第1章第5節 泥濘の隠れ家と、美しき騎士の勘違い

 王都の北側に広がる貧民街(スラム)。

 腐敗と停滞が支配するこの場所に、場違いなほど高級な黒塗りの馬車が滑り込んだ。

 車輪が泥を跳ね上げるたび、道端に座り込んでいた浮浪者たちが、獲物を見るような鋭い視線を向ける。

 彼らにとって、貴族の馬車は「金蔓」か「敵」のどちらかでしかない。


 馬車の中で、レン・クロウリーは小窓の隙間から外を覗き、顔を青ざめさせていた。


(……やばい。視線が痛い。完全に「カモが来た」って顔してる)


 レンはこのスラムで育った(というより、転生して最初に目が覚めたのがここのゴミ捨て場だった)からよく知っている。ここの住人は飢えている。隙を見せれば、馬車の車輪ごと持っていかれるだろう。


「……レン様。殺気が満ちております」


 対面に座るセシリアが、拾った鉄パイプを油断なく構えた。

 その瞳は獲物を狙う猛禽類のように鋭い。泥だらけの軽鎧姿だが、そこから発せられる覇気は隠しようがない。


「降りて露払いをしてきましょうか。私の剣技なら、この程度の烏合の衆、制圧に三分もかかりません」

「待て待て待て! 虐殺はやめろ!」


 レンは慌てて止めた。

 ここでセシリアが暴れれば、レンの自宅(ボロ小屋)の場所が特定され、明日から安心して眠れなくなる。

 レンは大きく深呼吸をし、震える手を膝の上で組んだ。


「……僕が出る。顔なじみも多いからね」

「しかし、危険です!」

「『王』は、民を恐れてはいけないよ」


 かっこいいことを言っているが、本音は(お前が暴れると俺まで巻き込まれて石を投げられるから大人しくしていてくれ)である。


 レンは覚悟を決めて馬車の扉を開けた。

 ムッとするような悪臭と湿気が流れ込んでくる。

 レンが地面に降り立つと、周囲を取り囲んでいた数十人の男たちが、ジリジリと間合いを詰めてきた。

 先頭に立つのは、前歯の欠けた大柄な男。スラムの顔役の一人、ジャックだ。ナイフをジャグリングのように弄んでいる。


「へっ、いい馬車に乗ってんじゃねえか。迷い込んだのか? 通行料を……」


 ジャックが言いかけ、レンの顔を見て動きを止めた。


「……あ? お前、ゴミ拾いのレンか?」


 場の空気が凍りつく。

 ナメられたら終わりだ。ここで「そうです、レンです、見逃してください」と言えば、身ぐるみ剥がされる。

 レンは、ジャックの目を真っ向から見据えた。

 そして、口角をわずかに上げ、嘲るような笑みを浮かべる。


「久しぶりだね、ジャック。……まだその『安物のナイフ』を使っているのかい?」


 レンの声は落ち着いていた。低く、よく通る声(アンダートーン)。

 ジャックが眉をひそめる。


「ああん? なんだその口の利き方は。テメェ、俺をナメて……」

「右足」


 レンが短く告げた。


「重心が左に偏っている。昨日の雨で足を滑らせて、右の足首を捻ったね? 隠そうとしても無駄だ。そのステップの遅れじゃ、僕の影すら踏めないよ」


 ジャックの顔色が変わった。

 図星だ。観察眼(スキャン)の結果、彼の右ブーツの紐がいつもよりきつく縛られていること、そして左足の靴底にだけ新しい泥がついていることから導き出した推論。


「な、なんでそれを……」

「ギルドでの噂、聞いていないのかい? ……『岩砕きのボルグ』が、僕の前でどうなったかを」


 レンは一歩、踏み出した。

 ジャックがビクリとして半歩下がる。

 スラムの情報網は早い。ボルグの一件は、すでに彼らの耳にも届いているはずだ。だが、「あの最弱のレンがまさか」という疑念があった。

 その疑念を、今のレンの堂々たる態度と、ジャックの怪我を見抜いた眼力が「確信」へと変える。


(恐怖条件付けの完了。相手は『こいつもボルグのように魔法で固められるかもしれない』という予期不安に囚われている)


 レンは周囲を見回した。

 群衆に向かって、芝居がかった手つきで馬車を指差す。


「この馬車に乗っているのは、僕の『客』だ。……手を出すなら、全員まとめて『脳を焼く』ことになるけど、構わないね?」


 脳を焼く。

 意味不明な脅しだが、未知の恐怖ほど効果的なものはない。

 ジャックは青ざめ、ナイフを収めた。


「……チッ。悪かったよ、レンの旦那。通りな」

「賢明な判断だ」


 レンは背を向け、馬車に戻る素振りを見せつつ、内心では(足ガクガクなんですが! 後ろから刺さないでね! 絶対刺さないでね!)と神に祈っていた。

 その背中を見送るスラムの住人たちの目には、かつての「ゴミ拾いの青年」ではなく、「スラムが生んだ闇の支配者」としての畏怖が宿っていた。


          *


 馬車を降り、迷路のような路地裏を抜けて、レンたちは「自宅」の前へとたどり着いた。

 傾いた柱。穴の開いた壁。屋根には苔が生え、ドアは板切れ一枚。

 どう見ても廃屋だ。


 セシリアとガレスが、言葉を失って立ち尽くしている。


「こ、ここが……レン様の拠点、ですか?」

「……ああ。質素ですまないが」


 レンは鍵(という名の紐)を解きながら、冷や汗を流した。

 元近衛騎士団長と元将軍を招くには、あまりにも劣悪な環境だ。幻滅されるか? 「こんな乞食についていけるか」と愛想を尽かされるか?

 むしろ、そうなってくれた方が平和かもしれない。


 だが、セシリアの反応は予想の斜め上を行っていた。


「……なるほど。これぞ『大隠は朝市にあり』」


 セシリアは真剣な眼差しでボロ小屋を見上げ、感心したように頷いた。


「宰相の私兵やスパイの目を欺くために、あえて最も汚く、最も目立たないスラムの廃屋を擬態(カモフラージュ)に使うとは……。完璧な隠れ蓑です。私なら、まさか賢者がここに住んでいるとは夢にも思いません」

「ははは、やはりレン様の深謀遠慮は底が知れませんな!」


 ガレスも追従して笑う。

 違う。金がないだけだ。

 レンは乾いた笑みを浮かべて扉を開けた。


「おかえりなさい、お兄ちゃん!」


 中からルナが飛び出してきた。

 そして、レンの背後にいる二人を見て、瞬時に警戒態勢に入る。腰の短剣を抜き、殺気を放つ。野良猫が外敵を威嚇するような、鋭い敵意。


「……誰、その女。お兄ちゃんの敵?」

「敵ではない。……今のところは、味方だ」


 レンが仲裁に入ると、セシリアも鉄パイプを構え、ルナを見据えた。


「鋭い殺気だ。……子供と侮っていたが、その身のこなし、ただの盗人ではないな」

「ふん。おばさんこそ、ボロボロのくせに強そうじゃん」

「お、おば……ッ!?」


 セシリアのこめかみに青筋が浮かぶ。まだ二十歳だ。

 一触即発。

 狭いボロ小屋の中で、女騎士と盗賊少女が火花を散らす。レンの胃痛レベルが限界突破する。


(やめて! 俺の家が壊れる! 物理的に倒壊する!)


「二人とも、やめろ」


 レンは努めて低い声を出した。

 そして、もっともらしい理由をでっち上げる。


「ルナ、彼女はセシリア。僕の『剣』となる人物だ。そしてセシリア、彼女はルナ。僕の『耳』となる人物だ。……光と影、双方が揃ってこそ、国を動かせる」


 役割分担(ラベリング)。

 人間に「役割」を与えると、その期待に応えようとする心理が働く。

 ルナは「耳(情報収集)」、セシリアは「剣(武力)」。互いの領分を侵さないように定義づけしたのだ。


「……お兄ちゃんがそう言うなら、わかった」

「……承知しました。レン様の『耳』に敬意を表しましょう」


 二人は武器を収めた。

 レンはその場にへたり込みたい衝動を抑え、部屋の中央にある唯一の家具――ガタついた木箱に腰を下ろした。

 それを「玉座」だとでも思ったのか、セシリアとガレス、そしてルナが、その前に跪く。

 土間に膝をつき、レンを見上げる三人の忠臣(勘違い)。

 薄暗いランプの光が、レンの顔に深い陰影を落とす。


「さて……状況を整理しようか」


 レンは足を組み、顎に手を当てた。

 こうなったら、もう演じきるしかない。この国を救う英雄のふりをして、なんとかして平穏無事な隠居生活を手に入れるための「上がり」を目指すのだ。


「まずは情報の共有だ。ガレス、北の国境の動きはどうなっている?」

「はッ。ガレリア帝国軍は国境付近に集結中。その数、およそ三万。対する我が国境守備隊は五千にも満たず、装備も旧式。……開戦となれば、三日で王都まで到達されるでしょう」


 詰んでいる。

 レンは内心で白目を剥いた。


「そして国内では、病床の国王陛下をないがしろにし、第一王子派と第二王子派が権力争いに明け暮れております。宰相ゼクスは第一王子を傀儡とし、国を売り渡してでも保身を図ろうとしています」

「腐りきっているな」


 セシリアが悔しげに拳を床に叩きつけた。


「私が騎士団長だった頃は、まだ軍にも矜持があった。だが、私が投獄されてから、ゼクスによって有能な者は追放され、イエスマンばかりが要職に就いている……」


 つまり、武力による解決は不可能。

 正面からぶつかれば、ロムレス王国は木っ端微塵だ。


「……レン様。我々には、兵も、金も、権威もありません。あるのは、この身一つと、貴方様の知略のみ。……勝算は、あるのでしょうか」


 ガレスが縋るように問いかける。

 三人の視線がレンに集中する。

 勝算? あるわけがない。ゼロだ。

 だが、ここで「無理です」と言えば、その瞬間にこの組織は崩壊し、レンは詐欺師として処刑される。


 レンはニヤリと笑った。

 根拠など何もない、最強のハッタリの笑みを。


「兵も金もない? だからどうした」


 レンは三人をゆっくりと見回した。


「敵は『恐怖』を知らない。自分たちが強者だと信じ込んでいる。……そこが、最大の弱点だ」


 レンは指を一本立てた。


「心理学(メンタリズム)において、最も強い武器とは何か知っているか? ……それは『未知』だ。人間は、理解できないものを恐れる。僕たちが『正体不明の怪物』になればいい」


 具体的な策はまだない。

 だが、この場を支配するには十分な演説(プレゼン)だった。

 セシリアの目に光が戻る。ガレスが震える。ルナが頬を紅潮させる。


「さあ、始めようか。国を騙し、帝国を騙し、世界を騙す……史上最大の詐欺(ゲーム)を」


 カッコよく決まった。

 レンが内心でガッツポーズをした、その瞬間だった。


 ――ドォォォォォォンッ!!


 突如、スラムの空気を震わせる爆音が響き渡った。

 小屋が激しく揺れ、天井からパラパラと土埃が落ちてくる。


「な、なんだ!?」

「敵襲か!?」


 セシリアとガレスが即座に立ち上がり、武器を構える。

 レンは椅子(木箱)から転げ落ちそうになるのを必死で耐えた。

 外から、人々の悲鳴と、何かが燃えるような異臭が漂ってくる。


「お兄ちゃん! あの方角は……」


 ルナが窓から外を確認し、顔を引きつらせた。


「……『幽霊屋敷』の方だよ。最近、変な呪文が聞こえるって噂になってた……」


 レンの脳裏に、嫌な予感が走る。

 スラムの幽霊屋敷。変な呪文。そして爆発。

 それは、レンが一番関わりたくない人種――「制御不能な魔法使い」の存在を示唆していた。


「……ふっ。どうやら、退屈する暇はないようだな」


 レンは震える足を隠しながら立ち上がった。

 内心では叫んでいた。

 (やめてくれ! まだ第一章だぞ! 休憩させてくれよおおおお!)


 しかし、物語(シナリオ)は彼を待ってはくれない。

 次なる厄介ごと――中二病の天才魔導師との出会いが、すぐそこまで迫っていた。

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