第10話 狂犬お市様の狂犬式治水工事 ――推し活で川が治った。ついでにツケが爆発した――
狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
天文十六年(西暦1547年)三月八日 早春
尾張国・中村郷/庄内川・新川
三月。
冬の刺す風はゆるみ、土はやわらかく、川は――
整いすぎていた。
庄内川の護岸は、石がきっちり積まれ、杭が一定間隔で打たれ、土手は均され、
新川の水路は、まるで「最初からこうでしたが?」と言わんばかりに真っ直ぐ流れている。
本来なら、こういう工事は「今年はここまで」みたいな空気で終わる。
だが。
終わった。終わりすぎた。
予定より大幅に、いや“余計なお世話”レベルで完了してしまった。
原因は一つ。
言うまでもない。
お市様の推し活運営である。
握手会。褒め言葉。三味線コンサート。
そして「むさくるしい者はタコ殴り」圧。
尾張の男衆は、土を運びながら、爪を切り、髭を剃り、手を洗い、
最後に姫様と握手して満足して帰っていった。
何この時代。
私は川辺で帳面を抱えたまま、呆然としていた。
「……工事が終わりました……」
隣では、藤吉郎殿が眩しい頭を押さえながら呻く。
「……終わった……終わってしもうた……」
「予定より早いのは、よいことでは?」
藤吉郎殿は、涙目で言った。
「よいことのはずなんじゃが……姫様の場合、“余力”が次の地獄を呼ぶのじゃ……」
(確かに)
そこへ――
馬蹄の音。
豊臣号が悠々と現れた。
世界一美しいのに、世界一理不尽な、
**狂犬お市様(十一歳)**である。
「ふむ。終わったか」
お市様は、完成した護岸を眺め、満足げに頷く。
「尾張の男は、なかなか使えるの」
「“使える”って言い方がすでに……」と私が呟くと、
お市様は振り返り、さらりと言った。
「褒めれば動く。叩けば締まる。握手すれば回る。
――世は仕組みじゃ」
藤吉郎殿「姫様、それ“国づくり”じゃなくて“運営”です……」
お市様「国も店も同じじゃ。回せ」
(この姫、国家経営を“回す”で済ませる)
■ 中村が変わりすぎて、藤吉郎の実家が別物になる
工事が終わった勢いのまま――
中村の村は、整然と整備されていた。
道は固められ、荷車が通り、
溜め池は遊水池になり、鯉とスッポンが育ち、
庄内川の中洲は菜種畑になり、
蚕の小屋、綿花畑、藍の畑、染め場までできている。
村人「姫様のおかげで、村が“都会みたい”になっとる……」
村人「でも都会は握手会で治水せん……」
村人「確かに……」
そして何より――
藤吉郎殿の実家。
以前は「中村の普通の家」だったはずが、
今や堂々たる門が立ち、土塀が伸び、庭があり、馬を繋ぐ場所があり、
玄関にはでっかい深紅の旗。
旗には――
狂犬(でっかい字)+丸印(雑)=狂犬印。
(雑。とても雑。だが圧は強い)
藤吉郎殿が門前で固まった。
「……桃……これ、わしの家だったか……?」
「藤吉郎殿、もう“家”というより“拠点”です……」
藤吉郎殿「拠点にした覚えはない……!」
そこへ、お市様が当然のように宣言する。
「今日より、ここは狂犬中村屋敷じゃ」
藤吉郎殿「いつ決まりました!?」
お市様「今じゃ」
藤吉郎殿「今!?」
■ “推し活”の恐ろしさ:農村までアイドル化している
村の広場には、すでに簡易な櫓(やぐら)が組まれていた。
何に使うのか、聞くまでもない。
男衆「姫様の三味線、今日はありますか!」
男衆「握手は!握手は右手ですか左手ですか!」
男衆「褒め言葉は“美しい運び”でお願いします!」
私は目が泳いだ。
「……村が、推し活会場になってる……」
藤吉郎殿「姫様、農村改革の仕上げに“ファン化”を入れとる……怖い……」
お市様は涼しい顔。
「民が前向きなら、国は回る」
藤吉郎殿「回す言うなあああ!」
■ だが、現実が追いつく:熱田商人が怒鳴り込んできた
その時だった。
遠くから、怒号が聞こえる。
「織田さまああああ!!」
「つけ払いが!!」
「牛が!!鶏が!!農具が!!」
「紙と墨まで“親父殿につけとけ”って何だああ!!」
現れたのは――
熱田の商人衆。
顔が赤い。血管が浮いている。
怒りの波が、庄内川より激しい。
「中村の工事に必要だ言われて、
牛十頭!鶏百羽!鍬!鋤!縄!杭!油!紙!墨!
ありとあらゆるものを出したんだ!
なのに支払いが――」
「“織田信秀様と信長様につけておけ”だと!?」
私がそっと藤吉郎殿を見ると、藤吉郎殿は遠い目をした。
「……姫様の“雑理論”が現実になった瞬間じゃ……」
そこへ、清洲から使者が駆け込んでくる。
「中村郷より急報! 熱田商人衆、清洲へ苦情申し立て!」
つまり――
父・信秀様と、兄・信長様のところへ、
“ツケの請求書”が雪崩れ込んだのである。
私は胃を押さえた。
「……終わりました……今度は清洲が……」
藤吉郎殿「胃が……胃が……」
お市様だけが、ふん、と鼻で笑った。
「当然じゃ。国を回すには金がいる」
藤吉郎殿「だから回す言うなあああ!」
■ 清洲、炎上:信秀と信長、商人に囲まれる
場面は清洲。
(私は想像するだけで胃が痛いので、報告で聞いた内容を記す)
清洲の屋敷に、熱田商人が列を成した。
「信秀様!中村の工事の支払いを!」
「信長様!これ全部、織田家のツケで間違いありませんね!?」
信秀様は、額に手を当てていたという。
「……市のやつ……またやったか……」
信長様は、目が死んでいたという。
「……あやつ……何を“つけ”にしとる……」
商人が書付を広げる。
「牛十頭、鶏百羽、農具一式、杭、縄、石灰、油、紙、墨……
さらに“握手会用の甘い菓子”までありますが?」
信長様「握手会用……?」
商人「はい。『姫様が疲れるから糖が必要』と言われまして」
信長様「……」
信秀様「……」
その沈黙に、誰かが言った。
「信長様、胃薬……」
信長様「……丹羽長秀に頼む……」
(信長様、胃痛が確定している)
■ そして当人は中村でニコニコしている
一方その頃。
お市様は中村で、
完成した護岸を見ながら、こう言った。
「よい。これで春の田植えは楽になる。民も潤う」
私は思わず、反論しかけた。
「……ですが、清洲が支払いで大変に……」
お市様は、きょとん。
「何が大変なのじゃ?」
「……お金です……」
お市様は首を傾げる。
「父上と兄上が払えばよいではないか」
藤吉郎殿「それを“雑理論”と言うのです!!」
お市様は、にっこり笑って藤吉郎殿の肩を叩いた。
「藤吉郎。よいか」
「は、はい……(嫌な予感)」
「この一件から学べ」
「……何を……」
お市様は、きっぱり言った。
「大きく動かす時は、支払い先を明確にすることじゃ」
藤吉郎殿「今それ言います!?」
お市様「次は失敗せぬ」
藤吉郎殿「“次”がある前提!!」
私は思った。
藤吉郎殿は、お市様の意図を必死に考えて、知恵にしようとしている。
だからこそ、彼は成長する。
……胃と髪を代償に。
◉桃の感想(祐筆として)
・治水工事が予定より早く終わった。推し活の力は恐ろしい。
・中村が整いすぎて、藤吉郎殿の実家が“拠点”になった。本人は知らない。
・熱田商人衆がツケ払いに怒り、清洲で信秀様と信長様が炎上した。
・お市様は悪気がない。むしろ善意である。なお被害は出る。
・藤吉郎殿は段取りを学び、知恵に変えようとしている。胃が死んでいる。
・私は胃が痛い。だが、川が守られたのは事実である。悔しい。
◉桃の日記(狂犬記/作者:桃)
天文十六年(西暦1547年)三月八日 早春
庄内川・新川の治水・護岸工事、予定より大幅に早く完了。
原因は、狂犬お市様の推し活運営(握手会・褒め言葉・津軽三味線)。
尾張の男衆は異様に士気が高く、衛生観念まで向上したのは謎。
中村の村は整然と整備され、藤吉郎殿の実家は立派な武家屋敷(狂犬中村屋敷)となる。
藤吉郎殿は「拠点にした覚えがない」と混乱。私も同意。
本日、熱田商人衆が“つけ払い”の苦情を清洲へ申し立てたとの報。
牛・鶏・農具等、支払い先を「信秀様と信長様につけておけ」とした結果、清洲が炎上。
信長様の胃が死にかけていると推察する。
お市様は「父上と兄上が払えばよい」との御見解。
私は胃が痛い。
――以上。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます