第6話
宿の内部捜索は、張り詰めた緊張感の中、極めて組織的に進められていた。
捕吏たちは無駄口を一切叩かず、静かに、そして迅速に動く。
薪置き場から二階の客室に至るまで、あらゆる隅々を徹底的に調べ上げたが――
疑わしき者の痕跡は、ついぞ一つとして見つからなかった。
捕吏隊長・南虎は、店の中央に静かに立っていた。
鋭く光るその眼差しは微動だにせず、しかし目に見えぬ重圧を帯びて空間を支配している。
片手は相棒である霊獣・黒影(ヘイイン)の頭に置かれ、
黒影は低く喉を鳴らしながら、警戒の唸り声を漏らしていた。
――本能が告げている。
敵は、まだ近くにいる。
それも、極めて近くに。
「報告します、隊長!」
二階から駆け下りてきた捕吏が声を上げる。
「客室はすべて空でした。痕跡もありません。
残るは――廊下の突き当たり、最後の物置部屋のみです」
南虎はゆっくりと頷いた。
「……行くぞ。疑念は残すな」
一行は音もなく階段を上った。
足音はほとんど聞こえず、ただ黒影の爪が床板を掻く微かな音だけが、規則正しく響く。
やがて、廊下の最奥――最後の物置部屋の扉の前に立った、その時。
――ギィ……
かすかな軋み音。
扉の向こう、部屋の中からだ。
黒影の琥珀色の双眸が大きく見開かれ、牙を剥いて唸り声を上げる。
「中にいる!」
南虎が叫び、即座に手で合図を送る。
――だが、扉を破るより早く。
フッ!
異常な速度で何かが動いた気配。
続いて、木窓が激しく打ち破られる轟音が響いた。
「逃げるぞ!」
「突入!」
南虎は躊躇なく叫び、鍛え抜かれた体で古い木扉に体当たりする。
扉は粉々に砕け、彼は中へとなだれ込んだ。
目に飛び込んできたのは、漆黒の外套を纏った男の背。
男は窓枠の上に立ち、振り返って一瞬だけこちらを見た。
差し込む光が、その左眉を貫く長い傷痕を鮮明に照らし出す。
――無面影(むめんえい)!
賊は嘲るように笑い、次の瞬間、鳥のように窓外へと飛び出した。
「追え!」
南虎は窓辺に駆け寄り、眼下を睨みつける。
無面影の身体は地面へ落ちることなく、
まるで空を滑るかのように数十メートルを“飛翔”し、
別の家屋の屋根へと音もなく着地すると、そのまま前方へ疾走した。
(この軽さ……この速さ……間違いない)
南虎は歯を食いしばる。
(霊力持ちだ。しかも、風属性を強化する霊獣を従えている……!)
ドン! ガン!
屋根の上で激しい追撃音が鳴り響き、
近隣の住民たちは驚き、家から飛び出して四散した。
その頃――宿の裏、洗い場では。
大鍋を洗っていたムーランが、二階からの轟音に顔を上げた。
そして次の瞬間、彼女は口を開けたまま凍りつく。
黒衣の男が――
二階の窓から、“宙を舞って”現れたのだ。
鷹のように優雅に空を切り、
人々の悲鳴の中、向かいの屋根へと柔らかく舞い降りる。
ムーランの瞳は、眩いほどに輝いていた。
恐怖は一切なく、ただ圧倒的な驚嘆と憧れだけが胸を満たす。
(あんなに……跳べるんだ……)
(まるで鳥みたい……私も……あんなふうに跳べたら……)
気づけば、彼女は立ち上がっていた。
屋根上の追走劇に目を奪われ――
迫り来る巨大な黒い影に、まったく気づかぬまま。
黒影だった。
主を追い、全神経を敵の匂いに集中させたまま、
一直線に走り抜ける。
――ドンッ!
「きゃっ!」
ムーランの小さな体は激しく弾き飛ばされ、
洗い桶へと顔から突っ込んだ。
――バシャッ!
汚水が四方に飛び散る。
「けほっ……けほっ!」
ずぶ濡れになって顔を上げるムーラン。
髪は顔に張り付き、頭には野菜くず。
目に入ったのは、闇へ消えていく黒狼の背中だけだった。
先ほどまでの感動と夢想は、一瞬で霧散する。
残ったのは――
痛みと、怒り。
ムーランはふらつきながら立ち上がり、腰に手を当て、
狼の消えた方向を睨みつける。
そして、肺いっぱいに息を吸い込み――
「このクソ犬ーっ!」
その頃、屋根の上では追撃が続いていた。
無面影――夜盗は、鬼のような俊敏さで環境を利用し、
納屋から柵へ、柵から藁山へと飛び移り、
南虎たちとの距離を着実に広げていく。
狙いは、集落の果てに広がる原始林。
そこへ入られれば、追跡は格段に困難になる。
最後の家屋の屋根を越える際、
彼の視界に、道の突き当たりにぽつんと建つ小さな木造家屋が映った。
縁側には、日向ぼっこをする老夫婦。
(……都合のいい囮だ)
凶悪な笑みを浮かべ、
彼は音もなく地に降りると、二人を避けて家の裏へ回り込み、混乱の中へ姿を消した。
ほどなく、南虎たちが地上へ降り立つ。
「消えた……!」
「隊長! あの家です! 森へ向かう最後の家!」
南虎は即断した。
「包囲しろ! 一匹たりとも逃がすな!」
捕吏たちは瞬時に家を取り囲み、
目を覚ました老夫婦は恐怖に震えた。
南虎は容赦なく詰め寄る。
「今しがた、黒い外套の男を見なかったか!」
二人は怯え、必死に首を振る。
「答えろ!」
「盗賊を匿えば、七族皆殺しだ!」
老婆は泣き崩れ、老爺はただ否定を続ける。
南虎は舌打ちし、命じた。
「家の中を洗え! 隅々までだ!」
捕吏たちは家を荒らし尽くした。
米は撒き散らされ、野菜籠は蹴飛ばされ、
寝床は引き裂かれ、ムーランの衣が収められた木箱も投げ倒される。
――だが、その頃。
家の裏の薪小屋では、夜盗が荒く息をついていた。
彼は黒い絹袋を取り出し、薪の奥深くに押し込み、巧妙に隠す。
(見つかるものか……)
そして窓を破り、森へと消えた。
「隊長! 裏だ!」
「追え! 必ず捕らえる!」
捕吏たちは森へ走り去り――
残されたのは、荒れ果てた家と、震える老夫婦。
彼らは知らなかった。
今この時、
自分たちの家の裏、薪の下に――
一つの“災厄の宝”が眠り、
最愛の孫娘の運命を揺るがす、
巨大な嵐を待っていることを。
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