終電の先にある街

波崎 亨

第1話

 終電を逃した。

 それだけのことなのに、改札の前で足が止まったまま動けなくなる。


 時計を見る気は起きなかった。時間を知ったところで、何かが変わるとも思えない。

 駅は夜の底に沈み、音という音が遠ざかっている。


 昼間に気づかなかった壁の傷や、床に染みついた黒ずみが、妙にくっきりと目に入った。ここは、こんな場所だっただろうか。


 ホームへ降りる階段の先に、灯りがひとつ残っている。

 消し忘れにしては、静かすぎた。


 風もないのに、空気がわずかに揺れた。

 線路の向こう側に、影が立っている。


 電車の音はしない。

 アナウンスもない。


 それでも、陰は確かにこちらへと近づいてきた。


 影は、ホームの端で止まった。

 そこにあるはずの線路が、いつに間にか溶けている。


 私は一歩、下がろうとしてーーーやめた。

 踵が床に触れたまま、体重を移さない。


 改札の方向を見る。

 出口を示す緑の表示灯は点いている。見慣れたはずの記号なのに、今日は遠い。距離ではなく、感覚として。


 鞄の肩紐を直す。

 中身は軽い。会社から持ち帰った書類は、もうない。


 ホームに、音が落ちた。

 低く、重たい金属音。扉が開く音だった。


 私は走らなかった。

 足を前に出す前に、呼吸を一度だけ整える。


 影の中から、光が漏れている。

 白でも黄色でもない、名前のつかない色だった。


 境目に立ち、私は立ち止まる。

 振り返らない。

 それが習慣だったのか、諦めだったのか、自分でもわからない。


 次の瞬間、足が動いた。


 駅の気配が、遠ざかる。

 電光掲示板の微かなうねりも、線路を渡る風の匂いも、まとめて削ぎ落とされていく。


 耳鳴りすら、しない。


 車内は広かった。

 座席は並んでいるのに、誰も座っていない。吊り革は揺れず、広告も貼られていない。行き先を表示だけが、黒いまま沈黙している。


 私は立ったまま、手すりに触れた。

 冷たさはある。確かに触れている。けれど、その感覚はすぐに薄れていった。


 呼吸の音が聞こえないことに、遅れて気づく。

 息はしているはずなのに、体の内側で完結してしまっている。


 電車は動き出していた。

 揺れも、加速もない。ただ、外の闇が少しずつ濃くなる。


 ここでは、音はいらないのだと、なぜか思った。


 名前も、時間も、行き先も。

 必要なものだけが、静かに削られていく。


 私は座席に腰を下ろした。

 誰にもうながされず、誰にも見られないまま。


 その瞬間、現実は完全に切り離された。


 減速の感覚はなかった。

 それでも、電車が止まったのだと分かった。


 闇が、途切れる。


 窓の外に、灯りがあった。

 駅ではない。ホームの形をしていないのに、街の輪郭りんかくだけが、夜の中に浮かび上がっている。


 建物は低く、どれも古い。壁の色はくすみ、看板の文字は読めない。

 それでも、人の気配がある。視線のようなものが、あちこちから向けられている。


 音は、まだ戻らない。


 扉が開く。

 やはり、音はしない。


 私は立ち上がり、外を見る。

 足元には舗装ほそうされていない道が続いていた。土と石が混ざった、ならされていない地面だ。


 一歩、外へ出る。


 靴底が地面に触れた瞬間、重さだけが戻ってきた。

 音は、ない。


 振り返ると、電車はそこにある。

 ただし、影のように薄い。輪郭が、もう街に溶け始めていた。


 戻ろうとは思わなかった。

 代わりに、鞄を持ち直す。


 道の先で、誰かが立っている。

 こちらを見ているのに、近づいてこない。


 街は静かだった。

 眠っているのではない。最初からこう言う場所なのだ。


 私は、その街に迎え入れられた。


 立っていたのは、女だった。

 年齢は分からない。若くも老いても見えず、街と同じ色をしている。


 彼女は一定の距離を保ったまま、こちらを見ていた。

 近づかない。逃げもしない。


 しばらくして、口が動く。


「……まだ、重たいままですね」


 声は低く、静かだった。

 響かない。音が戻っていないはずなのに、言葉だけが意味として届く。


 私は返事をしなかった。

 返す言葉を探すより先に、女の足元を見ていた。


 靴は履いていない。

 それでも、地面に沈んでいなかった。


「ここでは、急がなくていいんです」


 女は言う。

 それが忠告なのか、規則なのかは分からない。


 彼女はようやく一歩、こちらへ近づいた。

 距離が縮まっても、圧はない。ただ、存在がはっきりする。


「名前は、まだ持っていますか」


 問いかけられて、胸の奥がわずかに引っかかる。

 答えはすぐそこにあるはずなのに、手を伸ばす気が起きなかった。


 沈黙を、女は待った。


「……なくても、構いません」


 そう言って、彼女は道の先を示す。


「泊まれる場所があります。

 音が戻るまで、そこで休む人が多い」


 多い、という言い方だけが、妙に現実的だった。


 私は一歩、女の示した方向へ踏み出す。

 彼女はそれを確認してから、先に歩き出した。


 街は、相変わらず静かだった。

 けれど、さっきよりも少しだけ、深く息ができる気がした。


 街を歩いている間、足取りが不思議と軽かった。

 疲れていない、というより、重さを思い出せない。


 鞄を肩から下ろすと、想像していたよりも簡単に外れた。

 革が軋む感触が、途中で途切れる。


 女が立ち止まり、古い建物の前を指さした。


 宿、と呼ぶには簡素で、倉庫に近い。

 扉に手をかけた瞬間、指先の感覚が薄れる。

 冷たいはずなのに、温度がない。


 私は一度、指を離した。


 それでも、戻ってこない感覚があった。

 女は何も言わない。

 ただ、こちらを見る。


 私は反対の手で、袖を引き下ろした。

 皮膚が見えないように。

 その仕草が、ずっと前からの癖だったことに、遅れて気づく。


 いつからそうしていたのかは、思い出せない。


 宿の中は薄暗かった。

 灯りはあるが、影がはっきりしない。


 椅子に腰を下ろすと、背中の感覚がずれる。

 背もたれに触れているはずなのに、体の境目が曖昧になる。


 呼吸を整えようとして、失敗する。

 深く吸っても、胸が膨らまない。


 それでも、苦しくはなかった。


 女が、静かに言う。


 「少しずつ、軽くなります」


 私は頷こうとして、首を動かすのをやめた。

 その言葉が、慰めなのか警告なのか、まだ判断できなかった。


 床に視線を落とす。

 自分の足が、影を持っていないことに気づく。


 見なかったことにして、目を閉じた。


 しばらくして、女が宿の奥へ歩き出した。


 促す仕草はない。ただ、行くと分かる速度で。

 私は立ち上がり、少し遅れてついていく。


 足音は、やはりしない。


 建物の裏手に、小さな扉があった。

 街の他のものより新しく見えるのに、使われた形跡が薄い。


 女は扉に触れなかった。

 その前で立ち止まり、横を向く。


 「戻るなら、ここです」


 簡単な言い方だった。

 道順を説明するような、特別ではない口調。


 私は扉を見る。

 取っ手は低い位置についていて、少し力を入れれば開きそうだった。


 「いつでも、ではありません」


 女が続ける。


 「重さが残っているうちは。音を覚えているうちは」


 私は無意識に、耳に触れた。

 何も聞こえない。それでも、その仕草が出る。


 女は、それを見て目を伏せた。


 「軽くなりすぎると、ここはただの壁になります」


 脅す調子ではなかった。

 事実を並べているだけだ。


 「無理に選ばなくていい」


 そう言ってから、女は一歩下がった。


 扉からも、私からも距離を取る。


 選択肢だけが、そこに残る。

 私は取っ手に手を伸ばしかけて、止めた。


 指先の感覚は、もう曖昧だった。

 扉の向こうから、何かが呼ぶことはない。


 こちらの街も、私を引き留めない。

 私は手を下ろし、深く息を吸う。

 胸は膨らまない。それでも、呼吸は続いている。


 「……まだ、大丈夫だ」

 声にならなかったはずの言葉が、確かに内側で形を持った。


 女は何も言わず、ただ頷いた。

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2026年1月20日 21:00

終電の先にある街 波崎 亨 @h626

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