第十七話 痕
翌朝。
霖は、自宅の洗面所の鏡の前で、自分の首筋を見て呆然としていた。
「あ。……あいつ、やりすぎでしょ」
白い肌に残された、鮮明で、けれど愛おしい「独占」の証。
コンシーラーで隠そうとしたけれど、あまりにも色が濃くて隠しきれない。霖は一瞬だけパニックになったけれど、ふと、あの時の尋の真剣な瞳を思い出し、口角を上げた。
「いいわ。隠すの、やめた」
彼女が手に取ったのは、スタイリッシュなマフラーだった。
そして、それを巻く前に、わざとらしくその痕の上に一枚の絆創膏を貼った。
「完璧なヒロイン」が、どこか隙を見せるための、計算された、けれど真実の「傷」。
登校した霖の姿に、教室はざわついた。
「え、霖ちゃん、マフラー? 今日そんなに寒くないよね?」
「その絆創膏、どうしたの? 怪我?」
取り巻きの女子たちが心配そうに駆け寄る。
霖はいつものように、けれど少しだけ「浮ついた」ような、艶っぽい笑顔で答えた。
「ああ、これ? ちょっと、飼い主に強く噛まれちゃって。すごく独占欲が強い子だから、困っちゃうわよね」
「えっ、飼い主……? 犬飼ってたっけ?」
「うふふ、まあ、そんな感じ」
霖は、教室の隅で固まっている尋に、一瞬だけ視線を送った。
その瞳は、「あんたのせいよ」と責めているようでいて、世界一の幸福に浸っているようだった。
昼休み。尋が廊下を歩いていると、霖に腕を掴まれ、空き教室に引きずり込まれた。
「霖、さん。あんなこと言って、大丈夫なんですか?」
「『さん』はいらないって。それに、いいのよ。みんなには適当に想像させておけば。……それより」
霖はマフラーを少しだけ緩め、絆創膏が貼られた首筋を尋に見せつけた。
「あんた、責任取りなさいよ。今日の放課後も、明日も、その次も。私のこの『仮面』の下にあるものは、全部あんたのものなんだから」
尋は、顔を真っ赤にしながらも、今度は逃げなかった。
眼鏡を押し上げ、真っ直ぐに霖の目を見つめ返す。
「言われなくても、そのつもりです。……霖のことは、一文字だって他人に読ませたくありませんから」
「……っ。ほんと、可愛くない」
霖は照れ隠しに尋の胸を小突いたけれど、その顔は、どんな称賛を受けた時よりも誇らしげだった。
クラスの頂点と底辺。
そんな無意味なレッテルは、昨夜の図書室に置いてきた。
今、目の前にいるのは、ただ一人の、自分を狂わせる少女だけだった。
少し時は遡り。
「霖ちゃんの『飼い主』って……誰?」
教室中を支配していたその疑問は、最悪な形で火を噴くことになった。
放課後。尋がいつものように図書室のカウンターで作業をしていると、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、瀬戸と、その後ろに続く三上だった。爽やかなエースと、内気な読書家。接点のないはずの二人が並んでいる光景に、尋の背中に冷たい汗が流れる。
「……河井さん。単刀直入に聞くよ」
瀬戸が、いつもの笑顔を完全に消して尋の前に立った。
「霖ちゃんのマフラーの下……あれ、君がやったのか?」
「え……」
尋が言葉に詰まると、三上が一歩前に出た。
「高嶺さんは、あの日から変わった。……君と二人で図書室にいるようになってからだ。……河井さん、君は彼女に何をしたの?」
二人の視線は、鋭い。
ヒロインを奪われた嫉妬と、女王が尋を「毒した」のではないかという疑念。
尋は逃げ場を失い、眼鏡の奥で瞳を泳がせた。
「……何をしたか、ですって?された本人に聞けばいいじゃない」
背後から、凍りつくような声が響いた。
いつの間にか扉の前に立っていた霖が、冷ややかな瞳で瀬戸と三上を射抜いている。
「霖ちゃん……」
「高嶺さん、僕は君と河井さんを心配して……」
「心配? 笑わせないで。あんたたちが心配してるのは、自分の理想通りの『高嶺霖』が壊れることでしょう?」
霖は悠然と尋の隣まで歩み寄り、彼らの目の前で、尋の腕を自分の腰に回させた。
「見ての通りよ。この子は私の『飼い主』。私が唯一、本当の顔を見せられる相手。あんたたちみたいな、表面しか見てない男とは違うの」
「本気なのか? そんな影の薄い、何もない奴に……!」
瀬戸の声が震える。
その時、ずっと黙っていた尋が、霖の腰をグッと引き寄せた。
「何もないなんて、言わないでください」
尋の声は小さかったけれど、図書室の静寂を鋭く切り裂いた。
「霖が誰にも言えない痛みを抱えてる時、隣にいたのは私です。彼女が不器用な料理を作って、泣きそうになりながら笑った時、それを見ていたのだって私なんです。君たちが知らない彼女を、私だかは全部知っているんです。」
「……っ」
瀬戸は、言葉を失った。
自分がどれだけ言葉を尽くしても届かなかった彼女の心の奥底に、この「底辺」だと思っていた少女が、とうの昔に居座っていることを思い知らされたからだ。
「分かったよ。……もう、何も言わない」
瀬戸が力なく首を振って、図書室を後にする。三上も、何かを言いたげに尋を見たあと、静かに扉を閉めた。
沈黙が戻る。
霖は尋の腕の中で、ホッと吐息を漏らした。
「すご。尋、あんなこと言えるようになったのね。……『彼女を全部知っている』、なんて。……私痺れたわ」
「精一杯でしたよ。もう、足がガクガクです……」
尋がその場に座り込もうとすると、霖がそれを許さず、尋の唇を奪った。
さっきまで「女王」のように振る舞っていた彼女の唇は、少しだけ震えていて、尋への執着で満たされていた。
「最高よ、尋。ねえ、もう誰にも、一文字だって私を読ませないで。完読していいのは、あんただけなんだから」
嵐が去った後の図書室で、二人の絆は、もう誰にも引き裂けないほど黒く、深く、そして美しく固まっていた。
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