一本松教授の妖怪ノート
@miztuka
第1話
正確に言うと「出るらしい」。
一本松教授の研究室——通称・一本松ゼミは、大学の端、古い講義塔の三階にあった。研究テーマは日本文学。芥川龍之介や太宰治など、名だたる文豪が残した作品を日々研究している……はずである。しかし研究室に向かうエレベーターは止まりがちで、階段はやたらと軋む。そのせいか、初めて来た学生は決まって「ここ、なんか出そうですね」と言う。
「うん、出るよ」
一本松教授は、いつもそう答える。冗談なのか本気なのかは、未だによくわからない。
「あれ?」
研究室の机の上に置きっぱなしにしていたノートを捲ると、昨日書いたはずの文章が所々消えていた。そして余白に見覚えのない文字が書き足されていた。
『その解釈は浅い』
教授の字ではない。教授の字はもっとこう、筆圧が強くて読みにくい文字だ。
「先生、これ」
ノートを指すと、教授は眼鏡越しにチラリと見ただけで頷いた。
「ああ、出たか」
「出たって?」
「妖怪だよ。片山くんは、妖怪を見るのは初めてかね」
即答だった。すかさず
「『文字食い』だな。頭のいい妖怪だよ。間違ったことが書いてあると、訂正してくれる」
教授に言われて昨日研究していた内容を思い出す。芥川龍之介の晩年の作品について書いたレポートだった。
話を聞いていた
便利機能といえば、便利なのか。考え込んでいると、
「コーヒーいる人?」
「俺いる!」
「俺も」
「僕もよろしく」
マリアは頷くと、紙コップを食器棚からもう一つ取り出してお茶を入れた。文字食いの分らしい。
「文字食いって長生きなんですか」
「どうしてそう思うんだね、山田さん」
「だって、注釈が的確な気がして」
ノートの余白には、さらに小さな文字が増えていた。
『参考文献:吾輩』
一人称は我輩なのか。妖怪は人間よりもずっと長く生きる。もしかしたら、芥川とも会っていたのかもしれない。
「先生、これ、レポートに使えます?」
教授は一呼吸置いて答えた。
「僕の著書ならいいんだけどな」
その日のゼミは、それで終わった。
妖怪の正体を深掘りすることも、追い払うこともなく、いつも通りに雑談をして、各自レポートの進捗を確認して解散した。
帰り際、静がノートを閉じると余白の文字はすっと薄くなった。
「満足したんですかね」
「どうかな。妖怪はだいたい、気まぐれなもんだよ」
一本松教授は大学ノートを取り出すと、そこに何かを書き始めた。覗き込むと下手な絵と、『文字食い』の名前が書かれている。
「僕が出会った妖怪は、こうして記録しているんだ。いずれ水木大先生のような妖怪図鑑を出版するのが夢なのさ」
一本松教授はそう言って目を輝かせた。
この人こそが日本文学研究室の教授をしながら、妖怪研究の第一人者として知られている、一本松教授なのだった。
「でも教授、絵が下手すぎます。こんなんじゃなかったでしょう」
教授が描いた絵に腕を一本描き足す。
「片山くん、きみも見えたのか」
「俺の家、寺なんで」
研究室の電気を消しながら、静はもう一度だけ机を振り返った。閉じられたノートの隙間から、紙が一枚、少しだけはみ出している。
『続きは次回』
誰に向けた言葉なのかは、わからない。
一本松研究室は今日も平和だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます