溶けてゆく

蛭間哨

空虚

最初に異変に気づいたのは、朝の教室だった。

ノートを持つ手が、少しだけ透けて見えた。


驚いて触れてみる。けれども感覚はある。痛みも、温度も。

ただ、そこに「輪郭」だけがない。


その日から、僕は少しずつ薄くなっていった。


それと同時に、名前を呼ばれなくなった。


「ねえ」

「ちょっと」

「君さ」


以前は当たり前のように呼ばれていた僕の名前は、誰の口からも出てこなくなった。

その都度、体のどこかが消えていく。


クラスメイト、担任、昔からの友人。

記憶から落ちていく順番は、驚くほどあっさりしていた。


それでも、「君」だけは違った。


放課後、いつものように並んで歩く。

他愛もない話をする。

笑うタイミングも、間の取り方も、何も変わらない。


だから僕は、信じていた。

最後まで居られるのは、君の記憶だと。


けれど、ある日から微妙なズレが生まれた。


僕が話す前に、君が同じことを話す。

僕の癖を君が少しだけ、真似る。

まるで、僕が後追いになったみたいだった。


数日後、君の隣に見知らぬ人がいた。

転校生だと言うその人は、

僕と同じ話し方をして、同じように笑った。


胸の奥が、ひどく冷えた。


君は、その人と楽しそうに話していた。

僕を気にする素振りは、もうなかった。


その瞬間、理解してしまった。


君が覚えていたのは、僕じゃない。

僕がしていた役割だ。


話し相手。

笑いの間。

隣にいる「ちょうどいい誰か」。


それが、たまたま僕だっただけ。


透明になった体では、声を出しても届かない。

伸ばした手は、空気を切るだけだった。


君は新しい誰かと笑いながら、言った。


「前も、こういう人いた気がするんだよね」


それが、僕についての最後の言葉だった。


完全に透明になった僕の前で、

君は何事もなかったように日常を続ける。


僕が消えたあとも、

僕の居場所だけは、すぐに埋まった。


そこにはもう、

僕である必要はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

溶けてゆく 蛭間哨 @Tetra_11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ