愛のない口づけに乾杯を
雀野ひな
第1話 裏切り
私は今日、父親に復讐する。
もっとも、父親と呼ぶ資格のある男ではない。
彼は上流貴族で、母は身分のない女だった。そんな娘の私を、彼が認めるわけがない。
火傷の痕を指でなぞる。鏡の中の顔は、もう昔の私ではない。
偽りの名前、偽りの身分、偽りの恋。
すべては、この日のために用意した。
今夜、彼の最も愛するものを、私はこの手で奪う。
今日もベッドの上で、私はカロンと唇を重ねる。そしていつものように、カロンはドレスの胸元に手をかける。
甘くて優しいキス。けれどそこに愛はないのだと、ただの性欲なのだと、私は自分に言い聞かせる。
キスの最中、私は忍ばせていたナイフを握りしめる。
かつて母は、逃げ場のない絶望の中で、この世を去った。私が、何も知らない赤子のころに。
今これを刺したなら、最愛の一人息子を失ったあの男は発狂し、悲嘆に暮れるだろう。絶望のドン底に突き落とした後、私はあの男をも殺すのだ。
そのために、私は今日まで生きてきた。
ナイフに力を込める。一気に突き刺そうとしたそのとき、ナイフごと手を握りしめられた。
一瞬、何が起こったかも分からず、私は動きを止める。
「アイナ。やはり君は、このために俺に近づいたんだね」
私は動揺した。が、それを表に出すまいと下唇を噛む。
「ずっと気づいていたの?」
「分かっていたさ。これは最初から、君が計画していたこと」
一拍置いて、彼は続けた。
「……それから、俺たちが兄妹だということ。父上が、君のお母様にしたこともね」
「私は、あの男を父親だと思ったことなどないわ」
「君の怒りも当然だ。父上のしたことは、決して許されるものではない。だから君は、俺を使って復讐を……」
そこまで言って、カロンは黙り込んだ。
こうなっては仕方がない。不意打ちでなければ、私は体格のいいカロンに勝つことなどできない。
せめて、せめてあの男が死ぬ瞬間だけでも、この目で見たかった。それももう、叶わない。
それなら私には、生きている意味がない。
「私を殺したいなら殺せばいいわ。それとも、投獄でもされるのかしら?
貴方を殺せないなら、あの男に復讐できないなら、私はどうなってもいいわ。私の人生なんかいらないわ」
「まさか」
そう言ってカロンは憐れむような目をし、ゆっくり私の手を離した。
「何をしているの?」
「俺を殺したいなら、そうすればいい。その後、父上も殺せばいい。それで君が幸せなら、俺は構わないさ」
「どうしてそんなことを?」
「君は分かってない。何度体を重ねても、どれだけ愛を伝えても、君はひとつも分かってくれない」
「どういうこと?」
「俺は、君を本気で愛しているんだ。君と出会ったあの日から、俺は女遊びをやめた。君だけなんだよ。君と出会って、人を愛することを知ったんだ。
だから、君の計画を知っていても、兄妹だと気づいてしまっても、その殺意を分かっていても、俺はこうして君に会いに来たんだ」
「そんなの、口ではいくらでも言えるわ。信じられるわけないじゃない」
だってカロンは、あの男の息子。あの男と同じ。女を騙すことに快感を覚えるクズ男に違いないのだから。
カロンは私の目を見つめ、悲しそうな顔をする。
「そう言うと思ったよ。それでもいいさ」
カロンは両腕を広げた。
「さあ。やれ、アイナ。俺の愛しいアイナ」
私はカロンを押し倒し、ナイフを振りかざす。
ずっと、このためだけに生きてきた。復讐のためだけに生きてきた。自分の人生を捨ててきた。
だけど……
私は震える手を緩めた。ナイフが滑り落ちる。
「アイナ?」
「……私には、できない」
そう、カロンは何もしていない。私はカロンに対して、何の恨みも持っていない。私は何の罪もない彼に近づいて、騙して……こんなの、あの男と同じじゃないか。
「アイナ」
カロンは私を抱き寄せた。強く強く、抱きしめられる。
「アイナ。愛しているよ」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、カロン。私、私……」
「何も言うな。これからは一人じゃない。俺がいるよ、アイナ」
暖かい腕の中で、ずっと抑えてきた感情が、涙とともに溢れ出す。
「カロン……私も、愛しているわ」
カロンは体を回転させ、私を押し倒した。熱い眼差しで私を見つめる。そして、キスをする。
舌が唇をこじ開けて、私に絡みついてくる。いつも以上に激しくて、強引で、それでも優しい、熱いキス。
呼吸もままならない。胸が苦しい。けれど、愛おしい。
ずっと辛かった。寂しかった。憎悪と怒りに身を任せ、愛を知らずに生きてきた。
このまま、カロンと生きられたら。あの男のことも、私たちが兄妹であることも全て忘れ去り、遠い国で二人きりで過ごせたら。ああ、どれほど素敵だろう。幸せだろう。
初めて生きることに希望を見た、そのとき……
「……ンッ!」
喉の入り口に、小粒な何かを感じた。しかし、考える間もなく彼の舌に押され、反射的に飲み込んでしまう。
私はカロンと舌を絡めながら、意識を朦朧とさせる。喉の奥がチクチクと痛む。
——痛い、熱い、苦しい……これは本当に、キスのせい……?
いや、違う……毒だ。
「……ヴアァァッ!」
あまりの痛みに、私は声にならない声をあげた。塞がれていた口が空く。毒を吐き出そうと必死にもがくが、どうにもならない。
――痛い、痛い、痛い、苦しい……!
景色がぼやけていく中、薄っすらとカロンの顔が見える。彼は笑っていた。
騙されたのだ。
——許さない、許さない、許さない!
ぼやけるカロンの影を睨みつける。最後の力を振り絞り、精一杯の殺意を込めて。
「死……ね……」
意識が遠のく。死を確信したそのとき、笑いを堪えるような、馬鹿にするような、ひどく憎たらしい声が聞こえた。
「毎度毎度、殺意のこもったキスを、どうもありがとう」
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