第25話 狂犬お市様の尾張伝説の狂犬ライブ初日・午後講演

天文十六年(西暦一五四七年)初夏・八月八日 尾張の伝説の日

尾張国・熱田 熱田神宮盆踊り夏祭り大会/特設野外ステージ(篝火)

午後講演が始まった。

夕方――いや、正確に言えば「夕刻」という言葉が一番似合う、腹に響く熱気の時間帯である。

そして私は確信した。

午前は前菜だった。

この午後が本番だ。

熱田狂犬堂は、カオスだ。

朝からずっとカオスだったが、午後になってカオスが成長し、カオスが結婚し、カオスが子供を産んだ。そんな勢いでカオスだ。

店の中は人の波。

反物を抱えた女衆。

団子を頬張る子供。

薬袋を握りしめる老人。

化粧水を嗅いで魂を抜かれる若い娘。

そして――

狂犬堂従業員たち。必死。

「笑顔!笑顔はただじゃ!」

奥から姫様の声が飛ぶ。

「笑顔ゼロ文か!」

と続けて叫ばれた瞬間、従業員の笑顔が一斉に点灯した。

全員、目は死んでいるが口角だけは上がっている。怖い。

私は祐筆として冷静に記録するべきだ。

だがこの店、記録しているだけで胃が削れる。

■午後講演:当日券、消滅

午前中の熱狂で、当日チケットは完売。

午後の分も、完売。

なぜなら午前の終演後に「次の回も見たい!」と、客が狂犬堂へ雪崩れ込んだからだ。

五千?数万?

もはや分からぬ。数える気力がない。胃が痛い。

他の熱田商人たちは、鬼の形相で忙しい。

だが必死に笑顔だ。

ひきつっている。

笑顔が「戦闘態勢」のそれである。

屋台の親父A「笑って売れって……笑えるか……!」

屋台の女将A「笑え!笑わんと姫様に見つかる!」

屋台の親父A「姫様、見回りでもしてんのか!」

屋台の女将A「してるやろ。香水の匂いで分かるわ!」

恐怖政治で治安が良いのは、尾張の新しい様式美である。

■会場:篝火、夕闇、熱狂の沸点

午後のライブ会場。

特設野外ステージの周囲に、篝火が焚かれている。

夕闇に火が揺れ、太鼓の音が腹に落ちる。

私は会場の端で、筆と紙を握りしめた。

姫様の記録をせねば。

せねばならぬ。

だが人の密度が高すぎて、筆先が他人の袖に刺さりそうだ。

「桃!ここ!」と、まつ様が私を引っ張った。

「死ぬよ、そこだと!」とも言われた。

まつ様、言葉が辛辣だが助かる。マブダチの才能がある。

まつ「桃、午後の姫様は“ガツン”や。胃にくるで」

私「もう胃がないです」

寧々「胃がないなら、笑顔で売ればいい」

私「理論が姫様と同じ方向に進化してませんか」

寧々「進化は正義」

私「こわい」

藤吉郎は導線整理と警備と販売補助を同時にしていた。

光っている。

午後の夕刻でも光っている。

篝火と競争するな。

藤吉郎「押すな!押すとわしの髪がさらに抜ける!」

子供「もうないじゃん!」

藤吉郎「あるわ!!心に!!」

私「心髪……」

■姫様登場:暴虐的な美

そして――姫様。

疲れなど、みじんも見せない。

鍛え過ぎて凡人ではない。

世界一の美しさと、甘美な匂いで世界を魅了する――尾張熱田を魅了する。

美人という言葉は軽い。

姫様は、狂わしく危険な暴虐的美人だ。

「見た瞬間に胃にガツンと来る美人」――この表現が正しい。

会場が息を飲んだ。

篝火の火が揺れた。

女衆の目が鋭くなった。

男衆の魂が抜けた。

寧々様は午後仕様で登場していた。

衣装は――漆黒と深紅の狂犬織。

ド派手。ド迫力。

「夜の狂犬」そのものだ。

寧々(小声)「午前は“華”で、午後は“牙”」

私(小声)「その発想が怖い」

まつ(小声)「姫様は常に牙や」

私(小声)「正解だと思います」

■午後講演 セットリスト

篝火の中、姫様は三味線を構え、観客を見下ろした。

そして――口が開く。

お市様「尾張の者よ」

客席「おおおおおお!」

お市様「夜は、盛れ」

客席「うおおおおおお!!」

私「雑な命令で世界が動く……」

1. 尾張じょんがら節

――ジャーン!

夜の音だ。

午前のそれより太く、深く、火に似た熱を含んでいる。

観客が一斉に手拍子を始めた。

盆踊りの輪が勝手に増殖する。

太鼓が追随し、笛が泣く。

祭りが「儀式」になった。

女衆「姫様ぁぁぁ!」

男衆「尾張ぁぁぁ!」

子供「煎餅ちょうだい!」

従業員「はい!笑顔!笑顔!」

この世界、全部が狂犬堂の導線の上にある。

2. 尾張りんご節

二曲目で、会場は完全に「姫様の庭」になった。

篝火の熱と人の熱が混じり、空気が甘く重い。

屋台の親父B「売れる……売れるぞ……」

屋台の女将B「笑え!笑え!」

屋台の親父B「笑ってる!顔が攣る!」

屋台の女将B「攣っても笑顔や!」

笑顔の定義が変わっていく。怖い。

3. 熱田に咲く華(狂犬お市様)※新曲

ここで新曲が来た。

曲名:「熱田に咲く華」

会場が静まる。

静まり方が異常だ。

さっきまで叫んでいた男衆が、息を止めた。

姫様の指先が走る。

三味線の音が、篝火の火柱みたいに立ち上がる。

――熱田。

――夏。

――祭り。

――恋。

――商い。

――尾張。

全部が音になって、胸に刺さる。

まつ(小声)「これ……女、惚れるで」

寧々(小声)「男も惚れる。敵も惚れる」

私(小声)「国が落ちる」

藤吉郎(小声)「胃が落ちる」

曲が終わる前に、客席の一部が泣いていた。

理由は分からぬ。

だが分かる。

これが「伝説」だ。

姫様は最後、笑った。

凶悪に美しく。

お市様「泣くでない。――買え」

私「結論が商い!!」

会場が爆笑した。

そして笑いながら、狂犬堂へ走り出しそうになった。

危ない。ここまだ講演中。

4. 俺たちの織田家臣団

四曲目。

これは危険。午前と同じく危険。

団結が強すぎる。軍になる。

姫様が煽る。

お市様「声を出せ。腹からじゃ」

男衆「うおおおおお!!」

女衆「うるさい!でも出せぇぇ!」

観客が勝手に歌う。

知らないはずなのに歌う。

尾張の空気に歌詞が混じっているとしか思えぬ。

私は筆を走らせた。

震える手で。

この場にいるだけで、祐筆の責任が重い。

5. 俺たちの尾張

最後。

姫様は篝火を背に立ち、客席を見渡した。

お市様「尾張は、好きか?」

客席「好きだぁぁぁ!」

お市様「なら――証を立てよ」

客席「うおおおおお!!」

私「証って何」

まつ「買い物や」

私「商いの国すぎる」

曲が始まる。

太鼓も笛も、盆踊りも、屋台の声も、全部が混じる。

祭りが一つの生き物になった。

最後の一撥。

――ジャーン!!

拍手と叫びが爆発した。

篝火が揺れる。

夜空が震える。

熱田が尾張の中心になった。

■終演後:狂犬堂、戦場へ

午後講演が終わった瞬間、姫様は舞台袖で言った。

お市様「よし。――売れ」

私「またそれ!!」

お市様「笑顔はゼロ文じゃ」

私「それも!!」

お市様「ゼロ文で天下を取る。安いの」

私「雑理論が強すぎる……!」

寧々「午後衣装、成功。次はもっと攻める」

まつ「攻めんでええ!胃が死ぬ!」

藤吉郎「もう死んでる」

私「全員死んでるのに働いてるの、怖い!」

だが――みな走り出す。

笑顔で。

ひきつりながら。

胃を押さえながら。

狂犬堂は、止まらない。

■桃の祐筆日記

狂犬記/作者:桃

天文十六年(西暦一五四七年)八月八日、夕刻。

熱田神宮盆踊り夏祭り大会、特設野外ステージ(篝火)にて、

狂犬お市様・伝説の野外津軽三味線ライブ「午後講演」開催。

午前の熱狂により当日チケットは完売。観衆は五千を超え、数万の気配。

熱田の商人たちは鬼の形相で忙しいが、姫様の御言葉「笑顔はただじゃ」により、

ひきつった笑顔で売り続けた。

姫様は疲れを見せず、暴虐的な美で会場を支配。

寧々様は漆黒深紅の狂犬織で登場、夕刻の牙となる。

登場曲は、

一、尾張じょんがら節

二、尾張りんご節

三、熱田に咲く華(新曲)

四、俺たちの織田家臣団

五、俺たちの尾張

新曲「熱田に咲く華」にて観衆が泣いた。理由は不明。だが確かに伝説である。

終演後、姫様は「売れ」と仰った。

とても雑である。

しかし、雑だからこそ尾張が動くのだと思う。

胃が痛い。

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