列車

風何(ふうか)

短編小説「列車」

                  ※


 死にたいと呟いて、確かにそれはすぐに死ねるような位置だった。

 木造校舎の一角、その教室の窓際の席から見えるあかがねの線路には、列車が走っていた。耳をつんざくような走行音と重たいくろがねの胴体は、きっと人ひとりを幾多いくたもの肉片に変貌へんぼうさせるには十分すぎる力を有していた。だから僕は、日に何回も、何十回もそれらが通りすがるたびに、それはあたかもこいねがうがごとく、死にたいと呟いていた。けれども、今までその願いが聞き入れられることは無かった。僕の唇を震わせながら出て来たそんな言葉は、いつだってその激しい音に搔き消され、そうしてかすめ取られた言葉の余韻だけが、風と共にむなしく吹き抜けてゆくのだった。

「まるで心中しんじゅうを拒否されているみたいね。」

僕は思わず声のするほうを振り向いた。すると隣の席に座っていた彼女が、他でもない僕のほうを見ながら、どこか薄明はくめいのように現実感の伴わない笑顔を浮かべていたのだった。

 彼女と喋るのはそのときが初めてだった。同世代の者どうしが無作為的に集められた教室という極めて小さな世界にも、ある種の階級が存在するという話は、いや、むしろ無作為的に集められているからこそ階級が生まれるのだという話は、昨今、フィクションだけでなくノンフィクションでも言及され過ぎていて、どこか陳腐であるように聞こえるけれど、実際問題、非現実も現実も、変わらず陳腐であるのだから致し方ない。どこの学校でもそうであるように、一部の運動部や、声の大きい快活な生徒というのが、学校という小世界ではどこまでも絶大な力を有していて、なにかに秀でた一芸を有している者が、頂点にいる彼らに追従ついしょうする形で重宝されていた。そして、その他の、自身の意思を特に示すことのない空気のような存在と、逆に意思を示しすぎて端に追いやられた過去を持つ存在とで、この教室の序列のすべては形成されていて、そしてそういうどこか主観的で曖昧なようにも思えるその要素は、けれどもどこまでも厳密に管理されていて、つまるところ、彼女は、今日の今日まで、僕とはどこまでも関わるはずのない人種のひとりだったのだ。彼女はダンス部に所属していて、普段は部活動に熱心に打ち込み、クラス内では中心グループの一人として日々を過ごしていた。その様は、彼女の持つ華奢きゃしゃな身体と精神性でもって、「高校生活」という名の作品を、全身全霊で表現しているようにさえ見えた。溢れ出るエネルギーにより疲弊し、彼女のことを忌み嫌う人もいたのかもしれないが、それ以上に彼女を好いている周囲の人間は多かった。かたや僕は、何の部活動にも所属することなく、家と学校を往復するだけの毎日を過ごしていて、クラスではあたかも空気のような存在として扱われていた。そしてそんな空しくも思えるような状況を、特に自分で変えようとしているわけでもなかった。その様はきっと、白紙のキャンバスをそのまま提出し、ひとつの作品だと言い張るかのごとくどこか詭弁きべんめいていて、あるいは、内的に留まらない世界すべてに対してどこまでも冒涜ぼうとくめいていた。

 まあそんな極めて剥離はくりした身分の違いというのも、この多様性社会ではみんな違ってみんないいと言って締めくくることが出来る。彼女のほうが多くの人と友好的である分、社会の縮図とも言える教室での処世しょせいにはけているが、その一方で、僕のほうが長く自分の席に座っている分、机の木目の本数には詳しかった。

 でもそのとき僕に向けられていたのは、そんな僕たちの階級の乖離かいりや関係性など露ほども感じさせないような、あたかも前世から通じ合っていた旧知であるかのような透明感のある笑顔だった。

 僕は途端に居心地が悪くなって、机の下でもぞもぞと手を動かしながらうつむいて、声になっているのかも分からないくらいの早口で「何か用ですか」とだけ言った。けれども彼女は当然のようにそんな僕の声が聞き取れなかったようで、「ごめん、聞き取れなくて。もう一回言ってもらっていい?」と僕があえて伏せることによって目が合わないようにしているその顔を更に覗き込むように言ったのだった。それは、泣いているところを見られたくない誰かが、誰にもその顔を見られないように、その身に余る青く綺麗すぎる空を、すべてを振り絞った一大決心によって見上げたのに、わざわざ自家用のヘリコプターでもって、そのすぐ真上まで来ては、泣き顔を覗き込もうとしているかのごとく、どこまでも無遠慮で、嘲笑的なように思えた。というのはいくらなんでも僕の考えすぎなのかもしれないけれど、それはともかくとして、どうして列車の音に紛して誰にも伝えようとしていないような独り言が彼女には聞き取れて、今このようにして通常通りに喋っている声が聞き取れないのか。そのことについて、僕はいささかの怒りを覚えた。そうして僕は、なかばその怒りを彼女にぶつけるように、先ほどよりも大きな声で「何か用ですか」と訊き直した。けれども、普段からあまり喋り慣れていないせいか、その声の大きさはさっきと同じかそれよりも小さいものとなってしまったのだった。

 けれども彼女は、なぜか今度は僕の声をしっかりと聞き取ることが出来たようで、僕の言ったことが理解出来たことを示すようにうなずきながら言った。

「いや、ノートを借りようと思ってね。時間も余って授業が早めに終わったし、わたし前回の授業休んでたから。って思ったんだけど、いきなり君があんなことを言い出すから。」

そんな風に言う彼女は、先程と変わらぬ笑みを浮かべていて、それはやはり僕に向けられるにはどこまでも不自然すぎる表情だった。それはきっと、あまりにも僕という存在にはふさわしくないのだろうし、ただ平等を重んじて周囲に愛想を振りまくような意図があるにしては、あまりにも不敵なように見えた。つまりはますます理解が及ばないようなことなのであって、気味の悪さは一向にぬぐい去れず、僕は早く会話を終わらせようと控え目に首を振って、それからというもの、ただ端的に答えたのだった。

「ノートには何も書いてない、です。意味のあることは何も。」

そう、意味のあることは何も。彼女は驚いたように僕の顔を再度覗き込んだ。彼女がどうして驚いているのか、その理由は簡単に想像できる。僕は周囲からすれば、ある程度真面目に授業を受けている生徒に見えているのだろう。授業を欠席することも滅多にないし、ましてや授業中に教師から叱られる原因になったことは勿論ない。しかしその実、僕はここ一年あまり、真面まともに授業を受けてなどいなかった。ただ授業中に眠ったり、おしゃべりをしたりといった、そういう目に見えた素行不良が僕には無いだけで、ノートにはただ延々と無意味な文字を書き殴っているだけだったのだ。そう、どこまでも無意味な文字を。

 言霊ことだまというものがあるのかは分からないけれど、ただそれを信じていたいというような切実な気持ちで。そして少なくとも僕に内在する世界においては、確かな呪力を持っていて。そう、ノートに文字を書くだけでも、自傷行為になること。それから、他人事のように保険体育の授業で習う、昇華と代償行為にも、本当はそこまでの差なんてなくて、それは単に社会に役立つかによって決められていること。つまり僕のなかではすべてが昇華であり代償行為というわけで。そしてそのすべてが自傷行為であるわけで、ならば僕個人の自傷行為もまた、世界の役に立つどこまでも素晴らしい行動ということで、それがあんたなんかに分かるか。僕は目の前で奇妙な笑顔を浮かべている彼女に対してそんな風に言ってやりたかったけれど、そう言おうとするやいなや、途端に彼女は、どこまでも朗読するような口調でよく分からない文句を唱え始めたのだった。

「そこに繰り返し書かれた『死にたい』という文字たちは、まるで独立したひとつの生命体のように、徐々に、わたしの遠く理解の及ばないものへと変貌していった。それはいつしかわたし個人の一欲求を指し示す言葉としての役割を失い、ひとつの複合的で複雑な存在として無機質なリノリウムをい回るようになった。そうして、とある時を境に、あたかも寄生虫のようにわたしの頭の中枢に侵入し、そこで回路を打ち破るがごとく著しく旋回し始めたのだった。そこから数時間経てばあとは簡単だった。死にたいという欲求に対するすべての思考が麻痺し、あるいはそれは雲散霧消し、あるいはそれは寄生虫のような何某なにがしかにむさぼり食われ、わたしのなかには単なる無だけが残った。」

そして彼女は最後の読点を打つように付け加える。

「『アルファデクスの悲劇』より。」

そんな風にいきなり滔々とうとうと語りだす彼女に僕は完全に呆気に取られてしまっていた。僕には何よりも、彼女が、この目の前にいる、どこまでも文学的素養の対極に位置していそうな彼女が、そんな詩のような言葉を何のよどみもなく唐突に口にしたことが信じられなかった。それはどこまでも、僕の見えている、あるいは見ようとしている現実と乖離しているように思えた。けれどもそういう僕の感覚とは裏腹に、その現実はどこまでも強固であるようだった。そして、まるで脳内に棲息せいそくするうなぎが唐突に暴走し始めたかのように、それは僕の根幹からどこまでも激しく揺さぶって来たのだった。

 気が付けば僕は彼女に訊ねていた。

「それは?」

けれども彼女は何のことは無いといった調子で答えた。

「私が一秒で造った小説の冒頭。どう?それっぽいでしょ?」

どこまでも他人を馬鹿にしていると思った。僕は抗議のひとつでもしたかった。いったい、何に対して?その瞬間、僕は唐突に自身に対する慰めの手段を失ってしまって、更に俯くしかなかった。僕は社交性に加え、知性でも彼女に大きく劣っていたのだった。「能ある鷹は爪を隠す」という有名なことわざがあるけれども、それは単に、優秀な人ほどその能力を引けらかさないといった、あるひとつの摂理せつりを示すためにあるのではなく、僕のような劣等感に日々苛さいなまれているような人々に、希望めいた幻想を抱かせるためにあるのではないかと思った。僕のような何も持ち合わせていない人でも、ただ何もせず、自分だけの内的世界で思考実験を繰り返しているだけで、どこまでもインスタントに、爪を隠した鷹に成り変わったと錯覚出来る。いつか外の世界を変えることが出来る、そんな力を実は自分は隠し持っている、そう盲信することはどこまでも甘美で、けれどもその妄想が他でもない外の世界の力で破られるとき、それほどまでに人を俯かせる要素を僕は知らない。

 まあ、けれども逆に、僕がこれ以上居心地が悪くなることもまたないとも言える。僕の首はこれ以上俯くことが出来るほど柔軟ではないし、身体からだごと傾けて、俯くだけ俯いて、そうして椅子の脚から後ろの席の誰かを覗き込むわけにもいかない。

 僕はまるで錯乱したかのようにそんなことを考えていたのだけれども、彼女はそんな僕の様子など特段気にしていない様子で、ただ聞いてもいないのに、ひとりで語り続けた。

「中島敦の『文字禍』がね、丁度そんな感じの要素があるんだよ。ほら、所謂いわゆるゲシュタルト崩壊ってやつ。ずっと同じ文字を書いてると、だんだんそれが何の意味なのか分からなくなってくるっていう。それを、つまりは文字のたたりになぞらえているの。」

なんかさ、似てると思わない?叶わない願いを繰り返し呟き続けるっていうのはさ。

 彼女はそんな風に言って、けれども僕は肯くことも首を振ることも出来ずに、ただ誤魔化すように、どこまでも怖気おじけづいたような調子で、また別のことを訊ねた。

「その、アルファ?デウスみたいのは?」

すると彼女は何のことかと言った表情で笑った。

「ああ、それはおばあちゃんが飲んでた薬の名前。別になんでもよかったんだよ。アスピリンでもベニジピンでも、まあ、全部何の薬なのかは分かんないんだけどね。」

僕がなにを言っていいのか分からずただ黙っていると、しばらくの間沈黙が続いた。といっても僕たちが向かい合っている間もクラスというのは絶えず運営されていて、つまりは周囲のお喋りによって、それは本当の沈黙というわけではなかった。ただそのひとつの要素として一種の気まずさがその数秒間僕たちの間を支配した。僕としてはこれ以上彼女と喋りたいとは思わなかった。けれどもそれでも彼女はしばらく経ってからまた独り言のように口走ったのだった。

「まあ実際は、心中なんかじゃないんだけどね。急行列車もさ、一緒には死んでくれないんだよ。最大限良いほうに解釈してみても、してくれるのはせいぜい介錯かいしゃくまででさ、だっていくらべっとりと血が付いたとしてもね、わたしたちが死んだ次の日も現世で形を保っていられるんだもの。」

次の日にはどこかの終点に向かって走り始めているんだもの。そんな風に彼女は言った。

「結局何が言いたいんですか」

僕の口調は気付かぬうちに鋭さを増してゆく。それが怒りから来るものなのか劣等感から来るものなのか、それとも彼女に対する恐れの反動によるものなのか、それははっきりとは分からないけれども、そんなある種定義しがたいみじめさが、僕のなかでは嵐のように渦巻いていて、徐々に冷静さを保つことが出来なくなっていた。

 けれどもそれと引き換え、彼女は至って平然と答えたのだった。

「人間同士でしか心中なんて出来ないってことだよ。」

わたしたちよりも弱い者は先に死んでゆくし、わたしたちよりも強い者は平気な顔して明日も生きてゆく。強い者は弱い者に寄り添いはしても、一緒に死んではくれない。

「べつに心中するつもりなんて。」

僕は思わずそう呟く。もはや死にたいということを隠すのも忘れ、僕は気が付けばそんなことを口走っていた。べつに心中するつもりなんてなかった。というよりも端からそんなことなど考えもしなかったのだ。死ぬならばひとりで。それはひとりで生きてきた僕にとっては、あえて議題に上げるまでもない、つまりは考える余地もないことだった。

「けど、ふたりのほうが寂しくないよ。」

けれども彼女はそんな風に平然と言った。僕は彼女が唐突に発したその言葉を理解するのに時間がかかった。それはなんだか、一瞬だけ空気が冷凍され、すぐに解凍されたようなそんな不自然さだった。

「どうして?」

僕は彼女の言葉を半ば信じられず、そう訊ねる。けれどもその問いに彼女は答えない。

「僕が死ねるまでどうしてるつもり。」

そして仕方なく僕は重ねて訊ねる。それに彼女は、今度はどこまでもあっけらかんとした調子で答えた。

「さあ?セックスでもしてればいいんじゃない?」

そんな彼女の声も、僕以外のすべての人に心中を拒否されたかのように、教室の騒ぎ声に掻き消されてゆく。気が付いた時には六時間目が終わり、教室は斜陽のかげりに沈み、皆それぞれ帰り着くべき場所に向かう準備を始めていた。


               ※


 けれども、僕たちだけが帰り着くべき場所を持っていなくて(それはあるいは、ただそう思いたいだけなのかもしれないけれど)、気が付けば夜になって、月が教室のすぐ近くまで静かに降り立っていた。僕たちはそんな白銀しろがねの月光の下で、なにひとつ身にまとうことのない裸身らしんとなって、そんななかで、彼女は僕の骨ばった見すぼらしい背中を優しく撫でるように手を回していた。そうして僕もまた、彼女の持つ背中のなだらかな曲線をいつくしむように撫でていて、それは何だか、逸脱することを知らない小さな子どもが、律儀りちぎに塗り絵をしているみたいだった。

 そうして、そこから何をすればいいのかまるで分からない僕は、あたかも壊れやすい陶器を扱うときのような慎重さで、ずっと彼女の背中を撫で続けていたのだけれど、彼女は、僕がそこから何もしてこないのが分かると、「背中ばかり撫でてたら、わたしの背中だけが好きみたい。」と言って、僕の手を取って、それを自身の乳房に押し当てた。「別に、なにも好きじゃない。きみのなにも。」と僕は、彼女に好かれているのかもしれないという幻想だけで、もう彼女のことを好きになり始めているのを誤魔化して、そんな嘘をついた。手を無理矢理押し当てさせられた彼女のまるく膨れた乳房は、藍空に浮かぶ三日月の模様がそのまま描かれたかのように、一部のみが青白く透き通っていて、僕は両対のそれらを慣れない手つきで揉みしだき、それから恐る恐る知らない生物に接するかのごとく愛撫し、控えめにそこに口づけをした。すると彼女はうなずいて、彼女もまた僕の背中や胸を愛撫するように優しく触れた。そうして僕たちはお互いの身体のあちこちに触れ合いながら、愛撫し、印をつけるように口づけをし、ふとしたときに「そう、そう、平等にしてあげないと。嫉妬しちゃうから」と彼女は呟いて、けれども僕は「平等なんて信じない」とたどたどしく言って、でもそうしてわされた言葉はすぐにただの文字列となって僕たちの間をすり抜けていって、まるで微量の電磁波のよう。気が付けば、彼女のしなやかな指先は僕の秘部に触れ、それを包みこむように握っていたのだった。僕はかすかに震えるようにしながら、何かを訴えるかのように彼女のことを見つめてみたのだけれども、そんな彼女の顔はまるで幽霊のように青白かった。僕はその一瞬、そういう彼女の物悲しさに震えているのかもしれないと錯覚して、けれども僕のはあでやかに揺らめくように濡れていて、つまりは僕の性欲すべてがそういう詩情を否定しているので、自棄やけになって僕もまた彼女のに触れると、彼女も僕と同じように艶やかに濡れていた。そこから数秒間ホワイトアウトして、まるでサイコキネシスによって深いトンネルから唐突に戻されたかのように、「でも平等だと思う。誰にもなにもしないって言うのは。」と彼女の声が聞こえてくる。彼女は僕のをくわえながら言っていた。とそんな姿が滑稽だと思っていたら、もうすでにそれは彼女の口から離れていて、つまりは、僕のほうがあられもない姿だった。咥えながら言えるわけないのだから、そんなのは当然と言えば当然なのだけれど、知らないうちに、僕の中には余韻だけが残っているのに気が付いて、それはなんだかかぐや姫に取り残されたみかどみたいだと思う。「馬鹿にしてる?」と僕は言って、「うん」と彼女は幼子おさなごのように言う。僕は彼女のを撫でまわし、そこに口づけをして、それから今度は愛おしいものを味わうようにする。「どうして僕に」と訊ねて、彼女は、自身が感じているのを隠すように強気を装って、僕から目を逸らしながら、「あなたじゃなくてもよかったと言ったら?」と素っ気なく言った。そう言ったから、更に激しく彼女の身体を貪むさぼった。そしてそんなことをふたりで繰り返しながら、体温を共有しようとするみたいに強く抱き締め合い、そして僕たちの身体が境目を持たなくなるように繋がっていって、一時的に世界平和を願い始めていた僕の心情は、再び彼女へと、それは向かうべき方向に向かい始め、夜も月も教室も窓ガラスもその世界からは消失し、そこには僕たちだけが残されていた。「貴方がわたしみたいで、痛いのも貴方が痛いみたい」「意味が分からない」「じゃあ、分かり合えない?」「分かり合えない」「分かり合えなくても繋がれるんだから便利ね」「知らないよ」「わたし全部が飛沫しぶきを上げてるみたいで」「分かったから。」「本当?」「だから黙って」「無理。わたし、貴方の存在理由を奪うの。」「どうして?もともとないのようなものを。」「ううん、そんなことはないよ」「本当?」「ううん、嘘。」「死ね。」僕は身勝手に激しく突き上げる。ってしまいそうになって、それを必死に抑えて、「ねえ、発火してるみたいね。漏らしちゃう。」彼女が身悶みもだえするように身体をくねらせて、僕も無意識下、それに同調するように身体をよじらせる。「デウス・エクス・マキナ」と彼女が言った。「は?」「もう、全部どうでもいいでしょ?神様!神様!って。」「神様?」「そう、神様降臨、みんな幸せ。ってすればさ。」「ぜんぜんよくない。」「なら、わたしたちどうしてこんなこと、してる、?。」僕は首を振る。「知らないよ。」「ほら、全部忘れたいんじゃなくて?」激しく突き上げる。けれども、もう僕のははち切れそうなくらいに膨張している。彼女のも洪水を起こしたように濡れている。耐えるのが苦しくなってくる。「論理学者も最中はこんな顔?」彼女は何かを嘲笑するようにべろを出しながら言う。「知らない。」「知らないことだらけね。でもわたしも知らない。」「けど、真顔だと思う。」始めて自分の考えを述べたのかもしれない。「じゃあ、不全かな?」「わかんない。想像出来ないから。」「でも、じゃあ神様、召喚出来ないね。」パチパチパチパチ。なにかが切れる音。ああああ。出てくるあえぎ声はまるで泣き声のようだった。あああああって僕もなって、僕は。僕は、昔から周囲と上手くやっていくのが苦手だった。どこか海馬のきざはしで、「誰にも媚びないのはすごいよ」って彼女が言うのが聞こえて、それと同時に僕が今まで浮かべてきた作り笑いが眼前に浮かんでくるようで、そのゆがんだ口角を思い出すたび、膨れ上がる苦悶くもんは更に大きくなって、ははは、助けたいと思われる顔に生まれたかったな。本当に助けを求めている人は、助けたい姿をしていないとはよく言ったものだけれど、みんなみんな、本当に助けてくれなかった。僕が雑巾の匂いのするバケツの海で溺れそうになっているときも、折られた傘を片手に雨に濡れているときも、僕の顔には、それこそやる気のなさそうな、あたかも反駁はんばくしたそうな表情ばかりが浮かんで、本当はそんなことなどないのに、更にその表情を見られたのち、追撃を受けて、ああ、苦痛というのは湿度なんだろうと思う。中途半端な湿り気、洗われていない湿度のなかにいること。噛まれている途中のガムのような罵倒。ああああ。激しく内股になって、その途端、熱暴走したように、脳神経から角が生えたみたいな。それは激しい筆致で奇怪を描き出し、視界はかすみのごとくしらんで、僕は、気が付けば彼女も、つまり僕たちは、まるで、黒い世界に白いインキで書き初めをしているように激しく叫んでいたのだった。


                 ※


 そういう事後。そういう事後の僕たちの視界の端で、終電車が通りすぎてゆく。どうやら列車は、当たり前のように、僕のことを待ってはくれないようだった。

「これで、明日も生きなければいけないね。きみは。」

月明かりの下で、「死にぞこない」と彼女は僕を挑発する。印象派の世界にいるみたいな世界のにじみ。涙が、他でもない両の目から流れているはずなのに、なぜか局部から流れていて、結局僕はどうすればいいのか分からないまま、再び自分のを彼女に向かって突き出す。まるで服を剥ぎ取られた幼児のようにあられもない姿で、がったんごっとん、列車の真似。「連結」と阿呆みたいなユーモア。白けた表情と愛されることを捨て去ったような表情。生まれたままの姿に似つかわしくない醜悪しゅうあくさ。月を見て覚醒する狼のように、条件反射として海綿体かいめんたい隆起りゅうきする。がったんごっとん。「どこまでいけるんだろうね。」僕が訊ねて、「どこにもいけないよ。」と当然のように彼女は答えた。僕はそれに対して、聞き取れないような言葉未満の悪態をつく。もう既に主体を「僕の」に乗っ取られてしまって、けれどもそんな風にして、生きたくもない世界の朝がやって来るのを、ただ待っているしかなかった。


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