


十字路に差しかかったとき、僕の視界に、異様なスピードで飛び出してくる一台の車が映ったのです。そして、その車が通る道路へ、さやちんが何も気づかないまま踏み出そうとしていました。


僕は考えるよりも先に、全力で走っていました。


さやちんを突き飛ばした瞬間、足がもつれて転び、次の瞬間に聞こえたのは、彼女の悲鳴と、身体を貫く激しい痛みでした。


薄れていく意識の中で、僕は思いました。――死んでしまうのだろうか。親への申し訳なさ、さやちんの無事、自分の行動は本当に正しかったのか。次々と浮かぶ思いを抱えたまま、僕は静かに目を閉じました。


次に目を開けたとき、そこは少し古臭い、四畳半ほどのアパートの一室でした。ボロボロの畳と薄暗い空気に、頭が真っ白になり、状況がまったく掴めません。


部屋を見渡すと、たばこをぷかぷかと吸っている一人のおじさんがいました。その顔は、どこか寂しげでありながら、何かをやり遂げたようでもあります。


「あなたは誰ですか。ここはどこなんですか」


僕が尋ねると、おじさんはたばこの火を消し、こちらを見て哀れむような表情で答えました。


「ぼっちゃん、ここはな。神さんが用意してくれた“こころの準備”を済ますとこなんや」


そう言ってから、おじさんは自分の話を始めました。消防士として働いていたこと。大火事の現場で、中にいる人を諦めろという命令が出たこと。でも、どうしてもそれができず、炎の中へ飛び込んだこと。


「そうしたら、ここに来とったんや」


僕は尋ねました。

「それほど立派なことをして亡くなって……ご家族と別れるのは、寂しくなかったんですか」


おじさんは少し笑って言いました。


「そら、寂しいに決まっとる。でもな、おっちゃんは人を助けるんが好きなんや。最後まで、自分がやるべきやと思ったことができた。それで十分や」


その言葉を聞いても、僕にはまだよく分かりませんでした。何かを成し遂げた経験がなかったからです。ただ、不思議と胸の奥が熱くなるのを感じていました。


しばらくして、おじさんは「悪いな、ぼっちゃん。もうお別れみたいやわ」と言い、古びたドアを開けて去っていきました。部屋には、僕一人が残されます。


けれど、孤独な時間は長く続きませんでした。ドアがノックされ、今度は若くて綺麗なお姉さんが入ってきたのです。


彼女は驚いた様子で部屋を見回していました。僕が、おじさんから聞いたこの部屋の話を伝えると、なぜか安心したような表情を浮かべました。


「……死ねたんだ」


その言葉の意味が分からず、僕は立ち尽くします。お姉さんは、自分の人生を淡々と語りました。親から殴られて育ったこと。家を出て、体を売って生きてきたこと。そして、その人生に疲れ、自分で終わらせたこと。


あまりにも冷たく、繊細な言葉に、僕は何も言い返せませんでした。


「で、君はどうしてここにいるの?」


「友達を車から庇って……それだけです」


そう答えると、お姉さんは何も言わず、ただ僕を静かに抱きしめてくれました。そこには言葉はいらず、優しい温もりだけがありました。


「あなたは使命を果たしたの。人生で一度あるかないかのね。だから、胸を張って」


その意味は完全には分かりませんでしたが、心が少し軽くなった気がしました。お姉さんは「じゃあね」と言い、ドアの向こうへ消えていきました。


僕は、これまでに会った二人が語っていた「生きる意味」について考えました。考えれば考えるほど、意味なんてあるのだろうかと分からなくなっていきます。


そんなとき、ドアのポストに、すとんと一通の手紙が落ちてきました。差出人はなく、そこには文字だけが綴られていました。


「2008年11月22日。シチューが出ました。君が楽しみにしてたの知ってたから、君の分まで無理して食べちゃった!

2008年11月30日。病室のベッド寒いよね。だから手袋買ってきたよ。似合ってるよ!

2008年12月25日。欲しがってたラジコン、枕元に置いてあったよ。良かったね!

2009年1月1日。あけましておめでとう。早く起きてよ!

2009年……」


読み終えた瞬間、僕にはすぐ分かりました。さやちんだと。


涙が、止まりませんでした。この手紙を読んで、僕はようやく分かった気がしたのです。――生きる意味を。


また会いたい。そう思いながら、僕はドアへ向かい、ドアノブを捻りました。


目を開けると、そこは古臭いアパートではなく、病室でした。


視線を巡らせると、見覚えのある顔――けれど、記憶よりもずっと大人になった彼女がいました。彼女は僕を見て、涙を流しています。


「……おかえり」


震える声でそう言われ、僕は答えました。


「ただいま」

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