裏世界の牢獄にて

Navi

〈プロローグ〉裏世界の牢獄にて


 『ーーこれは、もうどこにも語られない御話おはなしである。』


 薄暗いランプの火が灯る、人が4人分の木製のテーブルの上には今にも崩れそうな本の山。

 その周りにはペンや羽根ペン立て、真鍮のインク壺、歯車の詰まった懐中時計、そして色褪せたポストカード。


 どれもこれも、アンティークな空気を封じ込めたような品々が所狭しと積み上げられている。

 ランプの明かりが古びた金属の縁をちらちらと反射させ、その陰影が机の上を複雑な模様を描いていた。


「はぁ……やっぱり、今回の話はハズレだったねー…」


 その中で少年は1人、一冊の本を上へ掲げながら最後の一文を読み終えた。

 そして、胸の内をため息と一緒に吐き出す。

 しかしその溜息は、読書後の余韻ではなく期待を裏切られたことによる無念のような音だった。


「……特に最後!」


 ランプの炎は微かながらも、この空間が外界から隔絶されていることを示すかのように、ほとんど空気の動きに影響されることなく静かに立っていた。

 本を閉じ、その表紙が机に触れた瞬間、空間の均衡がわずかに崩れる。

 古びた革の匂いと、羊皮紙の粉がほのかに舞った。


「こんな雑なハッピーエンドにするのは、読み手としては頂けないよ…!」


 少年の声が響くと、机上のインク壺の真鍮が冷たく光を反射する。

 そして、時の流れを封じ込めたかのような懐中時計の歯車が、一瞬軋むような音を立てた。

 それは、閉じたはずの物語がまだ不満によって呼吸を続けているかのように見える。


「………おい。」


 すると、声が少年の頭上、ランプの光が届かない闇の層から低く、湿った響きを伴って垂れ落ちる。

 何もない空気の層に、不意に冷気が走った。


「そんな愚痴ばっか垂らすな…聞いてて不快だ。」


 古書の山を撫でるように沈黙の波紋が広がり、ランプの火が僅かに、はっきりと萎縮する。

 まるで、その声の主の存在が、周囲の光と熱を吸い込んでいるかのようだった。


「いやいや〜…これも読者としての、権利じゃんか〜…」


 ランプの火がゆらめくたび、少年の影は机の上に長く伸びた。

 椅子に腰かけた身体はまだ幼さを残しているはずだが、妙に背筋がまっすぐでただそこに座っているだけで不思議な威厳が漂っている。


 机に積まれた古書の山やアンティークの硝子瓶と比べれば、その身の丈はほんのわずか高く出る程度。

 その座り方は、単なる少年の中に何千もの物語を裁いてきた古老の静けさを思わせた。


「全くもう……この最後の展開で魅力激減だよ…」


 肩口から垂れる布は、修道者がまとう祭服のようでもあり、同時に書庫の番人が羽織る外套のようでもあった。

 その合わせ目から覗く袖は、羊皮紙の粉を拭うにふさわしい質素さを持ちながら、同時に祈りを捧げる者の装束をも連想させる。


「はぁ〜〜……こんな結末にするくらいなら、いっそ未完で放り出してくれた方が…」


 口を紡ぎ、光を受ける髪は淡く白銀を帯び、ところどころ煤のように黒が差し込んで、夜と朝の境目を思わせる。

 それがゆらめくたび、深い色の瞳がかすかに輝きを帯び、覗き込む者にはその奥に形容しがたい深淵が広がっているように見えた。


「……いや、やっぱりそれは無しだけど、なんでこんな無理矢理…」


「またそれか……こうなるから『入らない』わけだったんだろ?それで、お前には何がそんなに不満だったんだ?」


 少年の頭上、暗い影の中から低い声が響く。

 何もない空気の中から聞こえてきた声。

 しかし少年は、特に驚く様子を見せることなく、その声に対して口を尖らせながら萎れた声を返した。


「本当に終盤は良かったよ……でもそう、最後!」


 言葉には読者としての純粋な苛立ちと、物語に対する強烈な思い入れが同時に滲んでいた。

 少年が持つ白銀の髪の一筋が、ランプの熱気のせいか僅かに立ち昇る。


「これは、『エンディングの基本』が分かってないんだ!」


「エンディングの基本だぁ……なんだ、それ?」


 闇の奥深くで重しが外されたかのように、ごくわずかにだが確かな質量を持って響く。

 それに対して少年は思わず机に手を打ちつけ、積まれた本がカタリと音を立てた。


「いや、例えばだけどさ…」


 その勢いのまま、手に続けて額をテーブルに押し付けて唸るような声を上げる。

 古書の山がその振動に合わせて小さな雪崩を起こしそうになっていた。

 ランプの炎がはじけ、揺らめいた影が机の上のアンティークをいっそう不安定に映し出す。


「ある物語だと、犠牲になってでも残された者が生きていく……その痛みや余韻こそが物語を深くするじゃん?」


「…まあ、そうだな?」


 少年は額をテーブルに押し付けたまま、籠もった声でそのように訴える。

 主張の根底にあるのは、『物語』に対する一種の敬意だった。


「なのに!この話は最後に急に、過程もなしに『奇跡が起きました、めでたしめでたし』なんだよ!?そんなのただの逃げじゃないの…!?」


 言葉は熱を帯び、次第に吐息が白く見えるほどに荒くなる。

 冷たい書庫の空気に、少年の熱い息が白く一瞬の靄となって消えた。


「はぁ……じゃあお前は、悲劇の方が好きだと。」


 顔が見えずともどんな表情をしているのかが分かるほどの声量に、頭上の声は呆れたように声を鳴らした。

 それは子どもの癇癪を、長い時間を生きる存在が見つめているような、諦めとわずかな疲労の色を帯びていた。


「憂鬱として、救いのない終わりを美しいと思ってるわけか?」


「違うなぁ〜、それは全然違うんだよねー…」

 

 問いかけには試すような、あるいは議論を終結させようとするような意図が含まれていた。

 それを受けた少年はゆっくりとジト目になりながら今度こそ顔を上げ、テーブルから身体を離す。

 そうして机に積んだ本を指で弾きながら溶けたように脱力する。

 瞳の奥に淡く光る深淵が、炎に照らされてわずかに震えていた。


「そういうただ『救いがない』からいいんじゃないの!そこでしか見えないものがある……絶望の中に置かれて、なお手を取り合ったり、最後まで信じ抜いたり、そういう『人の芯』みたいなものが凝縮されるべき!」


「(お前が言うのかよ、それを…)」


 頭上の声は吐息にも満たない、しかし少年だけに届くほどの確かな嘲笑を含んでいた。

 だが、少年はそれを受けても言葉を止めなかった。


「それなのに無理に笑顔で幕を下ろされたら、その芯まで一緒に削ぎ落とされる。明暗があって初めて、僕たちみたいな読み手の胸に焼き付くみたいに…」


「分かった分かった……とりあえず、一旦少しその煩い口閉じろ。」


 垂れ落ちたその声は、ついに限界を示す。

 声の主が、自らの支配領域を拡大しようとしているのが周辺の空気に一気に広がった。

 しかしその声と同時に、室内の空気は急激に冷え込んでいき、ランプの火が細く萎み、影の輪郭が奇妙に歪む。


「ちょっ…!急に出てこないでほしいんだけど!?」


 少年の髪先、煤のように散っていた黒がひと筋、ひと筋と色を失っていく。

 まるで闇そのものが剥ぎ取られるように。

 そして抜け落ちた黒は液体のように重く垂れ、机の上へと滴り落ちた。

 滴る黒は、床ではなく古びた木製の机に深く、冷たい染みを作りだす。


「長々と、お前の愚痴に近い感想聞いてやったんだ……俺の手が出る前にそこまでにしておけよ?」


 音もなく広がったその染みは、やがて形を帯び、積まれた本やアンティークの隙間を這うようにして膨らんでいく。

 羽根ペン立てがガタリと震え、真鍮のインク壺が冷気に結露する。

 だが、その背後に『何か』が現れたのを確かに感じていた。


「…そんなに急いだって『物語の中』の時間は進まないでしょ?そこまで気を張る必要はないってー…」


 ディオスは口を尖らせながらも、その声には先ほどの議論の熱ではなく、相手の存在を前にしたわずかな動揺が混じっていた。


 そうして、机の中央。

 そこに影が塊を成し、ゆっくりと立ち上がる。

 人のようでいて、人ではない。


「本当、能天気だな……もう休息はこれで済んだだろ?」


 フードを被った長大な輪郭は、まるで漆黒の霧を縫い合わせたかのように不確かで、それでも一瞥で背筋を凍らせるほどの威圧を放っている。

 その姿は、周囲の暗闇そのものが濃縮され、立体的な形を得たかのようだった。


「あとは先に『内容の把握』は済ませるんだな。こっからは『仕事』の時間だ。」


「も〜、分かってるってば〜…」


 金属が軋むような気配と共に、何も持たぬはずの腕が、無数の書物とアンティークの山を易々と押し分ける。

 ランプの光はすっかり奪われ、そこにあるのはただ冷たく、底の見えない存在感。

 そして少年の視界の端に、影を思わせる空虚な面影が、淡く瞬いた。


 その姿はまるで、『死神』そのものだった。


「ほら。ならさっさと座り直せ。」


 死神は机の脇に佇むと、ゆっくりと少年へ顔を向けた。

 眼窩のような虚ろな光が、少年の黒い瞳を正面から射抜く。

 少年が口を開こうとした瞬間、死神の腕がすっと伸びて容赦なく頭を鷲掴んだ。


「ちょ、ちょっと、『メル』!?これはもう手出ちゃってるじゃんか!?」


「『メルビリス』!その呼び方はすんなって言ってるだろ!」


 少年は抵抗する間もなく、子猫を摘み上げるかのように服ごと軽々と持ち上げられる。

 布がかすかに擦れる音とともに、その体は強引に椅子へ戻され、背もたれにぴたりと押し付けられた。

 抵抗は掴まれたその力の前では、まるで無力な風のようだった。


「ったく……たかが話一つの終わりが悪かったってだけで、いつまでもいじけんなってんだ!」


「でも、嗜め方ってもんがあるでしょ?!それにいくら終わりが悪くても、色々込められてる一つの話をたかが一つって言い方するのはよくな……わぶっ!?」


 言葉は掴まれた頭のせいで途切れ、最後は息苦しさに変わった。

 しかしその掴んだ力は、命を奪うほどの冷酷さではなく、むしろ『まだ話は終わっていない』と言わんばかりの、妙な強制力を帯びていた。


「ぐっ……じゃあ、そう言う君はどうなのさ!?」


「……あぁ?」


 身体を押さえつけられながらも、少年はメルビリスと名乗った何かの核心を突こうと、再び瞳に熱を宿す。

 その冷たい手に鷲掴みにされているにもかかわらず、視線は揺るがずに奥底にある熱を反射させていた。


「納得できない物語の終わりを見て思うの!?」


 その問いは単なる好奇心ではなく、メルビリスという存在に触れようとする、挑戦の響きを帯びていた。


「はぁぁぁぁ……いいか?」


 ため息と共に呆れたような言葉が空気の底で転がる。

 それはまるで、時間そのものが一瞬止まったかのような沈黙だった。

 服の擦れる音が、ゆっくりと現実へ引き戻す。


「…『終わり』ってのは形で測るものじゃない。悲劇であれ喜劇であれ、その先に余白が残ろうと残るまいと、閉じられたその一点こそが重要なんだろうが…」


「つまりそれが、君の物語の終わりへの認識?」


 その言葉は、ある一つの考えとして空気に刻み込まれた。

 少年は自身の受けている拘束を忘れ、言葉の続きへと意識を集中させる。


「だから、そんなんじゃい……これもただの一例だ。」


 その輪郭が、淡い靄のように脈動する。

 古書やアンティークに絡みつき、まるでそれぞれの持ち主が辿った終わりを呼び覚ましているかのようだった。


「お前らはいつも結末を決めつけたがり、分類したがるが、それはただの読み手の都合にすぎない。」


「おお……ハッキリ言うね?」


 少年は興味深そうに口を噤んだ。

 その目には、驚きと同時に自身の知的好奇心を満たされる喜びが灯っている。


「実際そうだろ?それ以上はないし幸福も不幸も、その線引きで固定されて永遠にそこから動かなくなるもんだ。」


「……へぇー…」


 それでも瞳の奥に熱を宿し、メルビリスをじっと睨み返す。

 メルビリスはその視線を正面から受け止めながら、静かに言葉を継いだ。


「これはお前だって分かるだろ?終わりの在り方を深めるのは喜劇、悲劇の色じゃない……『閉じられた』という事実そのものが何よりも強靭だ。」


「ふむ……」


「だからこそ、終わりを弄ぶ奴は特に滑稽だが…」


 メルビリスの言葉は、少年が手に持つ本と同じくらいの質量を持って空間に沈み込んだ。

 そうして顎に手を当て、深く噛み締めて考えるような仕草を見せる。


「それがお前ってわけだ『ディオス』。」


「………君は相変わらず一言余計なこと言うね?」


 自身の名前と共に放たれた言葉に少年ーーディオスは苦笑を浮かべる。

 そしてその言葉を最後に沈黙が落ちた。


 ランプの炎は細く揺れ、机の上の影だけが重たく膨らんでいる。

 やがて、少年はふぅと大きなため息を吐いた。

 その吐息には、負け惜しみの熱も怒りもなく、ただ認めざるを得ない諦観と、どこか清々しい響きがあった。


「まぁ〜、そっか……うん。」


 ディオスは一度肩を落とし、深く息を吐いた。


「確かに君の言う通りかもしれないね?こうして言われてみれば、物語が終わった瞬間にしか残らない重みっていうのも悪くない……のかな?」


 まだどこか無邪気さを残すその横顔に、不思議と静かな意思が宿る。


「ははっ!まーた君に、一本取られちゃったね?」


 机の向こう、そう言ったディオスの背後には闇の中にぼんやりと浮かび上がる巨大な影があった。


 それはまるで、バームクーヘンを縦に据えたかのような円柱状の本棚。

 幾重にも積み重なった棚段には、背表紙の擦り切れた分厚い書物がびっしりと並び、どこまでが始まりでどこまでが終わりかも分からない。

 その円柱をさらに取り囲むように、もう一層の環状の本棚が静かにそびえ立っている。

 空間全体が幾重もの『書の輪』で構成されているかのように終わりなく、重なりなく、ただ上へ上へと延びている。


「分かったよ……僕ももう文句はここまでにする。今からしっかり気持ちは入れ直すからさ?それで、イーブンってことで?」


 しかし、その頂は決して視界には収まらなかった。

 仄暗い天蓋へと吸い込まれるように、棚は霞み、消え、ただ『どこまでも続いている』という印象だけを強烈に残す。 

 ディオスはそれを見上げながら続けて口を開いた。


「それにしても不思議だよねー。まさか君が、こうして物語の終わりについての持論を持ってるなんてさ?」


 そして視線を移すと、円柱の本棚と外周の本棚を結ぶのはひと筋の螺旋階段。

 だが、その階段はただ一筋の螺旋ではなかった。

 円柱の本棚と外周の本棚を結ぶ途中で、幾度も枝分かれし、別の経路と交差しては、またひとつの道へと収束していく。


「……やっぱり、これは君の人生経験豊富だから?」


「そんな一言でまとめられるのは癪だけどな…」


 メルビリスの影がその階段を這うように伸びていく。

 まるで数本の細い糸がより合わさり、絡み合い、ひとつの縄となって編まれていくように、階段そのものが複雑な多重螺旋の軌跡を描いている。


 ディオスはそんな螺旋階段の複雑な交差を見上げ、ふと揺らしていた足を止めた。  

 無数の物語が層を成すこの場所では、沈黙さえも誰かの綴り損ねた余白のように重い。


「ねぇ、メル?それなら君は時々、怖くならない?」


 螺旋の上へ進む者は、一見すれば単純に見える道を登っているはずなのに、ふとした瞬間、隣の経路とすれ違う気配を感じるだろう。

 けれどそこに人影はない。

 あるのはただ、並走する別の『道』そのもの。


 それを見上げならのディオスのその問いは、羽虫の羽ばたきよりも弱く、しかし、冷え切った空間に鋭く波紋を広げた。


「……何がだ。」


「終わりがあることじゃなくて、『終わらせなければならない』ことにだよ。」


 その不思議な重なり合いが、ディオスの問いを連れて果てしなく高みに続いていく。

 階段を見上げる者は、次第に方向感覚を失い自分がいまどの道を歩んでいるのか、上に向かっているのか、それとも下に落ちているのかさえ、確信できなくなっていきそうだった。


「僕たちはこうして、完成された物語や記憶とかを管理しているじゃん?でも、このどこか一箇所でも、僕たちが読み飛ばしてしまったら、そこいる人は永遠に『未完成の空白』を彷徨うことになるんじゃないかな?」


 声だけが響く静寂の中、それら存在は夢と現の境界線を曖昧にさせる。

 見る者に『ここは世界の外側だ』と錯覚させるほどの異様さを放っていた。


 メルビリスはすぐに答えず、ただ深淵のような眼窩で目の前の少年を見下ろした。  

 沈黙は数秒、あるいは数百年にも感じられる密度で二人を包む。


「……どうだかな。」


 ようやく零れ落ちた死神の声は、砂時計の砂が尽きる音に似ていた。


「救済も地獄も、そいつら足で歩き、喉を枯らして叫んだ結果だ。閉じられた表紙の厚みは、お前の感傷で変わるほど柔(やわ)じゃない。」


「それは、よーく分かってるよ…」


「ならお前が恐れているのは、物語の行方じゃない。いつか、お前の『最後の一行』を綴る時が、お前以上に無慈悲であることだろう?」


 ディオスの瞳が、ランプの火を弾いて小さく見開かれる。  

 核心を突かれた少年の唇から、乾いた笑いが漏れた。


「…ハハッ!流石だね…僕が一番の『臆病な読者』だってこと、とっくにお見通しってわけね?」


「読み飽きるほど、お前を見てきたからな。」


「うん……まぁ、こっからは気持ちを切り替えて行こっか!」


 その声に合わせて、延々と上へと広がる本棚から、幾冊もの無題の本が静かに落下してくる。

 羽根ペン立てや小さな懐中時計の間を縫うように、埃まみれのページがふわりと舞い、空気を震わせながらディオスの前に積もった。


「でも、その前に内容の確認をねー…」


 ディオスは笑いながら背後の本棚から落下してきた無題の一冊の本を見ずに上に手を伸ばして掴み取る。

 そして、懐かしむような不思議な感覚を覚えながらページを開いてパラパラと捲り見た。


「……おおっ…!」


 秒数にしてほんの数秒。

 それが数百ページにも及ぶ本を開いてから閉じるまでの時間。

 ディオスは、そんな手遊びのような短い時間で目を通した後、メルビリスを見て笑顔を作った。


「これはこれは……久しぶりに満足に中々楽しめそうな世界だね!?」


 ディオスは手に持った一冊の本を嬉しそうに見つめた。

 その表情には先ほどの不満は微塵もなく、純粋な好奇心と期待が満ちている。

 そして言葉は書庫に漂っていた空気を暖める、陽光のようでもあった。


「(なんでいつもそんな雑な読み方で内容を把握できるんだか…)」


「でも、やっぱり勿体無いな〜……こんな話なのに問題が起こってるなんてさ?」


 ディオスが再び本の表紙を指でなぞると、古びた革の匂いがふわりと舞う。

 その瞳の奥に広がる深淵が、ランプの炎を反射して淡く揺らめき、既にその物語の世界に意識の半分を置いてしまっていることを示していた。


「だから奴も焦ってるんだろうしな?にしても、自分がしでかしたことくらい自分でどうにかしろってんだ…」


 メルビリスの声は低く、静かに響く。  

 だが、声の端にわずかな影が揺れていた。

 ランプの光が届かぬ背後、幾重にも重なる本の環状が、言葉の響きを吸い込み、途方もない時間の深さを感じさせている。


「はははっ、確かに本当にその通りだよね!まっ、そういう権利持ちが僕だからどうにもできないだろうし〜…」


「…………」


 返事はない。

 メルビリスはただ沈黙し、それが鉛のように重く垂れ込め、ランプの小さな炎さえも冷気に耐えているかのようだ。

 その視線は見えない何かを探るように、静かにディオスを射抜く。


「あー、あと……この世界では『君の力』を借りることになるね?」


 そう言いながら、ディオス机の上に散らばる品々、歯車の詰まった懐中時計や真鍮のインク壺などに、軽く人差し指で触れた。

 指先が触れるたび、品々は一瞬、過去の物語の熱を宿したかのように、わずかに光を反射させる。


「…おっ。そう言うってことは単純にその話の中身が随分と物騒みたいだな?」


「まあねー……でもこういうのはいつも通り、どんと僕に任せておいてよ!」


 影の塊は動かないが、その存在感だけが質量を増し、この発言を吟味しているようだった。

 しかしディオスは肩をすくめ、自信に満ちた笑顔を見せる。


「あぁ、はいはい…」


 メルビリスの短い返事。

 言葉は少ないが、その沈黙の奥には、何か見えぬ警告のような影が潜んでいた。


 そうしてディオスが手の中にある本のページをめくった瞬間、空気がざわめいてランプの火が揺れる。

 文字や挿絵が淡く光を帯び、机の上のアンティークや本の影を歪ませた。


「じゃあ、今度こそ……行こっか。」


 歪な図書館のような世界がゆっくりと引き込まれる。

 目の前の文字列が、まるで螺旋を描くように伸びていき、周囲の現実を押しのけていった。

 羽根ペン立てや懐中時計が、揺れる水面のように歪み、辺りの影が渦巻く。


「『物語の中の世界』にね!」


 ディオスは笑みを浮かべらながらも思わず息を呑む。

 ページの中から、風も光も音もない吸い込まれるような感覚が広がり、まるで手の中にある本そのものが呼吸しているかのようだった。


 背後のメルビリスは静かに影を微かに揺らすだけ。

 だが、その見えない表情の奥に潜む色は空間全体にじわりと不穏な圧を落とす。


 ページの縁が指先を滑り、文字が絡みつく感覚とともに、ディオスの身体は床の上からほんのわずか浮いた。

 世界の重力や時間の感覚が混ざり合い、まるで現実と物語の境界が溶けていく。

 そして、一気に吸い込まれるように本の中へと消えていった。


 残ったのは静寂と、ただ装飾の施されただけの無題の本だけだった。

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