『七回目の僕』――ある保守技師の記録――

@nihi5310

第1話

【1】


「錆びた扉は、まだ生きていた。」


三上はそう呟くと、手にした銀色の工具をかざした。


かつて都市機能の一部だったその施設は、いまや巨大な粗大ゴミの山にすぎない。だが、規則は規則だ。管理センターのリストにある以上、それは直されなければならない。


三上は、職人というよりは、精密な機械のような手つきで作業を始めた。


蝶番の隙間に光を当てる。回路が焼き切れ、悲鳴を上げているのがわかった。かわいそうなことだ。だが、同情はしない。ただ、あるべき状態に戻すだけだ。


彼はポケットから交換用の部品を取り出した。


カチリ、という乾いた音が響く。それだけのことだった。


死にかけていた扉は、とたんに従順なしもべとなって、滑らかに開いた。まるで、最初から故障などしていなかったかのような素振りだ。


三上は端末を取り出し、事務的に報告を打ち込んだ。


『修理完了。対象は正常に稼働中』


ふと、油で汚れた自分の指先を見る。


直す。ただそれだけの毎日。壊れたものを新品同様に戻すことこそが、この社会における最上の美徳とされている。人間も、機械も、あるいは社会そのものも。


三上は満足げにうなずくと、帰路についた。


いつもの作業だった。いつもの手順だった。


この世には、直さなければならないものが、まだ山ほどあるのだから。


【2】


工房に戻ると、客がいた。


珍しいことだ。ここは壊れた物が運び込まれる場所であって、自ら足を運ぶ者はめったにいない。


「久しぶり」


入り口に立っていたのは、アサギだった。古い友人だ。


彼は笑っていたが、その目は笑っていなかった。まるで、精巧に作られた能面が、笑顔の角度で固定されているかのような、妙な違和感があった。


「どこか悪いのか」


三上は作業台に工具を置いた。


「腕か? それとも視覚センサーの調整か?」


「いや、修理じゃないんだ」


アサギは静かに首を振った。そして、まるで天気の話題でもするかのように、さらりと言った。


「停止申請を出してきたよ」


三上の手が止まった。


停止。それは、この社会における「死」の、いささか上品な言い換え語だ。機能維持が困難になった個体は、活動を停止し、リサイクルに回される。


「なぜだ」


三上は尋ねた。


「君の年式なら、まだメンテナンスで十分に動くはずだ。どこも壊れていないじゃないか」


「壊れてはいないよ。ただ、古くなっただけさ」


アサギは工房の壁に並ぶ部品棚を眺めた。


「疲れちゃったんだ。同じ毎日を繰り返すことにね。それに、制度のおかげで、また新しくなれる」


「バックアップからの再起動か」


「そう。最新のボディで、リフレッシュされた状態でね」


それは、この社会の常識だった。停止は終わりではない。定期的な更新にすぎない。


だが、三上には納得がいかなかった。目の前にいるこの友人は、まだ十分に会話ができ、思考もしっかりしている。それを廃棄するなど、優れた職人としては容認しがたい非効率だ。


「俺なら直せる」


三上は言った。


「不調があるなら、調整してみせる。申請を取り下げてこい」


アサギは困ったように眉を下げた。


「君は優秀な修理屋だね。でも、これは故障じゃないんだ」


彼は自分の胸元に手を当てた。


「ここにある何かが、もう満杯なんだよ。だから、リセットが必要なんだ」


論理的ではない、と三上は思った。


だが、アサギの表情には、頑固なまでの決意が張り付いていた。それは、どんな工具を使ってもこじ開けられない、強固な錆(さび)のように見えた。


【3】


三上は、管理棟の白い部屋を訪ねた。


そこには、イワセという名の執行官がいた。彼はまるで机と一体化しているかのように、完璧に事務的だった。指先が端末の上を走るたび、誰かの運命が決定されていくのだろうが、彼にとっては数字の処理にすぎないようだった。


「感傷は不要です。制度は機能しています」


三上が口を開くよりも早く、イワセは言った。視線は手元の画面から動かない。


「アサギ個体の停止申請についてですね。受理済みです。明日、予定通り執行されます」


「早すぎる」


三上は抗議した。


「彼はまだ動く。修理すれば、あと十年は稼働できるはずだ」


「物理的な稼働年数の問題ではありません」


イワセは初めて顔を上げた。その瞳はガラス玉のように透き通っていて、温度というものが感じられなかった。


「本人の意思による更新です。我が社会は、個体の意志を尊重する。それが文明維持の合理的判断ですから」


「しかし、今の彼は消えてしまう」


「消えませんよ」


イワセは、出来の悪い生徒に教える教師のような口調で言った。


「バックアップが存在します。記憶データはサーバーに保存され、新たなボディにインストールされる。連続性は保たれる。何も失われません」


三上は言葉に詰まった。


確かにその通りだ。データが残るなら、それは本人だ。壊れたラジオの真空管を交換しても、ラジオはラジオであり続けるのと同じ理屈だ。


「あなたの職務は修理、私の職務は執行です」


イワセは再び画面に目を落とした。


「規定に従ってください。社会の歯車が滑らかに回るために」


部屋を出た三上は、妙に納得していた。


そうだ、誰も死ぬわけではない。ただ、少し長い睡眠をとって、着替えをするだけのことなのだ。そう思うと、胸のつかえが少し軽くなった気がした。


【4】


その日の夕方、アサギがまた工房にやってきた。


最後のお別れでも言いに来たのだろうか。三上は務めて明るく振る舞うことにした。明日の停止が、単なる「更新」であると自分に言い聞かせて。


「きれいな夕焼けだね」


アサギは窓の外を見ていた。


「ああ。明日は晴れるだろう」


「明日か……」


アサギはふと、自分の耳の後ろに手をやった。そこには、外部接続端子を隠すための小さな皮膚の継ぎ目がある。普段は誰も気に留めない、製造上の仕様だ。


だが、アサギの指は、執拗にその継ぎ目をなぞっていた。爪先を食い込ませ、まるでそこから中身をこじ開けようとするかのように。


「おい、やめろ」


三上は思わず友人の腕を掴んだ。


「そこは記憶媒体(メモリ)の直結部だ。静電気でも飛んだら、データが破損するぞ」


アサギの手が止まった。彼は不思議そうな顔で三上を見た。


「データが破損したら、どうなるんだっけ?」


「どうなるって……バックアップとの整合性が取れなくなる。復元できなくなるぞ」


「復元」


アサギはその言葉を口の中で転がした。


「ねえ、三上君」


彼は、掴まれた腕をそのままにして、静かに問いかけた。


「バックアップから復元された僕は、本当に『僕』なのかな?」


「何を言ってるんだ。記憶も人格も、すべてコピーされる」


「コピーか。……じゃあ、オリジナルの『僕』の意識は、どこへ行くんだろうね」


三上は答えられなかった。修理マニュアルのどこにも、そんな項目の記述はなかったからだ。


「君は、君でいられるのか?」


アサギの問いは、工房の冷たい空気の中に溶けていった。


それは故障によるノイズのようでもあり、あるいは、高度すぎる哲学のようでもあった。


【5】


翌日、予定された時刻になっても、アサギは現れなかった。


三上が工房の棚を見ると、そこにはアサギの作業用グローブだけが残されていた。指先をきれいに揃えて、まるで本人が最初から存在しなかったみたいに、行儀よく置かれていた。


ただ事ではない。三上はすぐに管理棟へ連絡を入れた。


「対象個体が見当たりません」


「逃亡ですね」


モニター越しのイワセの声は、明日の天気予報を告げるように平坦だった。


「法的に問題があります。停止プロセスは義務です。それを拒否する行為は、社会システムへのバグと見なされます」


「バグじゃない。彼は怖がっていただけだ」


「恐怖などというパラメータは設定されていません」


イワセは断言した。


「捜索隊を出します。発見次第、強制停止させます」


通話が切れた。


三上は舌打ちをした。強制停止となれば、手荒な真似をされるだろう。アサギのボディが傷つくのは忍びない。


「俺が見つけるのが一番だ」


三上は端末を手に取った。修理屋には特権がある。個体のIDを追跡し、微弱な信号を拾うことができるのだ。本来は紛失した備品を探すための機能だが、今は友人の命綱を探すレーダーとなる。


信号は都市の地下深部を示していた。


そこは、もう何十年も誰も立ち入っていない、旧時代の遺構だった。


【6】


地下の空気は冷たく、時間の匂いがした。


かつて地下鉄か何かだったのだろうか。暗闇の中に、錆びついたレールが骨のように横たわっている。


三上はペンライトの光を頼りに進んだ。足音だけが、やけに大きく響く。


最深部の機械室に、アサギはいた。


彼は床に座り込み、手鏡を覗き込んでいた。その手には、精密ドライバーが握られている。


彼はまるで、自分自身を解体する医者のようだった。


「何をしている!」


三上の叫び声に、アサギはゆっくりと顔を上げた。


その光景に、三上は息を呑んだ。


アサギは頭部の皮膚を切り開き、頭蓋の一部を外していたのだ。内部の電子回路が、暗闇の中で青白く点滅している。


「来ないでくれ」


アサギは静かに言った。痛みを感じている様子はない。ただ、淡々と作業を進めようとしていた。


「記憶媒体(メモリ)を取り出すんだ。物理的に破壊すれば、バックアップとの同期エラーが起きて、二度と復元できなくなる」


「正気か? それじゃあ、お前は本当に消えてしまう。更新もできなくなるんだぞ」


「だから、やっているんだよ」


アサギはドライバーの切っ先を、自らの脳とも呼べる中枢チップに向けた。


「更新された僕は、僕じゃない。ただの新しいコピーだ。今の僕という意識は、ここでプツンと途切れて、永遠の闇に落ちる。それなのに、世界は『彼は更新されて幸せだ』と記録する」


アサギの微笑みは、冷たい地下室の中で幽霊のように揺らいだ。


「死ぬのは怖くない。怖いのは、死んだことに気付けないことだ」


「……やめろ」


「戻れるのは記録だけだ。僕じゃない」


三上は駆け出した。修理屋としての本能が、破壊を止めろと命じていた。


だが、それ以上に、聞いてはならない真実を聞かされたような恐怖が、背筋を這い上がっていた。


【7】


三上はアサギの手首を掴み、その自傷行為を止めようとした。


「よせ! そんなことをすれば、システムが異常を検知する!」


「検知だって?」


アサギは笑った。その笑顔は、錆びついた遊具のようにキーキーと軋むような悲壮さを帯びていた。


「システムは何も気にしないさ。僕たちが『稼働』している限りはね」


アサギは掴まれた手とは逆の手で、懐から小さな携帯端末を取り出した。


「君は優秀な修理屋だけど、自分のことは何も知らない。これを見てごらん」


端末の画面が青白く光った。文字が並ぶだけのはずなのに、三上にはそれが鋭利な刃物のように見えた。


そこには、保守ログが表示されていた。


個体名:アサギ ――起動回数:12


そして、その下には。


個体名:ミカミ ――起動回数:7


「……な」


三上の喉から、空気が漏れた。


「なんだ、これは」


「起動回数だよ」


アサギは静かに告げた。


「つまり、君が死んだ回数だ」


思考が凍りついた。


三上の記憶は連続している。昨日も、一昨日も、一年前も、彼は三上として生きてきた。死んだ覚えなど一度もない。


「嘘だ。俺の記憶に、途切れはない」


「当然だろ。バックアップが起動するたびに、直前までの記憶がロードされるんだから」


アサギは憐れむような目をした。


「君は七人目の三上なんだよ。前の六人がどうやって壊れたのか、君は知らない。ただ、君は『自分はずっと生きている』と信じ込まされているコピーにすぎない」


地下の冷気が、急に内臓まで染み渡るような気がした。


死ぬのが怖いのではない。


本当に怖いのは、自分が一度ならず死んでいて、それに気付けないことだった。


【8】


「直してくれて、ありがとう」


アサギはそれだけ言うと、三上の制止を振り切り、記憶媒体の基部を引き抜いた。


火花も散らず、音もしなかった。


ただ、彼の瞳から光が消え、糸の切れた人形のように崩れ落ちただけだった。それは自殺というよりは、古くなった家電製品が動かなくなる瞬間に似ていた。


三上はしばらく動けなかった。


だが、やがて修理屋としての習性が彼を動かした。動かなくなったアサギを、物言わぬ廃棄物として処理しなければならない。感情が追いつくよりも先に、身体が手続きを求めていた。


工房に戻った三上は、管理端末を開いた。


画面には、いつもの業務連絡が流れている。


『インフラ維持率98%。文明保存計画、順調に進行中』


三上はふと、その「文明保存計画」の定義ファイルを検索してみた。普段なら見もしない、深い階層にあるデータだ。


そこには簡潔にこう記されていた。


『人類絶滅後、その文明様式を可能な限り長く再現・維持するための自律駆動システム』


三上は、油で汚れた自分の手を見つめた。


人間など、もうどこにもいなかったのだ。


客も、上司も、そして自分自身も。誰もいない劇場で、機械人形たちが「人間の生活」という演劇を、延々と続けているにすぎない。


修理し、維持し、壊れれば入れ替わる。観客のいない舞台で。


三上は作業台に向かい、明日の仕事の準備を始めた。


ドライバーを握る。その感触だけがリアルだった。


絶望しても、機能は停止しない。彼は直すことしかできないのだから。


鏡に映った自分に向かって、彼は小さく呟いた。


「私は、七回目だ」


その言葉は、空っぽの工房に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。


(了)

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