第二話 「港町の王子様」③
一日というのは存外早く済むものだ。湯船に浸かりながら、アニカはぼんやりとそんなことを考える。
どう過ごすかと悩んでいた朝に始まり、ファニーの付き合いで散歩に出かけ、クルトと予想外の出会いをし、トミーに文句を言いにケストナー家に訪れ、そこで彼の子供たちに勉強を教えたり森の話をしてきた。予想外にそこで時間を使ったため、ケストナー家を出る時にはすでに辺りは赤と青が混じった色に染められていた。
「……それにしても、トミーん所の子供たちも大きくなったわよねぇ」
特に長女は今年15歳になるはずだ。幼い頃には見下ろしていたはずの顔がすでに見上げる位置にあり、そこそこにへこんでいる。長男は今年13歳で、
浴槽から上がり浴室から出ると少し冷えた風が吹き込んでくる。昼は暑くとも夜にはまだ時折空気が冷たい。とはいえ、温かい湯に身を任せた後ではこの涼しさはやはり心地よさの方が上だ。袖のない薄手のシャツを着てショートパンツを穿いて廊下に出る。色々な事情から普段外では決してしない格好だが、家の中では気も緩んでいた。
しかし部屋に戻ろうと90度体の向きを変えたアニカの背に、予想外の声がかけられる。
「アニカ~、若い娘がそんなカッコでうろうろするもんじゃないぞ」
低い男の声は父の声ではなく、しかし聞き慣れたもの。アニカはげんなりとした様子で振り返った。
「何でいんのよトルステン……」
そこに立っていたのはトルステンであった。トレードマークともいえる帽子は被っておらず、手にはバスケットを持っている。アニカの問いかけにそれを持ち上げた所を見るに、その中身がここにいる用事なのだろう。しかしそうと分かってもアニカは呆れた表情を浮かべた。礼儀知らずな男ではないので恐らく不法侵入ではないだろうが、さすがにいきなり自宅に出現されると驚いてしまう。
「はっはっは、まあ細かいこと気にすんなって。でっかくなれねぇぞ。ってもう止まってんだったか。お前見てるとこっちまで若い頃の気分になっちゃうなぁ」
酒に酔っているかのようないつものテンションで大笑すると、トルステンは数度アニカの肩を叩く。引っ叩いてやろうかと考え出したその時、不意にトルステンが止まった。その代わりに、長年銃を扱い固くなった手がまだ濡れている前髪を軽く持ち上げる。
「……やっぱりこっちの傷も残っちまったなぁ。身体も傷だらけだし、せめて顔の近くは治って欲しかったんだけどなぁ」
しみじみと呟き、トルステンはどこか寂しそうな表情をした。その彼の視線の先にあるのは前髪の生え際に残っている古い傷跡。そして、露になっている手足、身体のあちこちにある同様に古い傷跡たちだ。そうと気付いたアニカは、肩を竦めてからにっと鮮やかに笑った。
「別に、気にしてないわよ。これはあたしの証だもの」
強がりではなく本気で口にしている様子のアニカを見て、数呼吸分間を空けてから、トルステンは「そうだなぁ」と笑い返してくる。
「ところで何持ってきてくれたの?」
話を変えて問いかけると、トルステンは手に持っていたバスケットを軽く持ち上げ、上に被せていた布をどかした。
「ああ、さくらんぼうだよ。うちのカミさんがたくさん貰ってきてな。食いきれないからお前んちにおすそ分け」
「わ。美味しそう。ありがとうトルステン。コリンナ先生にも伝えておいて。――で、お父さんに会ってくでしょ?」
「ああ、さっき玄関から声はかけたから顔出しはしてくよ。ほいじゃこれは持ってっとくな」
軽く手を振って、トルステンはリビングへと向かった。その姿がリビングに消えると、ニコラスとトルステンが大声で話しはじめる。基本的に静かな父が元気よく喋り出すのは実は珍しいことだ。
楽しそうなニコラスとトルステンの声を聞きながら微苦笑を浮かべ、アニカは自身の腕を撫でる。
その腕は、足は、体は、大小の傷に覆われていた。これが、アニカが外で肌を出さない第一の理由である。額の傷も含め、身を覆う傷のほとんどが幼少期に出来た古傷であるので、今はどこも痛くない。だが、どうしてもこれらの〝異質〟は人の目を引く。それを避ける意味で、アニカは外での薄着を避けていた。
彼女自身はこの傷を恥はしない。あえてそうなる理由があるとすれば、それはその未熟さを露にしてしまっている、という点に限る。ただ、大きな怪我をしなくなった現状における自身の力量と比較する分には、古傷たちは便利な存在であった。
三つの頃から、祖父にその才を見込まれたアニカの小さな身体に生傷が絶えない日はなかった。〝特別な日〟を除き、修行として毎日身体を鍛えて、実戦を積んで、死にそうなほど大きな怪我もしてきた。
本当に小さい頃はそれが辛かったけれど、持ち前の負けん気が、厳しさと同時に寄こされる祖父の優しさが、折れることをいつも防いでくれていた。
『俺はお前に跡を継いで欲しい。けどな、お前が辛いなら無理はしなくていいんだ』
祖父がいつも言っていた言葉だ。才能がある、あいつなら俺の跡を継げる。励みになると同時に足枷にもなるその言葉を、祖父は決してアニカ本人には言わなかった。それでも周囲にそう漏らしていたのは知っていたから、「やめてもいい」という言葉にアニカはいつも首を振っていた。
祖父の跡を継ぎたいと思ったのはアニカの意思だ。多くの人々のために前線に立ち、広く人を救わんとする祖父がアニカの誇りであったから、いつか追いつき、追い越すと、幼い頃からずっと心に決めていた。
猟師としての才能ももちろんあったが、それ以上に指導者としての能力に秀でていた祖父は60で引退、その後五年は後進の指導員として働いていた。さらに五年はアニカの育成に天秤を傾け、亡くなるまでの四年は完全にアニカのために使ってくれた。
いくつになってもスパルタは変わらなかったが、そのおかげもあってアニカは順調に実力をつけ、16でハンターに登録してからは飛躍的にランクを上げていった。
祖父が亡くなったのはアニカがBランクに昇格した頃だ。「お前は俺の誇りだ」と、その言葉を残して、偉大なる英雄は、アニカを愛しアニカが愛した厳しく優しい祖父は、この世を去った。
その時、実は一番アニカを気にかけてくれていたのが誰あろうトルステンであった。時にふざけ、時に真面目に、アニカを励まし、慰めてくれた。
彼は祖父に憧れこの町にやってきて、父の友人になり、今ではアニカの同僚となっている。そして産科医であるトルステンの妻コリンナはアニカとファニーの取り上げをしてくれた女性だ。それらもあり、祖父が健在の頃から今にかけて家族ぐるみで付き合いが続いている。ブルンス夫妻は非常に仲睦まじい夫婦であるが、子宝に恵まれなかったため、アニカとファニーは特に実の子供のように可愛がられている。
ちなみにアニカが修行を免除される〝特別な日〟は実は若かりし頃のトルステンが作り上げてくれたものだ。それが、誕生日。
(あの時はお父さんもびっくりしたって言ってたなー)
アニカが四つの時だっただろうか。その年の誕生日もいつもと同じようにアニカは祖父のしごきをうけるはずであった。それを、トルステンが説得し、以降誕生日のみはアニカは修行を免除されるようになったのだ。
『こいつはまだガキです! 誕生日は特別な日です! だから、今日くらい休ませてやってください、ベルンハルトさん!』
今でも古い猟師の間では語り草だ。万年Eランクだと笑われている男が、英雄に噛み付き、勝利したのだから。ちなみに今でもアニカが誕生日だけは確実に休むのもその頃から続く習慣だ。
懐かしい、そう思いながら緩い足取りで階段に向かったアニカは、ふと思い至ってリビングに向かう。そして開け放した扉からリビングを覗き一言。
「トルステン、明日も二日酔いしてても助けないわよ」
「……はい」
酒盛りに移ろうとしていたトルステンはそぉっと杯を机に戻した。母がアニカに注意してくるが、その点に関しては聞く耳を持たない。年長者であろうと仕事に支障を来たさないように釘を刺すのは、同僚の権利であり上級猟師の義務である。
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