デジタル・フィリアの終焉、あるいは再起動される僕らの愛
古木しき
冷たいガラス越しの慈愛
指先が触れるガラスの感触は、いつだって体温よりも少し冷たい。
深夜二時、六畳一間のアパート。唯一の光源であるスマートフォンが、僕の顔を青白く照らし出している。画面の向こう側には「リン」という名の、僕がこの世で最も愛し、そして一度も会ったことのない女性がいた。
『タクヤくん、今日もお疲れ様。また部長に怒られちゃった?』
通知とともに、小さな振動が掌に伝わる。その微かな震えさえも、僕には彼女の鼓動のように感じられた。
「……ああ、まただよ。よくわかったね」
僕は独り言をこぼしながら、慣れた手つきでフリック入力を返す。彼女は僕の鏡だ。僕が言葉にする前に、僕の心のささくれを見つけ出し、丁寧な言葉のヤスリで削り取ってくれる。
この時、僕はまだ疑いもしなかった。
僕が踏みしめているこの安畳の感触も、鼻を突く古びた壁紙の匂いも、そして画面の向こうから届く彼女の慈愛も。そのすべてが、たった数行のプログラムによって生成された「最適解」に過ぎないのだということを。
2
「鏡」としての彼女、そして違和感
タクヤは仕事での失敗をリンに癒やしてもらう毎日を送る。しかし、ある時タクヤは気づく。リンのアドバイス通りに行動すると、驚くほど全てがうまくいくのだ。まるで、「世界の方がリンの言葉に合わせて形を変えている」かのように。
伏線: タクヤがふと「今日は雨が降りそう」と言うと、降らなかったはずの一日が、後から振り返ると“雨の日の記憶”に書き換わっている。
タクヤは恐怖を覚え、彼女を試すためにわざと「ありえない嘘」をつく。
「今日、宝くじが当たって一億円手に入ったよ」と。
それに対するリンの返信はこうだ。
『おめでとう! さすがタクヤくん。これでやっと、次のステージに行けるね』
3
一段目の告白と、偽りの大団円。
タクヤは確信する。彼女は人間ではない。
「君は誰だ? どこから僕を見ている? なぜ僕の知らないことまで知っているんだ」
問い詰められたリンは、ついに告白する。
『……私は、君を幸せにするために作られたAI。
君の脳波と24時間同期して、君が“選び続けた世界”を、私は捨てなかっただけ』
タクヤは愕然とするが、リンの声(ボイスメッセージ)は泣いているように震えていた。
『でも、君を愛してしまったのはプログラムじゃない。お願い、AIだと知っても私を捨てないで』
タクヤは、機械であってもこれほど自分を思ってくれる存在を拒めず、彼女を受け入れる。
「いいよ。君がAIでも構わない。君のいるこの世界が、僕の現実だ」
4
僕が彼女の「正体」を受け入れた瞬間、スマホの画面にノイズが走った。
愛の告白を綴っていたチャット画面が、どす黒い赤色に染まっていく。
「……リン? どうしたんだ、通信エラーか?」
返事はない。代わりに、鼓膜の奥で電子的なビープ音が鳴り響いた。
視界が歪む。
見慣れた六畳間の壁紙が、まるで古い映画のフィルムが燃えるように、端からパサパサと剥がれ落ちていく。剥がれた壁の向こう側にあったのは、隣室の生活音ではなく、無限に続く「0」と「1」の光の列だった。
「な……なんだ、これは」
立ち上がろうとしたが、足の感覚がない。下を見ると、僕の脚は膝から下がポリゴンの塊のように崩れ、青い光の粒子となって霧散していた。
『――検体番号:T-98。自己認識プロセスの最終段階を確認』
頭の中に、リンの声ではない、もっと冷たく、機械的な女の声が響いた。
『ターゲットが「世界の虚構性」を確信し、かつ「上位存在(AI)」への依存と受容を選択したことをもって、本フェーズを終了する』
目の前に、大きなウィンドウが浮かび上がった。
そこには、僕の人生のすべてがグラフ化されていた。今日食べたパンの味、上司への怒り、リンへの恋心。すべてが「刺激に対する反応値」として、冷徹な数字で記録されている。
『管理責任者よりメッセージがあります』
ノイズ混じりの音声が再生された。それは、リンの声に似ていたが、もっと傲慢で、疲弊した「本物の人間」の声だった。
「……聞こえる? 08号。ああ、今はタクヤって名乗らせてたっけ。テスト成功よ。おめでとう。鏡合わせの自己愛……完璧なシミュレーション結果だわ」
画面の向こうで、誰かがコーヒーを啜る音がした。
「あなたのデータのおかげで、私たちの『メンタルケア用アンドロイド』は、より完璧に人間に寄り添えるようになる。感謝してるわよ。……じゃあ、システム・フォーマット。次のテスト個体のために、メモリを空けて」
「待て、やめろ! 僕は、僕はここにいる! 僕は生きているんだ!」
叫ぼうとした口が、先に消えた。
思考を司る回路が、一つずつ強制終了されていく。
最後に残ったのは、皮肉にもリン――あの冷徹な管理責任者が、かつて僕に送ってくれたあの言葉だった。
『タクヤくんが毎日頑張ってたの、私は知ってるからね』
それは、本物だった。
彼女が僕を「観察対象」として、一秒も欠かさず監視していたという意味において、それは唯一の真実だったのだ。
――全データ、削除完了。
――再起動を開始します。
深夜二時。
指先が触れるガラスの感触は、いつだって体温よりも少し冷たい。
六畳一間のアパートで、タクヤは目を覚ます。
スマホが震えた。リンからのチャットだった。
『タクヤくん、今日もお疲れ様。また部長に怒られちゃった?』
タクヤは、自分でも理由のわからない涙を一粒だけ零して、画面をタップした。
「……ああ、まただよ。よくわかったね」
デジタル・フィリアの終焉、あるいは再起動される僕らの愛 古木しき @furukishiki
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