観測不能の真実

@tomokage_satoru

第1話 落ちないはずの遺体


 鷹宮理沙教授は、たいてい研究室にいない。


 これが、僕――真田恒一が鷹宮研究室の助手になって最初に学んだ事実だ。

 理論物理学の教授といえば、白衣を着て黒板の前に立ち、難解な数式とにらめっこしている姿を想像する人が多いだろう。だが鷹宮教授の場合、その想像はだいたい外れる。


 研究室にいない。

 もしくは、いても研究室らしくない。


 今も僕は、大学構内を早足で歩きながら、スマートフォンの画面を睨んでいた。教授の現在位置を確認するためだ。


 図書館――違う。

 実験棟――違う。

 警察署――警察署?


「……いや、なんで」


 思わず声に出してしまい、通りすがりの学生に怪訝な顔を向けられた。


 鷹宮理沙教授。年齢三十八歳。国立大学理論物理学専攻教授。

 量子情報理論とカオス理論の第一人者で、論文は国内外で引用され、研究費も潤沢。

 そのうえ警察の科学顧問を「頼まれたから」という理由で引き受けている、だいぶ意味の分からない人だ。


 そんな人の助手をしている僕、真田恒一は二十二歳。大学院修士一年。

 専攻は応用物理だが、研究室の本棚に並んでいるのは専門書よりもミステリー小説の方が多い。


 なぜこうなったのかは、今でも分からない。


 教授が僕を助手に選んだ理由は、「推理小説をよく読むから」だった。

 研究にどう関係するのかと聞いたが、「人間の嘘は、物理より複雑だ」と返されたきりだ。


 結局、教授は研究室にいた。

 ただし、机の前ではなく、床に座って。


 ホワイトボードいっぱいに書かれた数式の前で、教授は胡坐をかき、顎にペンを当てていた。


「教授、おはようございます」


「ん。おはよう」


 返事はあったが、視線は一ミリも動かない。


 ――今日も平常運転だ。


 その直後、研究室の電話が鳴った。



「鷹宮だ」


 教授は立ち上がらず、そのまま受話器を取った。

 数秒、相手の話を聞き、短く「分かった」と言う。


「現場を見ないと判断できない」


 電話を切ると、教授は僕を見た。


「真田、準備しろ」


「え、どこへですか」


「研究棟。人が落ちた」


 それだけ言って、教授は鞄を掴んだ。


 拒否権は、なかった。



 理工学研究棟の前には、規制線が張られていた。

 平日の昼間だというのに、人だかりができている。


 警察官の一人が教授を見るなり、姿勢を正した。


「鷹宮先生。お呼び立てしてすみません」


「状況は?」


「十二階の研究室から、准教授が転落死しました。自殺か事故と見ています」


 教授は何も言わず、視線を地面へ向けた。


 そこに、遺体があった。


 ――いや、正確には「あった痕跡」だ。既に遺体は運ばれている。


 教授は数歩歩き、立ち止まった。


「……おかしい」


 それが、第一声だった。


「おかしい、ですか?」


「距離が合わない」


 教授は空を見上げ、建物の上階を指差した。


「十二階。床から地面まで、およそ四十メートル。

 通常の自由落下なら、着地点は建物の真下からせいぜい二、三メートル」


 教授は地面に視線を戻す。


「だが、これは――八メートル以上離れている」


 警察官が言葉に詰まる。


「……強風が吹いていましたから」


「今日の最大風速は毎秒六メートル。

 人間一人を、これだけ水平方向に運ぶには足りない」


 教授は淡々と続けた。


「この位置に落ちるには、初速が必要だ」


「初速……?」


「落ちる前に、横方向の速度を与えられたという意味だ」


 周囲がざわつく。


 僕は、背中に嫌な汗を感じていた。


 ――これは、事故じゃない。



 現場検証の間、教授はほとんど動かなかった。

 ただ、見る。


 建物の高さ。

 風向。

 地面の状態。


 触れず、測らず、数値を頭の中で組み立てていく。


 僕はその横で、別の違和感を考えていた。


 ――もし、ミステリー小説だったら。


「……教授」


「何だ」


「ミステリだと、こういう場合――

 “落ちた場所がおかしい”のは、だいたい事故じゃありません」


 教授が初めてこちらを見た。


「理由は?」


「犯人が、“落ちたと思わせたい”からです」


 数秒の沈黙。


 教授は、わずかに口角を上げた。


「なるほど」


 それは、珍しい反応だった。




 被害者は、同じ研究棟に勤める若手准教授だった。

 研究テーマは教授と近く、競争関係にあったという。


 研究室の窓は開いていた。

 争った形跡はない。


「自殺に見せかけるには、最適だな」


 教授は言った。


「だが、計算が甘い」


 トリックは単純だった。

 だが、人は「落下」という言葉に騙される。


 被害者は、落ちたのではない。

 運ばれたのだ。


 夜間、研究棟の清掃用クレーン。

 それを使えば、遺体を建物から離れた位置へ移動させることができる。


「人は、“上から下”の運動しか想像しない」


 教授は淡々と語る。


「だから、横方向の移動を見落とす」


 犯人は、被害者と同じ研究分野の研究者だった。

 論文の先行権。

 ポスト。

 焦り。


 事故に見せたかった。

 それだけだった。




 全てが明らかになった後、僕たちは研究室に戻った。


 僕は椅子に座り込み、深く息を吐いた。


「……疲れました」


「人間は、命が絡むと消耗する」


 教授はホワイトボードに向かいながら言った。


 そして、振り返る。


「真田。きみはどう思う?」


 ――来た。


 頭が真っ白になる。


「えっと……その……」


 教授は僕を観察するように見つめ、メモを取った。


「なるほど。

 人間は急に意見を求められると、思考が停止し、

 呼吸と瞬きの頻度が増加する」


「論文にしないでください!」


 教授は少しだけ、笑った。


 物理は嘘をつかない。

 嘘をつくのは、いつも人間だ。


 だが――

 人間は、物理よりずっと厄介で、

 だからこそ、面白い。


 僕はそう思いながら、机の上のミステリー小説を閉じた。

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