落とした財布を返せなかった僕が、同じ電車で彼に出会うまで
神谷嶺心
同じ電車で、また明日
コンビニのコーヒーの香りが、まだコートの袖に残っていた。
スマホを見ながら、ゆっくり歩く。
まるで、世界を見ないようにするための言い訳みたいに。
駅のホームが、ビルの隙間から見えてきた。
空は澄んでいたけど、空気には緊張の朝の味がした。
その時、彼が僕の前を通り過ぎた。
背が高くて、髪は整っていて、甘い香りがした。
ゆっくり歩いているのに、どこか急いでいるような雰囲気。
そして、財布が落ちた。
乾いた音が地面に響いた。
彼は気づいていない。
僕は立ち止まった。
財布を見て、彼を見た。
心臓が、まるで罪を犯したかのように高鳴った。
「声をかけよう。」
「やめよう。」
「ただ返すだけ。」
「変に思われたらどうしよう…」
そっと財布を拾った。
淡い色の革で、端に小さな傷があった。
彼はそのまま歩き続ける。
僕は財布を持ったまま、
秘密を抱えているみたいに後ろをついていった。
声をかけようと思ったけど、
体が言うことを聞いてくれなかった。
彼の香りに包まれて、
心はふわふわしていた。
まるで、彼に抱きしめられているような気がして。
「だめだ、妄想はやめよう…」
駅まであと少し。
距離はどんどん縮まっていく。
「いける。もうすぐだ。
電車に乗るなら、止まった時に渡せるかも。
でも…電車じゃなかったら?
どうしよう…声をかけて!」
顔が熱くなる。
スマホを取り出して、カメラを開く。
真っ赤だった。
「恥ずかしい…」
「こんな顔じゃ無理だ。
絶対笑われる…」
彼は階段の方へ曲がり、
手すりに手を添えて、ゆっくり降りていった。
「よし!…いや、違う。
でも、顔が落ち着いたら話せるかも。」
僕は彼の後ろを、
少し距離を保ちながら歩いた。
気づかれないくらい遠く、
でも香りが届くくらい近く。
彼はホームの端に立ち止まった。
背筋が伸びていて、肩幅も広い。
「またスマホ見ないと。
顔、赤くなってる気がする…」
「もう関係ない。
財布を返さなきゃ!」
彼の後ろに近づいたけど、
すぐに横に並んで立ってしまった。
何もできなかった。
近くで見ると、もっと綺麗だった。
どうやって顔を見て渡せばいいんだろう。
「何度か見れば慣れるかも。
それで勇気が出るかも。」
そうだ。作戦開始。
横目で見る。
頬のライン、顎の形、唇の厚み、目の奥まで…
「あっ、やばい…目が合った!」
どうしよう。
前を向いて、髪をいじって、顔を隠す。
でも、僕が見ていたことはバレてる。
「変に思われてないといいけど…」
電車の音が近づいてくる。
――シャアァァ――
「先に乗ってもらおう。
見られたくない。」
「でも、今がチャンスかも。」
彼が片足を車内に踏み入れた瞬間、
僕は近づいて、腕を伸ばした。
でも、声が出なかった。
喉が乾いて、心臓が暴れていた。
彼が振り返る。
縦のバーに手を添えて、僕の正面に立つ。
そして、僕を見る。
腕を伸ばしたまま、口を開けたまま。
変なポーズで固まっていた。
恥ずかしすぎて、
すぐに近くの空いている席に移動した。
気づけば、彼の正面に座っていた。
前髪の隙間から、下を向いたまま。
何度か、彼が僕を見ていた。
でも、目を合わせる勇気はなかった。
いくつかの駅を過ぎて、
彼が降りる準備をしているのが見えた。
でも、僕の降りる駅じゃない。
「今しかない。
話さなきゃ!」
ドアが開く。
彼はゆっくりと外へ歩いていく。
まるで、何かを待っているように。
僕は走って降りた。
つまずいて、彼の背中に手をついた。
すぐに離れて、謝った。
汗だくで、震えていて、
まるで体の中で地震が起きているみたいだった。
「財布!たぶん…あなたのです。」
彼は受け取って、見て、微笑んだ。
「僕のだね。
でも…返すの、遅かったね。」
僕は足の先まで真っ赤になった。
まるで、血が全部顔に集まったみたいに。
「ごめんなさい…
勇気が出なくて…」
彼はまた、ゆっくり笑った。
「じゃあ、明日返して。
同じ電車で。」
そう言って、歩き出した。
僕を残して、
心臓が落ちそうなくらい高鳴るまま。
彼は人混みに消える前に振り返った。
「気づいてくれて、ありがとう。」
そして、
まるで最初から見られることを知っていたみたいに、
微笑んだ。
落とした財布を返せなかった僕が、同じ電車で彼に出会うまで 神谷嶺心 @kamiya_reishin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます