げんざいち~紐解けない自己紹介~
すぽいたん
第1話 満ちる前の月
第1章 キーボードの音が季節になるまで
九月の終わりか、十月に入りかけた頃の、夕方と夜の境目だった。
東京の西側にある古いワンルームに、空気の温度がゆっくりと下がっていくのが分かる。窓の外を走る電車の音が、少しだけ澄んで聞こえ始める時間帯。遠くの踏切が鳴るたび、その余韻が風に乗って、部屋の奥まで届いてくる。
窓を開けると、ひやりとした風がカーテンを揺らした。夏の名残を引きずった部屋の空気に、秋の匂いが混じる。夕食を作るどこかの部屋から漂ってくる油の匂いと、アスファルトの隙間に残った土の湿り気のような匂い。その二つが重なり合うと、決まって胸の奥が静かに反応する。
月はまだ細かった。雲に半分隠れて、輪郭だけが淡く浮かんでいる。満ちきらない光が、ビルの縁をなぞるように夜を照らしていた。
長月音依は、そうした「変わり目」を見逃さない。季節がはっきりと姿を変える前の、ごく短い時間だけが持つ気配を、なぜか正確に掴んでしまう。理由は分からない。ただ、その瞬間になると、歩く速度が少し遅くなり、呼吸が一拍ぶん深くなる。
机の上では、ノートパソコンの画面が白く光っている。
キーボードを打つ音は、いつも一定ではなかった。考えが流れ出すときには、雨粒のように連なって音が落ちる。けれど、言葉が途切れると、数秒の沈黙のあとに、ぽつりと一音だけが響く。その間さえも、音依にとっては原稿の一部だった。部屋の空気が、打鍵と沈黙のリズムに合わせて、ゆっくりと形を変えていく。
画面に並ぶ行と行の間は、必要以上に広く取られている。
無意識の癖だった。そこに、まだ言葉になっていない感情や、温度だけを持った気配を置いておくための余白。文章はまだ生まれていないが、何かが確かにそこに在る、という感覚だけが残る場所。
推敲に入ると、指の動きは急に慎重になる。一文を選び、カーソルをその中央に置いたまま、しばらく動かさない。削除キーを押す前に、必ず一度、声に出さず、口の中でそっと読んでみる。呼吸とリズムがずれたときだけ、その行は消される。消えたあとには、少し長めの空白が残る。その空白が埋まるまで、音依は次の段落へ進まない。まるで、言葉の居心地を確かめるように。
25歳。職業は小説家、と名乗ってはいるが、生活はまだ不安定だった。昼間は書店でアルバイトをし、夜にこうして机に向かう。暮らしは静かで単調だが、感覚だけは過剰なほど研ぎ澄まされている。
隣の部屋のシャワーの音。下の階のテレビから漏れてくる笑い声。線路を通過する電車が、風に溶けて遠ざかっていく瞬間。音依はそれらを「生活音」としてではなく、「気配」として受け取っていた。言葉になる前の素材として、無意識の底に溜め込んでいく。
ふと、風向きが変わる。
匂いが、一瞬だけ過去を連れてくる。
どこかの秋。稲刈りが終わったあとの、乾いた藁の匂い。
夕方になると決まって流れていた防災無線の旋律。
家の縁側に、ゆっくりと伸びていく影。
それらははっきりとした記憶の形を取らない。ただ、匂いと音と光の断片として、胸の奥に触れては消えていく。
音依は、満たされていないわけではなかった。
けれど、何かが欠けていると断言できるほどの喪失もない。
孤独ではあるが、不幸ではない。ただ、「何かが来る前」の静けさの中に立っている、という感覚だけがあった。
月がまだ満ちていないように、彼女の感情も、人生も、どこか途中で止まっている。完成する前の輪郭。形になる前の予感。
ベランダに出ると、夜の空気が肌に触れた。
雲の切れ間から、欠けた月が覗いている。
欠けたままでも、夜を照らすには十分な光だった。
第2章 海の記憶と動かない現在
バイトの帰り道、風が少しだけ冷たくなっていることに気づいた。
昼間の熱をまだ残しているアスファルトの上を、夜の気配が薄く撫でていく。その中に、はっきりと秋の匂いが混じり始めている。
その匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥で何かがかすかにずれた。
潮と藻と、夕焼けに温められた海辺の匂い。
五島列島の、夏の終わりの空気。
東京の風は乾いていて、どこか無機質だった。肌を撫でる感触は似ているのに、含んでいるものが決定的に違う。塩気の代わりに排気ガスの名残があり、湿り気の代わりにコンクリートの冷たさがある。似ているのに、同じではない。そのわずかな差が、音依の感覚を鋭く刺激した。
五島では、海はいつもすぐそばにあった。
湿った風が家々の間を抜け、夜になっても夏のぬるさをどこかに残していた。窓を開ければ、波の音が生活の底音として流れ込んでくる。星は東京よりもずっと多く、月は海の上に白い道をつくって、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられた。
東京の月は、建物に切り取られた細い輪郭でしか現れない。
光は確かにあるのに、距離がある。海に映る道も、闇に溶ける余白もない。ただ、高いところで静かに浮かんでいる。
25歳。上京して3年。
小説家を名乗りながら、実際の生活は書店のアルバイトと、締切未満の原稿の日々だった。書いてはいる。けれど、「始まっている」と言い切れる実感はない。誰にも選ばれていないが、何かを失ったわけでもない。ただ、何も起きていない時間だけが、音を立てずに積もっていく。
五島では、時間は身体に触れていた。
湿度の変化、潮の満ち引き、日没の速さ。季節は皮膚で感じるものだった。
東京では、季節は数字とニュースで知らされる。
気温、週間予報、暦の上の立秋。頭では分かっても、身体の奥にまで届くまでには、少しのずれが生じる。
それでも音依は、匂いで秋を察知してしまう。
風に含まれる冷え方や、夕暮れの色の沈み方で、季節の境目を正確に掴んでしまう。その感受性だけが、過去と現在をつなぐ細い糸のように、今も切れずに残っていた。
――私は、ここに来て、何を始めたんだろう。
問いは浮かぶが、答えは出ない。
流れで上京し、流れで三年が過ぎた。決定的な失敗も、決定的な成功もない。物語の最初の一行すら、まだ書かれていないような時間。
スマートフォンの中に、故郷の海の写真が一枚だけ残っている。
青と白の境目が曖昧な水平線。夕方の光に染まる波。
画面を見つめるが、誰にも送らない。
共有する言葉が見つからないまま、写真はまた静かに閉じられる。
月齢アプリを開くと、今夜の月は「満ちかけ」と表示されていた。
完全でも、欠落でもない、途中の形。
音依は思う。
自分もまた、どこか満ちかけのまま止まっているのではないかと。
第3章 本棚の前で立ち止まる
バイト先の書店は、少し古い建物の一階にあった。
自動ドアが開くたびに、外の空気が紙とインクと埃の匂いに混じる。文芸書の棚には、背表紙の色が静かなグラデーションをつくり、文庫の列は低い波のように続いている。客の足音、レジの電子音、控えめな音量のBGM。そのすべてが、重ならないように、しかし確かに同じ空間に息づいていた。
音依はその中に立って、本を並べ、棚を整え、在庫を数える。
本に囲まれていながら、まだ本の側に行けていない場所に、自分がいることをよく知っていた。
ある日、文芸の平台に、新人作家のデビュー作が積まれた。
帯には「20代での鮮烈なデビュー」という言葉。生年月日を見ると、自分とほとんど変わらない年だった。
その本を手に取った客が、連れに言う。
「この人の1作目が1番好きなんだよね」
1作目。
始まった人の物語の最初の1冊。
音依は、レジの横でその声を聞きながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。誰かの「始まった瞬間」が、こうして形になり、手に取られ、語られている。その距離は、決して遠くない。けれど、自分はまだ、その場所に立っていない。
――なぜ、東京に来たのだろう。
改めて考えると、はっきりした理由はなかった。
夢に賭けたというほどの覚悟も、逃げてきたというほどの切迫もない。ただ、ここにいれば何かが始まるような気がした。それだけだった。
けれど、東京は何も強制しない。
望まなければ、何も起こらない。立ち止まっていれば、立ち止まったままでも、時間だけは等しく過ぎていく。
休憩時間、スマートフォンが震えた。
母からのメッセージだった。
「今度いつ帰ってくる?」
短い1文。
それにすぐ返事ができる自分がいる。
帰れる場所がある。
迎えてくれる人たちがいる。
その事実は、音依を静かに支えていると同時に、別の輪郭を浮かび上がらせた。本気で賭けきれていない自分。失敗しても戻れる場所があるからこそ、すべてを差し出す覚悟を持たずにいられる自分。
故郷は温かい。
だから、切羽詰まらない。
背表紙の位置を揃えながら、音依は思う。
本はすべて、誰かの人生が動いた結果だ。迷い、決め、踏み出した時間が、こうして1冊の形になって並んでいる。
けれど自分は、その外側に立っている。
物語を生み出す側ではなく、整えて差し出す側に。
――私はまだ、棚に並ぶ前の場所にすら立っていない。
そう思ったとき、胸の奥がわずかに締めつけられた。
閉店時間。
シャッターを下ろし、表に出ると、夜の空気が頬に触れる。ビルの隙間に、月が見えた。まだ丸くはないが、確実に満ちつつある光。
その月を見上げながら、音依は初めて、はっきりとした問いを抱く。
――自分も、いつか満ちるのだろうか。
――それとも、この「途中」のまま、年を重ねていくのだろうか。
流れで上京し、流れで続いている日常。
しかし、流れのままでは始まらないということを、ようやく身体が理解し始めていた。
「何も起きていない」ことへの、静かな焦りが、夜の中で確かな重さを持ち始めていた。
第4章 声にならなかった本音
夜のワンルームに、着信音が静かに響いた。
画面に表示された名前を見て、音依は一瞬だけ指を止め、それから通話ボタンを押す。
「元気にしてる?」
受話口から聞こえてくる母の声には、島のイントネーションがそのまま残っていた。東京の標準語の中で暮らしていると、その抑揚は少しだけ波の音に似て聞こえる。
「うん。まあまあ」
そう答える自分の声も、思っていたより落ち着いている。
仕事のこと、天気のこと、父の畑の作物の出来。取り立てて新しい話題はなく、けれど、途切れない程度の言葉が続く。
電話の向こうには、いつもと変わらない家の気配がある。
台所の物音。窓の外を通る風。そこでは時間が、音依のいないあいだも、同じ速さで流れ続けている。
自分はまだ、家族の中では「途中の人」でいられる。
何者かにならなくても、結果を出していなくても、変わらず受け入れられる場所がある。その事実は、胸に静かな安心をもたらす。
同時に、別の影も落とす。
姉は二つ年上で、堅実な人だった。進学し、就職し、結婚し、節目をひとつずつ越えてきた。大きく主張するタイプではないが、気がつけば家族の中で一番現実的で、面倒見のいい存在になっている。
「まだ若いんだから、ゆっくりでいいじゃん」
帰省したとき、何気なくそう言われたことがある。
励ましのつもりだったのだと分かっている。責める気など、微塵もなかったはずだ。
それでも、その言葉は胸に残った。
優しさで包まれた猶予は、時に、自分が立ち止まっている事実をよりはっきりと浮かび上がらせる。
電話を切ったあと、部屋は再び静かになる。
遠くを走る電車の音だけが、夜の底でかすかに響いていた。
音依は、ようやく自分の内側にある恐れの輪郭に触れる。
失敗が怖いのではない。
才能がないと断定されることが怖いのでもない。
もっと根深いところにあるのは――
本気で賭けて、それでも何も起きなかったときに、帰る場所を失うのが怖い、という感情だった。
家族がいる。
帰れる島がある。
父は畑で黙々と土を耕し、母は変わらず家を守り、姉は堅実に日々を積み重ねている。
そこに戻れば、自分は「何者でもないまま」でいられる。
だからこそ、すべてを差し出して、作家として賭けきる覚悟が持てずにいるのではないか。
純文学を志したのは、言葉の重さに惹かれたからだった。
売れるかどうかではなく、評価されるかどうかでもなく、それでも書き続ける理由を問われる世界。結果が出なくても、なお続ける覚悟を求められる場所。
その覚悟が、自分にはまだ足りないのではないか。
そんな疑念が、静かに胸を満たしていく。
――私はまだ、「作家である自分」よりも、「娘である自分」に寄りかかっている。
そう思ったとき、喉の奥がわずかに詰まった。
泣くほどではない。ただ、息の通り道が一瞬だけ細くなる。
窓を開けると、夜風が入ってくる。
雲の切れ間に月が見えた。五島の海に道をつくるほど近かった月も、東京ではビルの隙間に小さく浮かんでいる。
どちらの空でも、月はほとんど満ちている。
けれど、ほんのわずかに欠けている。
その欠けた部分に、自分の姿を重ねる。
満ちる直前で、立ち止まっている。
流れで生きてきた。
帰れる場所があることで、賭けずにいられた。
何も起きていないのは、偶然ではない。
本気で起こそうとしていなかったのかもしれない――。
それはまだ決意ではない。
ただ、これまで見ないふりをしていた輪郭が、静かに浮かび上がっただけだった。
第5章 満ちる前の月
帰省から戻って数日が過ぎた東京のワンルームには、まだ島の匂いが残っていた。
開けたままのスーツケースの中で、洗いきれなかった潮の気配と土の匂いが、衣服の繊維に微かに留まっている。
夜明け前。
街は完全には眠らず、遠くの幹線道路を走る車の音が、低い波のように途切れ途切れに届いてくる。カーテンの隙間から差し込む薄い光の中で、部屋の輪郭だけが静かに浮かび上がっていた。
畑で黙々と鍬を振るう父の背中。
台所で包丁を使う母の規則正しい音。
用事を手際よく片づけながら、さりげなく気遣いを向けてくる姉の声。
誰も、音依に「結果を出せ」とは言わない。
急かすことも、責めることもない。
ただ、そこに居場所があり、変わらぬ日常がある。
その優しさの中で、彼女は初めて、はっきりと理解した。
だからこそ、自分が自分に言わなければならないのだ、と。
守られていることは温かい。
けれど、守られている限り、世界は本気でこちらを選ばない。
寄りかかる場所と、立ち上がる場所は、同じではない。
否定ではない。
感謝を伴ったままの、距離の自覚だった。
机に向かう。
これまでと同じノート、同じキーボード。
けれど、指を置く感覚だけが、わずかに違っている。
評価されるためでもなく、肩書きを得るためでもなく。
「何も起きていない時間」に、言葉を与えるために書く。
それこそが、自分が純文学に惹かれた理由だったのだと、ようやく思い出す。
書き始める前に、窓の外を見る。
夜明け前の空に、淡く月が残っている。
もうすぐ太陽の光に消されてしまう、未完成の光。
満ちきってはいない。
けれど、欠けたままでも、確かに夜を照らしている。
――満ちてから輝くのではない。
――満ちる途中だからこそ、ここに在れる。
音依は、その月を見ながら思う。
自分もまた、何者にもなっていない。
しかし、何者かになる前の時間だけが持つ静けさの中に、確かに立っている。
月は満ちる前で、彼女もまた、そうだった。
決意はまだ言葉にならない。
けれど、未完成であることそのものが、今は否定ではなく、静かな肯定として胸に残っていた。
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