砂塵と蜜蝋のキャラバン

@Noaaaaaaa

第1章『見習い商人と異端の鈴』

第1話「砂塵の相続人」

目が覚めると、いつも同じ天井が見える。獣脂蝋燭の煤で黒ずんだ帆布の内側。縫い目から漏れる朝の光が、細い筋となって暗がりを切り裂いている。

水瀬ミオ__今は、ミラ・ヴァスクと名乗っているが__は寝床から身体を起こし、小さく息を吐いた。テントの外からは、既に活動を始めているキャラバンの雑音が聞こえてくる。駱駝の鼻息、荷物を縛る革紐の音、誰かの欠伸。

十五歳になった。転生してから五年が経つ。


最初の頃は、毎朝目が覚める度に混乱した。ここはどこだ、私は誰だ、日本はどこへ行った。けれど人間は環境に慣れる生き物で、いつしか前世の記憶は「そういう夢を見ていた気がする」程度の曖昧さに落ち着いていた。音大を中退したこと、バックパックを背負って東南アジアを放浪していたこと、ラオスの山道でバスが谷に転落したこと。全てが遠い。

ミラは粗末な麻の服に着替え、テントの外に出た。

空は既に白く、東の地平線が薄紅色に染まり始めている。キャラバンは昨夜から「石の泉」と呼ばれるオアシスに滞在していた。ここから次の町まではおよそ三日の行程。水と食料を補給し、午前中には出発する予定だ。

「おはよう、ミラ」

声をかけてきたのは、焚き火の番をしていた若い男__ダリウスだった。二十代半ばの痩せた体格で、右目の周りに古い火傷の痕がある。キャラバンの護衛兼雑用係で、ミラの父に拾われて三年になる。

「おはよう。父は?」

「もう起きてる。町の商人と値段の話してるよ」

ミラは頷き、焚き火の近くにしゃがみ込んだ。鉄鍋では麦粥が煮えている。彼女は小さな木椀に粥をよそい、塩を少しだけ振りかけた。砂糖や蜂蜜は貴重品だ。朝食に使う余裕はない。

「今日も暑くなりそうだな」

ダリウスが空を見上げて言った。ミラも視線を上げる。雲一つない快晴。それは幸運でもあり、不運でもある。砂嵐の心配はないが、日中の行軍は過酷になる。

「駱駝の足は大丈夫?」

「ああ、問題ない。ただ、三頭目の奴が少し機嫌悪いな。昨日、積み荷を多めにしたからか」

「じゃあ今日は荷物を減らして。売れそうにない陶器は置いていこう」

「親父さんが黙ってないぞ」

「説得するわ」

ミラは淡々と答えた。父__ガラン・ヴァスクは頑固な頭で、一度決めたことは滅多に曲げない。けれど娘の言葉には比較的耳を傾けてくれる。理由は分からないが、ミラには妙に大人びたところがあると、彼はよく言った。

実際、精神年齢で言えば三十を越えている。前世の記憶が曖昧でも、経験だけは残っているのだろう。

粥を食べ終えたころ、テントの向こうから父の声が聞こえてきた。

「__だからその値段じゃ割に合わないんだ。もう少し上乗せしてくれないか」

「無理をいうな、ガラン。香料の相場は下がってるんだ。この辺りじゃ誰もそんな高値じゃ買わない」

相手は地元の仲買人らしい。ミラは立ち上がり、そちらへ向かった。

父は五十過ぎの男で、日焼けした顔には深い皺が刻まれている。商人としては中堅といったところで、大きな富を築いているわけではないが、それなりに信用はある。彼の向かいにいるのは、丸々と太った商人で、絹の上着を着ていた。明らかに、こちらより格上だ。

「おはよう、父さん」

ミラが声をかけると、ガランは少し表情を緩めた。

「ああ、起きたか。ちょうどいい。お前も聞いてくれ。この人はジャバルさんといって__」

「存じてます」ミラは軽く頭を下げた。「昨年もお世話になりました」

ジャバルは少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を作った。

「ほう、よく覚えているね、お嬢さん。商人の娘らしい記憶力だ」

「ありがとうございます。ところで、香料の件ですが__」

ミラは話に割り込んだ。父が眉をひそめる。

「ミラ、まだ話の途中だ」

「分かってます。でも、ジャバルさんの言う通り、この辺りの相場は下がってるんです。だったら、香料は次の町まで持っていった方がいい。そこなら需要がある」

「次の町までは三日かかる。その間に香料が傷んだら__」

「傷みません。密封してありますから」ミラは父の目を真っ直ぐ見た。

「それより、ここで売るなら陶器の方がいい。軽いし、この町には陶工が少ないから、多分高くても売れます」

ジャバルが興味深そうに二人を見ていた。

「……陶器、ね」彼は顎に手を当てた。「悪くないが、どのくらいの数がある?」

「十二個です。全部、カシュラム焼き」

「ほう」

カシュラム焼きは、東方の都市で作られる青い釉薬の陶器で、この地域ではやや珍重される。

「見せてもらえるか?」

「もちろん」

ミラは父に視線を送った。ガランは困ったように首を振ったが、最終的には頷いた。

結局、取引は成功した。陶器は十二個すべて売れ、思ったより良い値がついた。ジャバルは上機嫌で去っていき、ガランは複雑な表情でミラを見た。

「……お前、いつからそんなに口が回るようになった?」

「前からですよ」

「そうか?」

ガランは首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。


キャラバンが出発したのは、太陽が中天に差し掛かる少し前だった。

編成は小さい。駱駝が五頭、人間は六人。ガランとミラ、ダリウスの他に、料理番のサラ(四十代の無口な女)、もう一人の護衛であるトゥバン(筋肉質の大男で、口より先に手が出るタイプ)、それから雑用係の少年ラミが一人。

ミラは二番目の駱駝に乗っていた。揺れに身を任せながら、彼女は周囲の景色を眺めた。

砂漠__といっても、一面の砂丘が続くわけではない。この辺りは半砂漠地帯で、乾いた岩がちの大地に、時折低木や枯れ草が生えている。遠くには岩山が連なり、空は果てしなく青い。

静かだった。風の音と、駱駝の足音、荷物がきしむ音だけが聞こえる。

ミラはこの静寂が嫌いではなかった。前世で彼女は音楽を学んでいたが、それ以上に「音のない場所」を求めて旅をしていた気がする。喧騒から逃れたかった。何から?自分でもよく分からない。

「ミラ」

前方から父の声がした。ガランは先頭の駱駝に乗っている。

「何?」

「お前、本当に商人になりたいのか?」

唐突な質問だった。ミラは少し考えてから答えた。

「なりたい、っていうより……他にやることがないから」

「そうか」

ガランは黙り込んだ。しばらくしてから、また口を開いた。

「お前の母さんは、商人の暮らしが嫌いだった」

母の話を父がするのは珍しい。ミラの母__この身体の母__は、ミラが六歳の時に病死している。記憶はほとんどない。

「あの人は音楽が好きでな。町の祭りで歌ったり、踊ったりするのが好きだった。でも、キャラバンの生活はそういうのとは無縁だ。ずっと移動ばっかりで、根を下ろせない」

「……うん」

「だから、お前がもし、他にやりたいことがあるなら__」

「ないです」

ミラははっきりと答えた。

「私、音楽は好きだけど、それで生きていけるとは思わない。商売の方が向いている」

それは本心だった。前世で彼女は音楽の道を諦めた。才能がなかったわけではないが、その世界で生き残れる自信がなかった。今世でも同じだ。芸術より、実利。夢より、現実。

ガランは何も言わなかったが、少しだけ肩を落としたように見えた。


最初の異変に気づいたのは、出発から二時間ほど経った頃だった。

後方を警戒していたダリウスが、急に駱駝を止めた。

「……おい」

彼の声には緊張が含まれていた。ミラが振り返ると、ダリウスは遠くの地平線を見つめていた。

「何?」

「煙が上がってる」

ミラも目を凝らした。確かに、遠くに黒い煙のようなものが見える。

「あれは……」

「砂煙じゃない」トゥンバが低い声で言った。「火だ。何かが燃えてる」

ガランが駱駝を止め、全員が立ち止まった。

「どこだ?」

「多分、『石の泉』の方角です」

ミラが答えた。煙の位置から考えて、間違いない。つい数時間前まで自分たちがいた場所だ。

「……盗賊か」

ダリウスが吐き捨てるように言った。

「この辺りで活動してる盗賊団がいるって話は聞いてたが……」

「だったら、俺たちも狙われる可能性があるな」

トゥンバが腰の短剣に手をかけた。

ガランは黙って煙を見つめていた。やがて、彼は静かに言った。

「……急ごう。ここで立ち止まってる場合じゃない」

「ですが、もしオアシスに被害が__」

「俺たちには関係ない」

ガランの声は冷たかった。

「商人の鉄則だ。巻き込まれるな。運が悪かった奴には同情するが、それだけだ」

ミラは父の横顔を見た。彼は本気だった。

それが正しいことも、ミラには分かっていた。このキャラバンに戦闘能力はほとんどない。トゥンバとダリウスがいくらか剣を使えるが、本職の盗賊には敵わない。巻き込まれれば、全滅する。

だから、逃げるしかない。

「……分かった」

ミラは頷いた。

一行は速度を上げた。駱駝を急がせ、できるだけ早く、この場所から離れる。煙は次第に遠ざかっていったが、誰もが不安そうだった。

そして__

日が傾き始めた頃、それは起きた。

前方を進んでいたガランの駱駝が、突然悲鳴を上げた。次の瞬間、駱駝が横倒しになり、ガランが地面に投げ出される。

「父さん!」

ミラは駱駝から飛び下りた。ダリウスとトゥバンも慌てて駆け寄る。

駱駝の脇腹には、矢が刺さっていた。

「伏せろ!」

トゥバンが叫んだ瞬間、二本目の矢が飛んできた。ミラの頭上を掠め、背後の荷物に突き刺さる。

「盗賊だ!」

ダリウスが剣を抜いた。

岩影から、数人の男たちが姿を現した。ぼろぼろの服を着て、顔を布で覆っている。手には弓と剣。

盗賊__この地域では珍しくない。交易路を狙い、キャラバンを襲う無法者たち。

「荷物を置いていけ」

盗賊の一人が叫んだ。

「そうすれば命は助けてやる」

トゥバンが歯を食いしばる。ダリウスが震える手で剣を構えた。

ミラは父の元に駆け寄った。ガランは倒れたまま、額から血を流していた。意識はあるが、立ち上がれそうにない。

「ミラ……」

ガランが掠れた声で言った。

「……逃げろ」

「嫌です」

「いいから……お前だけでも……」

「無理です」

ミラははっきりと答えた。

逃げられるわけがない。ここで父を見捨てたら、彼は死ぬ。それに、駱駝も荷物もすべて失う。そうなれば、キャラバンは終わりだ。

だったら__

「……分かった」

ミラは立ち上がり、盗賊たちの方を向いた。

「荷物を渡す。だから、私たちを見逃して」

「ミラ!」

ダリウスが驚いて振り返った。

「何を__」

「黙って」

ミラは冷静だった。

これしかない。戦って勝てる相手ではない。ならば、交渉するしかない。

盗賊のリーダーらしき男が、ゆっくりと近づいてきた。顔の下半分を覆う布の上から、鋭い目がミラを見つめている。

「賢い娘だ」

男は笑った。

「だが、荷物だけじゃ足りない。駱駝も置いていけ」

「……分かった」

「それと__」

男はミラの顔をじっと見た。

「お前も、だ」

ミラの背筋に、冷たいものが走った。

「……何?」

「お前、まだ若いな。売れば金になる」

トゥンバが怒鳴った。

「ふざけるな!」

彼が盗賊に向かって突進する。だが、男は冷静に弓を構え__

「トゥンバ!」

サラが悲鳴を上げた。

ミラは動けなかった。頭が真っ白になる。

盗賊が近づいてくる。

その時__

遠くらから、奇妙な音が聞こえてきた。

鈴の音。

規則的で、けれど不協和音のような、妙なリズムを刻む鈴の音。

盗賊たちが動きを止めた。リーダーが顔を上げ、音の方向を見る。

「……何だ?」

音は次第に近づいてきた。そして、岩山の向こうから__

人影が現れた。

十人ほどの集団。全員が白い布を纏い、手に鈴を持っている。彼らは歩きながら、一定のリズムで鈴を鳴らしていた。

その音は__ミラには、どこか懐かしかった。

前世で聴いた、何かの音楽に似ている。ガムランでもなく、ケチャでもなく__けれど、確かに「儀式音楽」の響きだった。

盗賊のリーダーが舌打ちした。

「……鈴鳴らしどもが」

彼は仲間たちに合図を送った。

「撤退だ。あいつらに関わるな」

「ですが__」

「いいから行くぞ!」

盗賊たちは慌てて逃げ去った。まるで、何か恐ろしいものから逃げるように。

鈴の音は止まった。

白装束の集団がゆっくりと近づいてくる。先頭にいるのは、痩せた老人だった。長い白髭を蓄え、目は深く窪んでいる。

彼はミラたちを見下ろし、静かに言った。

「……大丈夫か?」

ミラは、ようやく息を吐いた。

「……はい」

老人は頷いた。

「我々は『鈴鳴らし教団』の巡礼者だ。怪我人がいるようだが、手当てが必要か?」

「お願いします」

ミラは頭を下げた。

こうして、ミラのキャラバンと、鈴鳴らし教団の出会いが始まった。


夜になり、一行は岩山の麓で野営することになった。

教団の者たちが手当てをしてくれたおかげで、ガランとトゥンバの傷は何とか塞がった。命に別状はないが、しばらく移動は難しい。

ミラは焚き火の前に座り、ぼんやりと炎を見つめていた。

隣には、教団の老人__名をザイードというらしい__が座っていた。

「礼を言う」

ミラは静かに言った。

「あなたがいなければ、私たちは__」

「礼には及ばない」

ザイードは穏やかに答えた。

「我々はただ、道を歩いていただけだ」

「……でも、盗賊たちはあなたたちを恐れていた」

「ああ」

ザイードは頷いた。

「鈴鳴らしは、不吉だと言われている。我々の音楽は、魔を呼ぶと」

「本当なんですか?」

「さあ、どうだろうな」

老人は笑った。

「だが、少なくとも盗賊は信じている。だから近づかない」

ミラは鈴の音を思い出した。あの不思議なリズム。どこか心を揺さぶるような、危うい響き。

「……あの音楽、どこで学んだんですか?」

「代々、受け継がれてきたものだ。我々の先祖が、遠い昔に作ったと言われている」

「目的は?」

「祈りだ」

ザイードは空を見上げた。

「我々は、失われた都市__エコーラへの巡礼を続けている。そこに辿り着ければ、全ての音が調和すると信じて」

エコーラ__ミラはその名を聞いたことがあった。伝説の都市。音響建築で知られ、都市全体が楽器のように設計されていたという。だが、数百年前に砂に埋もれ、今はもう存在しない。

「……でも、エコーラはもう__」

「ないと思うか?」

「はい」

「そうかもしれない」

ザイードは静かに笑った。

「だが、我々は探し続ける。それが我々の役目だから」

ミラは黙った。

この老人は、狂っているのだろうか。それとも、ただ信仰に忠実なだけなのか。

ザイードが口を開いた。

「ところで、お嬢さん。お前たちは、どこへ向かっている?」

「カシュラムです。オアシス都市」

「ほう、我々も同じだ」

ザイードは興味深そうに言った。

「ならば、一緒に行かないか?我々には護衛が必要だし、お前たちには__」

「父がいます」

ミラは遮った。

「判断するのは父です」

「そうか」

ザイードは頷いた。

だが、ミラは心の中で既に決めていた。

この教団と一緒に行くべきだ、と。

理由は単純。彼らがいれば、盗賊に襲われるリスクが減る。それに__

ミラは自分でも理解できない感情に気づいた。

あの鈴の音が、もう一度聴きたい。

前世の記憶が蘇ってくる。音楽を学んでいた頃の、あの高揚感。未知の音楽に出会った時の、震えるような喜び。

それは、ずっと忘れていたものだった。

ザイードが立ち上がった。

「では、明日、お前の父上と話そう」

「……はい」

老人が去った後、ミラは一人、焚き火の前に残された。

遠くで、誰かが鈴を鳴らしている。

その音は、風に乗って消えていった。

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2026年1月15日 18:00

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