第2話 奏:売れないだけ

朝、アトリエの床は冷たかった。暖房を入れ忘れていたわけではない。入れたはずだが、効いていなかったのかもしれない。俺は靴下のまま床に立ち、キャンバスの前にいた。白地はまだ何も受け取っていない状態で、光だけを返していた。


机の上には絵の具が並んでいた。チューブの口は乾きかけていて、指で押すと、少し遅れて中身が出てくる。俺はその遅れを見ていた。出てくる量は毎回違い、一定にならない。力の入れ方は同じはずだった。


展示会のことを考えないようにしていたが、考えないという行為自体が、すでにそれを思い浮かべているのだと、後から気づいた。


リナの聖母画は、もう何度も写真で見ていた。実物は見ていない。それでも、肌の滑らかさや、光の位置は頭に残っていた。


俺は自分のキャンバスに、同じ題材を置いていた。聖母の輪郭を下書きした鉛筆の線は、ところどころで迷っていた。消して、描き直して、また消した。その跡が、紙の表面を少し荒らしていた。そこに絵の具を乗せると、思った通りには伸びなかった。


筆を洗う水は、すぐに濁った。透明だったはずの水が、灰色に変わるまでの時間は短かった。俺はその変化を見ていた。濁りは均一ではなく、底の方に沈む色と、表面に漂う色が分かれていた。


清らかさという言葉が、頭に浮かんだ。誰かがそう言っていたのを、どこかで聞いたのだと思う。聖母は清らかであるべきだ、という前提が、いつの間にかそこにあった。俺はその前提を、疑うこともしなかった。ただ、それに近づこうとして、距離を測っていた。


昼過ぎ、アトリエの窓から外を見ると、道路工事をしていた。泥が掘り返され、タイヤで踏み固められていた。色は均一ではなく、乾いた部分と湿った部分が混ざっていた。作業員の靴には、それが付着していた。俺はしばらく、その靴底を見ていた。


再びキャンバスに向き合うと、聖母の顔がこちらを見返してきた。視線の位置が定まらない。少し左にすると、全体が崩れ、右にすると、硬くなった。俺はどちらにも決められず、筆を止めた。


リナの絵は、決まっているのだと思った。最初から、そういう場所に置かれている。

俺の絵は、いつも途中にある。途中という状態が、終わらない。情熱が足りないのか、技術が足りないのか、その区別はしなかった。


夕方になり、床に落ちた絵の具のしずくが乾いていた。形は偶然で、狙ったものではない。俺はそれを拭き取らずに、そのままにした。理由はなかった。ただ、そこにあった。


聖母の白は、最後まで白にならなかった。俺はそれを見て、筆を置いた。


勝てない、という言葉が浮かんだが、口には出さなかった。その言葉も、どこかで聞いたものだった。



俺はアトリエの電気を消し、靴を履いた。床の冷たさは、さっきよりも少しだけ弱くなっていた。

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