かわいいウサギ獣人の、優しくない日常

竹屋 兼衛門

第1話 ――だから、暇だった。

草の匂いは、いつだって同じだった。


甘い若草。

乾いた草束。

石の水。

干し草の寝床。


それらが揃っていることに、私は何の驚きも感じなかった。

昨日も、今日も、たぶん明日も変わらない。


――だから、暇だった。


ここには、時間を測るものがない。

朝と夜の違いは、光の色でなんとなく分かるだけだ。


お腹が空けば草が運ばれ、

眠くなれば干し草に身を沈める。


それ以上のことは、起きない。


私は、前の世界の記憶を持っている。

人間だった頃のことだ。


忙しくて、騒がしくて、息が詰まる世界。

それでも、選ぶことはできた。

失敗しても、やり直すことができた。


だから私は、願った。


次は、もっとやさしい世界がいい。

かわいくて、穏やかで、絵本みたいな森の中で生きたい。


――ショコラウ●ギみたいになりたい。


ふわふわで、丸くて、

誰かに大事にされる存在。


かわいい世界の中なら、

きっと、息ができると思った。


そして私は、目を覚ました。


白い毛。

長い耳。

小さな前足。


ウサギ獣人として、生まれていた。


最初は、とても嬉しかった。

思っていたより、ずっと小さくて、やわらかい。


でも、時間が経つにつれて気づく。


ここでは、何も選べない。

生き方も、役割も。


「ほら、食事の時間だよ」


隣の兄弟が、私の耳をつついた。

同じ毛色、同じ大きさ。

区別は、ほとんどつかない。


「今日は噛み甲斐のある草が多い日だね」


私がこぼした草を拾ってくれながら、そう言って笑う。


その笑顔を見て、胃の奥が、きゅっと縮んだ。


その日の夕方、区画の端で大人たちが話していた。


声は低く、でも明るい。

ひそひそというより、落ち着いた喜びの音だった。


「そろそろ、旅立ちの日だね」

「見て。毛並みも、体つきも、いい感じでしょう」


誇らしげに胸を張る。


「はぁ……うらやましいな」

「僕は最近、いくら食べても体重が増えないんだ」


耳が、少し伏せられる。


「それじゃ、選んでもらえないかもしれない」


すぐに、別の声が重なった。


「まあまあ、そんなに落ち込まないで」

「明日、司祭様のところでお祈りしましょう」

「きっと、祝福をくださるわ」


空気が、やわらぐ。


「そうそう、司祭様のところで」

「司祭様も、今度こそ……ね」


誰かが、静かにうなずいた。


「そうだね」

「司祭様のためにも、お祈りを」


それは、願いというより、

昔から続いてきた習慣みたいな言葉だった。


私は、草を噛みながら、その会話を聞いていた。


旅立ちの日。

選ばれる。

祝福。


そのどれもが、なぜか胸の奥に引っかかった。


その夜、干し草に身を沈めながら、考える。


旅立つって、どこへ?

何をするんだろう?


答えは出ないまま、意識が落ちた。


翌朝。


「ほら、起きて。食事の時間だよ」


兄弟の声で目を覚ます。

草の器が運ばれてくる時間だ。


器の中の草は、青くて新しい。

噛めば、少し甘い。


でも、飲み込みにくい。


喉の奥が、きゅっと縮む。

うまく飲めない子もいる。


「大丈夫だよ」


大人の声がする。


「ちゃんと育てば、いいことがある」


いいこと。


その言葉が、耳の奥に残った。


食事が終わると、大人たちは集まり、

一つの方向へ歩き出した。


私は、その後ろを少し遅れて歩いた。

理由は、特にない。

気づいたら、足がそちらを向いていただけだった。


小さな部屋の前で、大人たちは立ち止まる。

白い布が垂れ下がり、外と隔てられている。


「では、司祭様」

「明日、また」


短く頭を下げて、戻っていく。

誰も、中には入らない。


布の向こうから、声がした。


「……子どもが、来ているね」


年老いた、やわらかな声。


私は、布の前で立ち尽くす。


「おいで」


促されて、一歩、踏み出した。


中は、広くはなかった。

干し草と、水桶。

それから、小さな台。


白い布を肩にかけたウサギ獣人が、そこにいた。


年老いた女性だった。

毛は薄く、ところどころ白い。

片方の耳が欠けている。


顔には、火傷の跡が残っていた。

毛が生えず、皮膚が少し引きつれている。


それでも、目は穏やかだった。


「……司祭さん」


私は、そう呼んだ。


司祭は、ゆっくりと私を見る。

その目は、やさしい。

けれど、どこか遠い。


「ここで育つ子はね」


静かな声だった。


「命を、大きくするために生まれる」


私は、うなずいた。

それは、知っている。


「大きくなった命は、巡っていく」


巡る。


「人間さまの恵みになるんだよ」


その言葉の意味を、

私はすぐには理解できなかった。


でも――

胸の奥が、ひやりと冷えた。


「……私たちって」


言葉が、喉に引っかかる。


司祭は、少しだけ首を傾げた。


「……食べるために生きる子も、いる」

「そして、食べてもらうことで巡る命も、ある」


やさしい声だった。

まるで、当たり前のことを話すように。


その瞬間、

世界が、大きく音を立て…静かになった。


私は、分かった。


ここで私は、

食べる側ではない。


この体は、

いつか――人間に、食べられる。


息が、うまく吸えなかった。

ここも息が詰まる世界だった。


司祭は、何も言わない。

ただ、そこに立っている。


私は、干し草の区画へ戻った。

兄弟たちは、もう眠っている。


小さな体。

寄り添う温もり。


かわいい、と思ってしまう自分が、

ひどく嫌だった。


元々、人間だった私には、

人間に食べられることを喜ぶなんて、どうしてもできない。


祝福なんかじゃない。

役目なんかじゃない。


――それでも。


私は、生き残る。


どうやってかは、まだ分からない。

けれど、

ここで終わるつもりはなかった。


私は、目を閉じる。


草の匂いは、いつだって同じだった。


でも、

もう「暇だ」とは、思えなかった。


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2026年1月12日 19:00
2026年1月13日 19:00
2026年1月14日 19:00

かわいいウサギ獣人の、優しくない日常 竹屋 兼衛門 @takeya-kaneemon

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