第9話 狂犬お市様は、労働者をさらにつのる ――握手会、褒め殺し、推し活。尾張の治水がアイドル運営になった日――

狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)

天文十六年(西暦1547年)二月五日 冬

尾張国・中村郷/庄内川・新川(しんかわ)護岸工事現場

庄内川の風は冷たい。

冷たいのに――現場は暑い。

理由? 簡単である。

人が多すぎる。

鍬、籠、木槌、縄、丸太。

河原が“尾張男の見本市”みたいになっている。

近所の村はもちろん、清洲城下の若者、熱田の魚屋の次男、津島の船頭の弟子までいる。

誰も彼も泥だらけなのに、目だけキラキラしている。

(……怖い。何が彼らをここまで駆り立てた)

私が筆を握りしめていると、背後で藤吉郎殿が唸った。

「桃……わし、胃が痛い……頭も痛い……」

「私もです……」

藤吉郎殿は、顔が精悍になった。肩も厚い。腕も太い。

……ただし、頭だけが妙に眩しい。

髪が、数本しか残っていない。

風に揺れるたび、儚さが増す。

「藤吉郎殿……その……髪が……」

「見るな! 見るでない! これは英雄への通過儀礼じゃ!」

「英雄、髪を置いていくんですか……」

「置いていくんじゃ! 持っていかれるんじゃ!」

そこで、馬蹄の音。

豊臣号が歩いてきて、皆がサッと道を開ける。

現れたのは――

世界一美しいのに、世界一面倒な、

狂犬お市様(十一歳)。

白い肌は冬でも艶やかで、髪は黒々。

目は慈悲深いのに、拳は常に準備万端の目をしている。

「よいか。今日も護岸じゃ。庄内川と新川、両方じゃ」

現場の男どもが、息を呑む。

「……ひ、姫様……!」

「今日も麗しい……!」

「やばい、心が治水される……!」

(心が治水される、とは)

■ 狂犬お市様、さらに人を呼ぶ策を思いつく(そして私に押し付ける)

お市様は、私(桃)を手招きした。

「桃、よいか」

「は、はい」

「労働者が集まるのを、さらに加速させる」

「……すでに過密です」

「過密は正義じゃ」

「正義の使い方が違います」

お市様は当然のように言った。

「おふれを出せ」

「どのような?」

お市様は、両手をパッと広げた。

両手。両手である。嫌な予感しかしない。

「握手会を増やす」

「……はい?」

「それと、働いた者には、わらわが甘い言葉で褒めてやる」

「……褒め……」

「褒めるのは慈悲じゃ。慈悲は人を動かす」

「慈悲の運用が、完全に人夫募集です……」

お市様は眉一つ動かさず続けた。

「おふれにはこう書け。

“狂犬お市様、庄内川・新川の護岸工事にて、両手握手会開催”

“働けば働くほど褒められる”

“褒められたい者、集まれ”

……とな」

私は震える手で確認した。

「……“褒められたい者、集まれ”」

「うむ」

「それ、尾張の男に効きますか?」

お市様は自信満々に言い切った。

「効く。尾張の男は単純じゃ」

背後で藤吉郎殿が小声でツッコむ。

「姫様、尾張の男を犬扱いしとる……」

お市様「犬は可愛いじゃろ。褒めれば伸びる」

藤吉郎殿「今、伸びるのは工事だけにしてほしい……」

■ おふれ、出る。尾張がざわつく。

その日のうちに私は清洲・熱田・津島の要所に、おふれを貼らせた。

文字は丁寧に。内容は地獄に。

おふれ

天文十六年(二月)

中村郷にて庄内川・新川護岸工事を行う。

参加者は日当(温かい汁と握手)あり。

さらに、優秀者は狂犬お市様より甘い言葉で褒められる。

両手握手会開催。

褒められたい者、集まれ。

※むさくるしい者は身嗜みを整えること。

※嘘をつく者、怠け者はタコ殴りの可能性あり。

貼り終えた役人が呟いたそうだ。

「……これ、工事か……? 祭りか……?」

答え:祭りである。

しかも毎日。

■ そして現場は“推し活”の最前線へ

二日後。

現場は、さらに膨れ上がった。

庄内川側に“握手列”、新川側に“作業列”。

……順番が逆では?

男A「先に握手! それから土運び!」

男B「違う! 先に土運び! 褒められた後の握手が本番!」

男C「姫様に褒められるには、籠を二つ持ちだ!」

(尾張男、進化し始めている……)

私は頭を抱えた。

「藤吉郎殿、これ、現場が統制できません」

藤吉郎殿は、眩しい頭を押さえて言った。

「……桃、わしも頭が痛い……だが、ここまで来たら“流れ”にするしかない」

「流れ?」

「列を分ける。

“握手列”は午前の終わりと、夕方の終わりだけ。

それ以外は作業に集中。

褒め言葉は“作業成績上位者”のみ。

……姫様にそう提案してみる」

(藤吉郎殿、仕組みを作ってる!偉い!でも胃が死んでる!)

藤吉郎殿が、お市様へ進言した。

「姫様、握手会が過密すぎます。時間を区切り、作業時間を確保すべきです」

お市様は、少しだけ目を細めた。

「ふむ……藤吉郎、賢くなったの」

藤吉郎殿「ありがたき……(胃が痛い)」

お市様「では、褒美じゃ」

藤吉郎殿が身構える。

「……褒美……?」

お市様がにっこり。

「英雄も目前じゃ」

藤吉郎殿「褒美が精神論!!」

お市様「それが一番効く」

藤吉郎殿「効いてるから悔しい!」

■ 庄内川・新川護岸工事、急激に加速する

お市様の号令が飛ぶ。

「庄内川班! 堤を“低く広く”! 急流は受け流せ!」

「新川班! 護岸の石積みは“隙間なく”! 水を舐めるな!」

「そこの者! 縄の結びが甘い! 結び直せ!」

「よし、よいぞ! 今の運びは美しい!」

――美しい? 土運びが?

だが男どもは、そこに燃える。

「姫様が美しいって言った!!」

「今、俺の籠が褒められた!!」

「よっしゃ! 三往復いくぞ!!」

(籠が褒められた、とは)

藤吉郎殿が、段取りを整える。

「土運びは二列! 戻りは外側! ぶつかるな!」

「丸太はここに積め! 縄は短く切るな、長さは命だ!」

「飯の時間は鐘で管理! 休憩は短く、温かい汁で回復!」

村人「藤吉郎、怖い……」

村人「でも分かりやすい……」

私はその横で、延々と記録を取る。

(……これ、戦の準備にしか見えない……)

だが成果は出た。

護岸の進みが、目に見えて早い。

土が運ばれ、石が積まれ、水の流れが変わっていく。

村の長が感極まって呟いた。

「……庄内川が……躾けられていく……」

お市様「躾けは楽しい」

村人「川を犬扱いするの、やめて!!」

■ 趣味で神業:お市様、津軽三味線を披露する(尾張、推し活確定)

昼休み。

湯気の立つ汁をすすりながら、男どもが疲れで倒れかけていた。

そこへ、お市様が言った。

「……ふむ。疲れておるな」

藤吉郎殿「姫様、そりゃ皆、冬の川で働いてますから……」

お市様は、なぜか得意げに頷いた。

「仕方ないのー」

嫌な予感がする。

“仕方ないのー”は、狂犬の中で“やる気スイッチON”の合図である。

お市様は、どこからともなく三味線を持ってきた。

しかも、ちゃんと布に包まれている。

準備が早い。怖い。

「わらわの趣味じゃ。少し聞け」

藤吉郎殿「ここ、護岸工事現場ですよ?」

お市様「だから聞け」

そして――

ジャララララッ!

指が走った瞬間、空気が変わった。

音が鋭い。

冬の冷気を裂いて、心臓の奥を直接叩く。

早弾き。しかも、狂気の安定感。

男ども「「「うおおおおおお!!」」」

誰かが叫ぶ。

「姫様、神!!」

「いや、狂犬神!!」

「俺、今日から推す!!」

(推す、という言葉が戦国で出た……)

お市様は涼しい顔で弾き切り、最後に一言。

「よし。午後も働け」

男ども「「「はい!!」」」

藤吉郎殿が、頭を抱えた。

「……現場が宗教になっとる……」

私も頷く。

「……完全に推し活です……」

■ 推し活の弊害:男ども、身だしなみに目覚める(なぜか良い方向)

おふれの※注意書きが効いたのか、男どもが身嗜みに気を遣い始めた。

「姫様、むさくるしいの嫌いだってよ」

「髭そろえ!」

「手を洗え!」

「爪、切れ!」

「臭いのは死刑!」

(治水より衛生改革が先に進む尾張)

藤吉郎殿がぼそり。

「……姫様、恐ろしいほど社会を動かす……」

お市様「わらわは美人じゃからの」

藤吉郎殿「理屈が全部それ!!」

■ 藤吉郎、髪が数本でも前へ:英雄が近い(と褒められる)

夕方。

今日の進捗を見て、お市様が満足げに頷いた。

「庄内川班、新川班、よくやった。

特に――藤吉郎」

藤吉郎殿「は、はい!」

お市様は、藤吉郎殿の眩しい頭をじっと見てから、優しく言った。

「髪は数本でも、心は折れておらぬ。

……英雄も目前じゃ」

藤吉郎殿が、ちょっと泣きそうになった。

「姫様……!」

私「……よかったですね……!」

藤吉郎殿「……でも、褒められたら、胃が治る気がする……!」

お市様「よいぞ。明日も褒めてやる。働け」

藤吉郎殿「結局働く!!」

◉桃の感想(祐筆として)

・握手会と褒め言葉が“労働力”に直結するの、尾張の男が単純すぎて怖い。

・庄内川・新川の工事が加速した。物理的にも社会的にも加速した。

・お市様の津軽三味線が神業すぎて、現場が完全に推し活になった。

・藤吉郎殿は段取りで覚醒している。髪は覚醒しない。むしろ退場している。

・私はおふれを書きすぎて手が痛い。胃も痛い。藤吉郎殿は頭も痛い。

・でも、川が変わっていくのを見て、少しだけ胸が熱くなった。悔しい。

◉桃の日記(狂犬記/作者:桃)

天文十六年(西暦1547年)二月五日 冬

本日、お市様の命により、労働者募集をさらに加速させるため、

「両手握手会」「甘い言葉で褒める」旨のおふれを作成し、尾張各地へ掲示した。

結果、庄内川・新川護岸工事の人足が爆発的に増え、工事進捗が急加速した。

尾張の男は単純である(筆者の主観)。

昼休み、お市様が趣味の津軽三味線を披露。神業。

現場が一気に“推し活”化し、士気は異常に高まった。

衛生面も改善傾向(髭剃り・手洗い・爪切りなど)。

治水工事より先に身嗜み改革が進むのは謎である。

藤吉郎殿は段取り役として働き、頭痛と胃痛を訴えつつも折れず。

髪は数本のみ残存。お市様より「英雄も目前」と褒められ、少し泣きそうであった。

私は胃が痛い。

――以上。

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