第3話:『素直さ』という最強の資質
ふわり、と。密閉されたはずのコンビニエンスストアの廃墟に、あり得ないはずの『風』が吹き抜けた。
それは、文明が腐朽した埃っぽい匂いではなく、陽光をいっぱいに浴びた若草の瑞々しさと、甘く切ない沈丁花の香りを運んできた。
段ボールの寝床の上で、少女――ルルは、長い睫毛を微かに揺らす。幼い寝顔を撫でるように通り過ぎる『風』。
40万年という悠久の歳月を経て、もはやこの星のどこを探しても存在しないはずの「あの日の庭」の香りが、一陣の『風』に乗って少女の鼻腔をくすぐった。
(……この匂い、知ってる。パパの匂い、ママの匂い、そして……私が大好きだった、あの庭の匂いだ)
その温もりの香りに誘われるように、ルルの意識はゆっくりと、深い記憶の淵へと沈んでいった。
◆
次に目を開けた時、ルルの視線は地上数十センチの、低い場所にあった。
視界いっぱいに広がっていたのは、手入れの行き届いた芝生の深い緑と、色とりどりの大輪の花が咲き誇る、魔王城の王宮庭園。
空は突き抜けるように青く、耳を澄ませば遠くで兵士たちの勇ましい掛け声や、噴水の水の音が聞こえてくる。
そこに、彼女がいた。
「ルル、こっちへおいで。今日は少し、風が気持ちいいわね」
白いパラソルの下、透き通るような肌をした美しい女性がルルを呼んでいる。
(……ママ!)
彼女はいつだって、日の当たる白い長椅子に座っていた。長椅子の周りには彼女を囲うように、小さな花が咲き誇っている。
母親の膝にはいつも薄い毛布が掛けられていて、彼女が立ち上がってルルと追いかけっこをすることはない。
ルルは、母親の細い手を握るたびに、胸の奥がチリチリと焼けるような痛みに襲われていた。
(私の、せいなんだ)
幼い子供の耳は、大人が隠しているつもりでも、風に乗って運ばれてくる残酷な真実を拾ってしまう。
魔王の娘として生まれたルルの魔力が、あまりにも強大で、純粋すぎて。
まだ赤ん坊だった頃のルルを、愛情を込めて抱き上げた母親の繊細な体を、その「光」が内側から少しずつ蝕んでしまったのだということを。
母親は、ルルが五歳の時に死んだ。あの日も、今日のような温かな風が吹いていた。
母親は最後に愛娘の頬を撫でて、
「ルルは私が見つけた、たった一つのかけがえのない光よ。ママがいなくなっても、『風』になってずっとルルを見守っているからね」
と微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。
ルルは、自分が母親を壊したのだという罪悪感を、拭い去ることができなかった。
自分がもっと器用に、この荒れ狂うような魔力を制御できていれば。自分がもっと賢ければ、母親は今もここで、自分を呼んでくれていたはずなのに。
だからこそ、ルルは強くなりたかった。母親が最期まで愛してくれたこの世界を、父親と一緒に守れるような、立派な魔王になりたかった。
「……ぷち・ふぁいやー!」
庭の隅。ルルは一人で、指先を突き出して叫ぶ。意識を集中させ、体温が上がるのを待つ。お腹の奥にある熱い塊を、指の先へと導くイメージ。
けれど。……しん、と。
ルルの指先からは、何も生まれない。小さな火花どころか、温もりさえ宿らない。ただ、不格好に突き出したルルの指先を、慰めるように『風』が通り過ぎ、枯れた葉をカサリと揺らす。
「……どうして。どうして、私だけできないの」
城で働く魔族の子供たちは、三歳にもなれば指先で蝋燭を灯す。
魔王である父親も、勇者も、ルルが失敗するたびに「気にするな」と、優しい顔で彼女の頭を撫でてくれる。でも、その優しさが今のルルには、何よりも鋭い刃物のように突き刺さった。
(私は、パパの娘なのに。最強の魔王の跡継ぎなのに。ママを犠牲にしてまで生まれたのに……。一番簡単な「ぷち」さえ満足にできない、欠陥品なんだ)
ルルは、自分の小さな拳を芝生に叩きつけた。柔らかい芝生は痛みを吸い取ってしまい、ただ不甲斐なさだけが手に残る。
どんなに願っても、どんなに祈っても、魔法はルルに応えてくれない。
彼女の内側にある魔力は、外へと繋がる出口を見つけられないまま、ただ渦を巻いて自らを内側から焦がすだけだった。
「……ひっ、く……うわあああああん!」
堪えていた涙が、溢れ出した。誰もいない庭の片隅。ルルは膝を抱えて、声を上げて泣きじゃくった。
パパに顔向けできない。ママに申し訳ない。私は、魔王城で一番不幸せで、一番役立たずな子供なんだ――。
その時。泣きじゃくるルルの背中に、凍てつくような冷気と、鉄のような重みを持った「気配」が降り立った。
「――淑女が、そのような
低く、地這うような声音がルルの鼓膜を叩いた。
驚きで肩が跳ね、彼女は涙に濡れた顔を上げた。そこに立っていたのは、陽光を背負い、漆黒の軍服を一切の乱れなく着こなした一人の男だった。
キザキ・ベルフェゴール。魔王の腹心であり、魔王軍第十二軍団を率いる将軍。そして、城の魔族たちがその名を聞くだけで姿勢を正し、子供が泣き止むとさえ言われる、冷酷無比な「鬼教官」だ。
「……キ、ザキ。独りにして……どこかに行ってっ!」
しゃくりあげながら言い返すルルに、キザキは一歩も引かなかった。
彼は腰に差した軍刀の柄に手をかけたまま、氷のように冷たい眼差しで、彼女の足元に転がった焼け焦げてもいない枯れ葉を見下ろした。
「今のルル様は、己の不遇に酔い、無為に時間を浪費している我儘な子供に見えますが」
「なっ……! わがままじゃないよ! 私、一生懸命やってるもん! 何度も何度も、指が痛くなるくらいやってるのに……っ、できないんだもん!」
ルルは立ち上がり、泥のついた手で叫んだ。
感情に任せて叫んだ拍子に、鼻の奥がツンとして、また涙が零れそうになる。それを誤魔化すように、彼女はキザキの脚を力一杯叩いた。けれど、鍛え抜かれた彼の体は鉄板のように硬く、自らの手の方が痛くなっただけだった。
「ぷち・ふぁいやーさえ灯せない自分に、絶望していますか? それとも……その先にある上位魔法、『ふぁいやー』や『めが・ふぁいやー』、そのさらに先にある深淵に、一生手が届かないことを恐れているのですか?」
キザキの声は、淡々としていた。それが余計に、彼女の隠していた傷口を抉った。
「そうだよ! ぷちさえできないのに、その上なんて見えるわけないじゃない! パパや勇者様はあんなに凄いのに。私は、パパの娘なのに、火一つ出せない……。才能のない出来損ないだって、キザキだって思ってるんでしょ!?」
「左様です。今の貴女様は、紛れもなく出来損ないです」
否定を待っていたルルの心に、キザキの言葉が容赦なく突き刺さる。彼はルルの前にゆっくりと歩み寄ると、その鋭い眼光で彼女を射抜くように見つめた。
「ですが、ルル様。一つ勘違いをされている。才能とは、ただの入り口に過ぎません。扉を開ける鍵にはなっても、その先にある長く険しい道を歩くための『足』にはならない。才能だけで到達できる場所など、たかが知れている」
そして、こう続けた。
「その先にあるのは、光の届かぬ闇です。そこを歩くために必要なのは、羽ばたく翼ではなく、地べたを一歩ずつ踏みしめる『心の足腰』なのです」
「心の……足腰?」
「ルル様。貴女様がもし、その『先』が見えぬことに怯えているのであれば……。いっそ、上位魔法などすべて捨て置いてはいかがです?」
ルルは耳を疑った。魔王の娘として生まれ、世界最強の魔法を継承することを義務付けられた自分に、この鬼教官は何を言っているのだろうか。
「捨て置く……? そんなこと、パパが許さないよ。私は、立派な魔王にならなきゃいけないのに……」
「形ばかりの『立派さ』など無価値です。いいですか、ルル様。提案があります。貴女様は、この『ぷち』という名の魔法だけを、誰にも真似できないほど、極限まで磨き上げるのです。千回、万回、百万回。ただ一つの基本を、誰よりも愚直に、血を吐くような思いで積み重ねる。上位魔法に目を向けず、ただ目の前の一歩を完璧にする……。それこそが、闇の中を歩き抜くための唯一の灯火となります」
「でも、ぷち、だよ……? そんなの、誰だってできる基礎魔法じゃない。それをやったって、パパみたいに凄くはなれないよ」
ルルの呟きに、キザキは何も言わず、城の遠くにある訓練場を指し示した。そこには、公務の合間を縫って、朝の冷気の中で黙々と剣を振る勇者の姿があった。そしてその隣には、勇者のライバルである魔王が、汗だくになりながら基礎的な魔力練成を繰り返している。
世界で一番強いはずの二人が、誰よりも泥臭く、子供でも知っているような基礎訓練を、毎日欠かさず続けている。
「……見ての通りです。基礎とは一番『簡単』なのではありません。一番『重要』で『必要不可欠』なのです。あのお二方が、誰よりも強い理由をご存知ですか?」
「それは彼らが天才だからではない。誰よりも自分に厳しく、退屈な基礎を、世界の誰よりも積み重ねたからです。ルル様。貴女様は、最短の努力で
ルルは、何も言い返せなかった。早く火を出したい。みんなに「凄い」と言われたい。
そんな、見栄えの良い「結果」ばかりを追いかけて、その下にある分厚い努力の土台を、彼女は見ようともしていなかったのだ。
「……私。間違ってた」
ルルは、自分の小さな掌を見つめた。キザキの厳しい言葉は、彼女の甘えを切り裂き、同時に、暗闇の中に小さな、けれど消えない
「一歩、一歩……。毎日、積み重ねる……」
彼女は、自分の小さな掌を見つめた。
指先は土に汚れ、爪の間には泥が詰まっている。さっきまではそれが、才能のない自分を象徴する「無様なしるし」に見えていた。けれど、遠くで汗を流す魔王や勇者の背中を見た後では、この汚れさえ、彼らと同じ場所へ繋がるための、最初の足跡のように思えた。
「ねえ、キザキ。私……決めたよ」
ルルは、零れ落ちそうになる涙を、汚れた袖で力いっぱい拭った。
そして、真っ直ぐにキザキを見上げた。彼は相変わらず、一切の情を排したような冷たい鉄の仮面を被ったまま、彼女を見下ろしている。
「私、もう『凄い魔法』なんて欲しがらない。その代わり、この『ぷち』を、世界で一番……ううん、パパよりもキザキよりも、誰よりも上手に使えるようになるまで、毎日練習する。パパたちがやってるみたいに、一万回だって、百万回だって、毎日やるよ!」
ルルの宣言は、子供らしい、あまりに幼い意地だったかもしれない。
けれど、彼女の心の中にあった「焦り」という霧は、もう晴れていた。派手な魔法が使えないことを恥じる必要なんてない。ただ、教えられたことを、教えられた通りに、一歩ずつ。それが自分の戦いなのだと理解したから。
その時、ルルの言葉を聞いたキザキの表情が、微かに、本当に微かに動いた。
「……素晴らしい」
キザキは、魔族の誰もが震え上がるあの冷徹な声音を、ほんの少しだけ和らげた。彼はルルの前にゆっくりと跪き、私の目線に合わせて腰を下ろした。
「ルル様。貴女様はご存知ないかもしれませんが。世の多くの者たちは、自分の限界を勝手に決めつけ、あるいは他人から耳の痛い忠言を受ければ、そこに『認めたくない』という感情を混ぜて反発し、自ら歩みを止めるものです。己のプライドを守るために、真実から目を逸らす……。それは、天才と呼ばれる者たちでさえ陥る罠なのです」
キザキの手が、そっと彼女の小さな肩に置かれた。手袋越しであっても、彼の手の温かさが、ルルの不安を溶かしていく。
「ですが、貴女様は違う。貴女様は、尊敬する者の言葉を、一切の曇りなくそのまま受け入れ、ただ真っ直ぐに信じることができる。……『素直さ』。それは、何万もの高等魔法を操るよりも遥かに困難で、貴女様をいつか至高の場所へと導く、最強の資質なのです。私は、その美しさを何よりも誇りに思います」
彼は最後にこう紡いだ。
「いつか、最強の魔王に、そして最強の淑女となったルル様にお仕えできる日を楽しみにしております」
最強の資質。
母親や父親、そしてこの厳格な教官がルルを愛したのは、彼女が魔王の娘だからじゃない。ルルが、彼らの言葉を混じり気なく信じて、明日へ向かおうとする「心」を持っていたからだ。
「……私、がんばるね。キザキ。最強の淑女になるまで、しっかり見ててね? 約束だよ?」
ルルが鼻をすすりながら笑うと、キザキは初めて、微かに口角を上げた。それは他人なら見逃してしまうような、刹那の微笑。けれど、その瞬間に吹き抜けた一陣の『風』は、まるで母親がキザキの言葉に頷いたかのように、優しく、優しく、ルルの髪を撫でていった。
◆
――ガサリ。
その風の音で、ルルの意識は急激に現実へと引き戻された。
ゆっくりと瞼を開けると、視界に入ってきたのは、月明かりに照らされたコンビニエンスストアの、錆びた鉄骨が剥き出しの天井だった。
「……ふふっ。キザキ、私……まだ、ちゃんと覚えてるよ」
私は、段ボールの寝床の上で、独り言を漏らした。
40万年。光も音もない暗闇の中で、気が遠くなるほどの時間をルルが耐え抜けた理由。それは、彼女が強かったからじゃない。
「修行していれば、いつか会える」という父親の言葉と、「一歩を積み重ねなさい」というキザキの教えを、彼女がただ、素直に信じ続けたから。
それだけが、ルルの魔法だった。
「……おはよう、おじさん」
ルルは、傍らで待機していた円盤型のAIに向かって、まだ夢の余韻が残る顔で微笑んだ。機械仕掛けの青いレンズが、静かに彼女を見守っている。
[Error Log: Sentience]
……ルル様。貴女は、寝言で「キザキ、私、頑張ってるよ……」と呟き、涙を流されました。私のアーカイブにある、第十二軍団長キザキ・ベルフェゴールの最期の記録。
40万年前、シェルターの防衛戦。彼は、襲来した敵軍を分断するためにたった一人で囮役を務めました。魔力が枯渇してもなお、彼は分断した敵軍を全て葬り、深傷を負ったにもかかわらず、ルル様の棺のもとへ戻ろうとして、絶命したとされています。……その凄惨な記録を、私はまだ、貴女に伝えることができません。
「……おはようございます、ルル様。よく眠れましたか? さあ、今日は昨日よりも、少しだけ遠くまで『かくれんぼのヒント』を探しに行きましょう」
「うん! 私、今日もかくれんぼの修行、がんばるよ!」
私は元気よく立ち上がり、寝癖を直す。閉め切られた店内に、どこからともなく入り込んだ「あの日の庭の匂い」を運ぶ『風』と共に、私は緑の海へと歩き出した。
次の更新予定
2026年1月12日 19:36
40万年後に目覚めた寂しがり屋の魔王と、嘘つきAIの崩壊世界スローライフ 〜『人類はかくれんぼ中ですよ』というAIログには、「優しい嘘」が詰まっていた〜 駄駄駄 @dadada_dayo
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