白い夕焼け

辛口カレー社長

白い夕焼け

 その日は、二十代も後半に差し掛かった私の人生において、数少ない、完全なる空白の一日だった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、床に積もった埃を白く照らし出しているのを、私はベッドの上からただ眺めていた。埃が不規則に、けれど、何らかの法則に従っているかのように、きらきらと浮遊している。そんな無意味な微粒子を目で追うことだけに、午前中の全ての時間を費やした。

 スマートフォンは枕元の充電器に繋がれたまま、死んだように黒い画面を晒している。誰からも連絡はないし、私から連絡を取りたい人間もいない。SNSを開けば、かつての同級生や知り合いが、結婚しただの、子供が生まれただの、昇進しただのといった、自己顕示欲丸出しの投稿が目に入るだけだ。そんな毒を自ら摂取しにいくほど、今の私は強くない。


 喉が渇いた。でも、キッチンまで歩いて行って水をコップに注ぐという一連の動作すら、エベレスト登頂のように困難に思えた。頭の中は重く、泥の中に沈んだ石のようだ。体中を支配する、沈殿した鉛のような倦怠感は、指先の一つ一つにまで浸透し、私を重力で縛り付けている。

 そう言えば、彼と別れてから三か月が経つ。季節は春から夏へと変わろうとしているのに、私の心臓だけは、冬の凍土の中に置き去りにされていた。

 そのまま昼が過ぎ、夕方が近づいてきた頃、部屋の中が茜色に染まり始めた。西日が、埃っぽい部屋を容赦なく焼き尽くそうとしている。その暴力的なまでの赤さが、私を無理やり現実へと引き戻した。

 ――このままじゃいけない。

 理屈ではなく、生存本能に近い何かが警鐘を鳴らした。この赤い光に部屋ごと押しつぶされてしまうような錯覚を覚え、私は這うようにしてベッドから起き上がった。顔を洗い、適当な服に着替える。鏡に映った自分の顔は、幽霊のように血の気がなく、瞳だけが虚ろに黒く濁っていた。


 外に出ると、世界は燃えていた。空全体が赤とオレンジの絵具をぶちまけたように混ざり合い、雲の縁が金色に輝いている。圧倒的な夕焼けだった。

 アパートの錆びた階段を降りながら、私はその美しさに目を細めた。美しいと思うと同時に、胸の奥がひどく痛んだ。世界はこんなにも鮮やかで、一日の終わりをドラマチックに演出しているというのに、私の中身は空っぽの廃墟だ。その対比が残酷すぎて、吐き気すら催す。

 ――この夕焼けを見られたってことで、もう今日はいいかな。

 そんな投げやりな感想が頭をよぎる。このまま夕日が沈んで、夜の闇が全てを塗りつぶして、いっそ二度と朝なんて来なければいいのに。永遠に続く夜の中で、誰の目にも触れず、意識だけを溶かしてしまいたい。そんな破滅的な願望を反芻はんすうしながら、私は目的もなく歩き出した。

 足が向いたのは、かつて、彼とよく散歩した河川敷だった。無意識のうちに思い出の場所を選んでいる自分が滑稽で、乾いた笑いが漏れる。

 河川敷には、湿った土と草の匂いが立ち込めていた。遠くで野球少年たちの掛け声と、金属バットがボールを弾く乾いた音が響いている。犬を連れた老人が、ゆっくりとした歩調ですれ違っていく。

 ここでは日常が平然と営まれている。私の絶望など、川面を揺らす風ほどの意味も持たない。

 土手沿いの舗装された道を、私は影を踏まないようにふらふらと歩いた。視線は足元に落ちたままだ。

 ふと、視界の端に異質なものが入った。少し開けた芝生の広場、その隅にある大きな桜の木の下に、ぽつんと人がいた。小さな折りたたみ椅子に座り、膝の上に大きな画板を乗せている。男性だ。逆光で顔は見えないが、そのシルエットは背景の夕焼けから切り抜かれたように静止していた。

「売れない画家ってやつかな」

 心の中で、軽蔑にも似た言葉が浮かぶ。平日の夕方、こんなところで絵を描いているなんて、きっと社会のレールから外れた人生の落伍者らくごしゃに違いない。私と同じだ。でも、彼は何かを表現しようとしている。その前向きな姿勢、あるいは自分には才能があるのだと信じ込んでいる無邪気さが、今の私には酷くかんに障った。

 社会から逸脱した自由な存在への、少しの羨望。そして、それが故の強烈な嫌悪。

 私は彼を無視して通り過ぎようとした。でも、何かに引かれるように足が止まった。彼の手が動いている。右手がリズミカルに画板の上を走り、時折、空を見上げては、また視線を落とす。

 ――どんな絵を描いているんだろう。

 この燃えるような夕空を、どんな陳腐な色で汚しているのだろうか。意地悪な好奇心が鎌首をもたげた。私は芝生を踏みしめ、音を立てないように背後から近づいた。

 ――カサカサ……シャッシャ……。

 乾いた筆が紙を擦る、微かな摩擦音だけが聞こえる。絵具の匂いはしない。彼の肩越しに、画用紙を覗き込んだ。

 そこには、何もなかった。

 真っ白な画用紙が、夕日を受けて淡いピンク色に染まっているだけだ。鉛筆の下書きも、絵具の痕跡も、水彩の滲みもない。完全なる白。なのに彼は、真剣な眼差しで何かを描いていた。何もない空間から色を掬い取り、何もない紙の上に置いていくような仕草で。

「なーんだ。描いてるフリか」

 思わず口から漏れそうになった嘲笑を、慌てて飲み込んだ。しかし、私の気配、あるいは心の声は彼に届いてしまったらしい。画用紙に向かっていたその手が止まり、ゆっくりと彼が振り向いた。

 目が合った瞬間、私は息を呑んだ。年齢は三十代の後半くらいだろうか。顎には無精ひげが目立ち、着ているシャツも所々絵具の染みがついた古びたものだった。でも、その瞳は驚くほど澄んでいた。夕日の赤を映し込みながらも、その奥には深い湖のような静寂がある。どこか遠く、この河川敷ではない別の世界を見つめているような、焦点の定まらない、けれど全てを見透かしているような瞳。

「あ、すみません。何を描いているのかなって、つい……」

 私は反射的に謝罪の言葉を口にした。覗き見をしたことへの罪悪感というよりは、聖域に土足で踏み込んでしまったような居心地の悪さがあった。

 怒られるだろうか。あるいは、奇異な目で見られるだろうか。

 身構える私に対し、彼は穏やかに微笑んだ。その笑顔はあまりにも無防備で、そして優しかった。世間の喧騒や、私の心の中にある棘など、最初から存在しないかのように。心臓の隅をきゅっと掴まれたような感覚に、私はたじろいだ。

 彼は何も言わず、持っていた筆をそっと筆洗の上に置いた。水は入っていない。そして、白紙のままの画用紙を丁寧に画板から外した。彼の指先は細く、爪には僅かに青い絵具が残っていた。

 彼は足元に置いてあった鞄から、折りたたみ式の簡素な木製の額縁を取り出すと、その真っ白な紙を慣れた手つきで挟み込んだ。

「これを、あなたに。完成したばかりです」

 そう言って、白い絵を私に差し出した。

「は?」

 間抜けな声が出た。

「完成って……何も描いてないじゃないですか」

「いいえ、描きましたよ。今のこの時間を」

 彼は悪びれもせず、真っ直ぐに私を見て言った。

「要らなければ、捨ててください。でも、今のあなたにはこれが必要な気がする」

 私は戸惑った。新手の詐欺だろうか。それとも、気が狂っているのか。

 ――断ればいい。

 こんな意味の分からないものを押し付けられても困る。なのに、彼の視線に射抜かれたせいか、拒絶の言葉が出てこない。

「え? ああ、どうも……」

 結局、私は絵を受け取ってしまった。額縁の角が手のひらに食い込む。彼の指先が、受け取った際に私のかじかんだ指に触れた。一瞬の、熱のない、陶器のような冷たい接触だった。

「また、お会いしましょう」

 彼は立ち上がり、折りたたみ椅子を畳むと、手際よく画材を片付け始めた。これ以上会話をするつもりはないという、完結の合図のように思えた。

 私は狐につままれたような気分で、額縁を抱えたままその場に立ち尽くしていた。夕日はもう稜線の向こうに沈みかけ、世界は急速に群青色へと沈んでいく。彼の背中が闇に溶けていくのを、私はただ見送った。


***


 部屋に戻り、電気をつけるのも忘れて、私はベッドの端に座り込んだ。

 手の中にある額縁を見る。薄暗い部屋の中でも、その画用紙の白さは際立っていた。

「本当に、何も描いてない……」

 指で表面をなぞってみる。ざらりとした紙の感触があるだけだ。

 改めて考えると、腹が立ってきた。からかわれたのだろうか。

「お前の人生なんて空っぽだ」という皮肉だろうか。それとも、「タダで見せる絵はない」という金銭的なメッセージか。だとしたら最悪だ。やっぱり絵描きなんてやってる奴は、根性がねじ曲がっている。芸術家気取りの変人に関わった自分が馬鹿だった。

「要らないって。こんなゴミ……」

 自分自身への苛立ちをぶつけるように、私は絵を額縁ごとベッドの中央に向かって放り投げた。投げつけられた額縁がマットレスの上で跳ね、ぼす、と鈍い音を立てて転がった。

 その瞬間――。

 白紙だったはずの画用紙から、色が浮かび上がってきた。私は息を呑んで駆け寄り、震える手で額縁を拾い上げる。そこに描かれていたのは、私がさっきまで河川敷で見ていた、あの見事な夕焼けだった。

「うそ! なんで!?」

 信じられない光景に、思考が追いつかない。赤、オレンジ、金色、そして沈みゆく太陽の周りに漂う紫色の雲。それらが複雑なグラデーションを描きながら、空を覆い尽くしている。手前には逆光で黒く塗りつぶされた河川敷の木々のシルエットが、鋭い爪のように空を切り裂いている。

 筆致は力強く、荒々しいほどに活力に満ち溢れていた。油絵のような重厚感がありながら、水彩のような透明感も併せ持っている。写真ではない。誰かの目を通して再構築された、感情を孕んだ風景だった。

 さっきまで私を支配していた倦怠感は、どこかへ吹き飛んでいた。心臓の鼓動が早くなる。これは夢か、幻覚か。

 額縁の中の夕焼けは、まるで生きているかのように脈動していた。じっと見ていると、肌がじりじりと焼けるような熱気さえ感じる。

「本当に、画家だったんだ……」

 私はあの時の自分の軽薄な判断を恥じた。描いているフリなんて失礼なことを思った自分が情けない。彼は、私には見えない何かを、あるいは私が見ていた世界そのものを、あの白い紙に封じ込めていたのだ。

 絵をベッドサイドのチェストに立てかけ、私はそれをじっと見つめた。

 ――美しい。

 息が詰まるほど美しい。けれど、見れば見るほど、胸の奥が軋むような痛みに襲われた。


 その夕焼けの色は、あの日と同じ色だった。彼──賢治と別れ話をした、あの日の夕暮れ。

 三年前から同棲していたこの部屋で、お互いの荷物を段ボールに詰めながら、私たちは静かに終わりを受け入れた。怒号も涙もなかった。ただ、愛が生活に摩耗し、砂のように崩れていくのを二人で確認しただけだった。


『ごめんな、幸せにできなくて』


 最後に彼が言った言葉。その時、窓の外には今日と同じような、燃えるような夕焼けが広がっていた。彼の背中越しに見えたその空は、私たちの関係を火葬しているかのようだった。

 この絵は、私の記憶そのものだ。あの日の絶望感、喪失感、そして微かに残っていた「これで自由になれた」という身勝手な安堵感。それら全てが、この赤色の中に塗り込められている。

 私は理由もなく、いや、あまりにも明確な理由によって、涙が込み上げてくるのを感じた。この数か月、泣くことすら忘れていた。感情を冷凍保存して、日々をただやり過ごしていただけだった。でも、この絵が私の心の氷を溶かし、堰を切ったように感情を溢れさせた。

「うっ……ううっ……」

 嗚咽が漏れた。一度声が出ると、もう止まらなかった。

 絵の中の夕焼けはあまりにも美しく、そして切なかった。その美しさが、今の私の孤独と、色のない日常を際立たせて、心臓を直接握りつぶされるような痛みを感じさせた。

 あの日に戻りたい。いや、戻りたくない。寂しい。会いたい。もう忘れたい。矛盾した感情が渦を巻き、涙となって溢れ出る。ぽたぽたと、熱い雫が落ちた。それは額縁のガラス面ではなく、剥き出しの絵そのものの上に落ちた。涙が画用紙に染み込む。

 その瞬間、絵が、すっと消えた。鮮烈だった赤が、オレンジが、黒が、急速に色あせていく。私の涙が触れた箇所から波紋のように白が広がり、夕焼けを飲み込んでいく。

「あ……待って!」

 私は慌てて手を伸ばし、指で絵を擦った。でも、指に色がつくことはなかった。私の指が触れるたびに、色は煙のように消え去り、絶対的な白だけが残されていく。

 あっという間の出来事だった。そこにはもう、何も描かれていない。ただ、私の涙の痕だけが、画用紙の端に薄く染みを作っていた。

 私は呆然としたまま、空っぽになった額縁を強く抱きしめた。喪失感が、以前よりも深く、けれど、どこか澄んだものとして胸に残った。

 泣きじゃくった後の疲れと共に、私はそのまま泥のように眠りに落ちた。


***


 翌週は、長い一週間だった。仕事をしていても、食事をしていても、あの絵のことが頭から離れなかった。あれは幻覚だったのだろうか。私の精神がいよいよ限界を迎えて見せた、都合の良い夢だったのではないか。でも、部屋の隅にある空っぽの額縁を見るたびに、あの夕焼けの熱さが肌に蘇る。あの涙の味が、喉の奥に残っている。

 私は確認しなければならなかった。あれは何だったのか。彼は何者なのか。そして何より、もう一度、あの絵を見たいという渇望があった。消えてしまったあの風景を、もう一度だけ取り戻したい。


 日曜日。先週と同じ時間に、私は河川敷の公園に向かった。

 不安で仕方なかった。もし、彼がいなかったらどうしよう。もし、私のことを覚えていなかったら。

 公園の入口に差し掛かると、私は大きく息を吸い込んだ。

 予感は当たった。彼は、また同じ場所、同じ桜の木の下で、同じ椅子に座っていた。夕日は今日も世界を赤く染めている。彼はやはり、真っ白い画用紙に向かって筆を動かしていた。

「あの……」

 私が声をかけると、彼は驚く様子もなく、筆を止めて静かに私の方を見た。先週と同じ、あの穏やかで、どこか底知れない瞳。

「また、お会いしましたね」

 彼は懐かしい友人を出迎えるように言った。

「先週頂いた絵のことなんですけど……」

 私は言葉を選びながら、一歩近づいた。

「家に帰ったら、真っ白だった紙に、夕焼けが浮かび上がって……その、すごく綺麗で、感動しました。でも……」

 言い淀む私を見て、彼は先を促すように首を傾げた。

「泣いてしまって。涙が落ちたら、絵が消えてしまったんです。真っ白に……」

 私は彼が怒ることを覚悟していた。せっかくの作品を台無しにしてしまったのだから。けれど、彼は微笑んだままだった。その表情には、私の期待していた驚きや誇らしさはなかった。どこか、諦めにも似た、あるいは慈愛にも似た静けさがあった。

「あれは、『瞬間の絵』です」

 彼は独り言のように呟いた。

「その時、最も強くその人の心に焼き付いた風景が、画用紙の上に現れます。感光紙のようなものです。ただし、光に反応するのではなく、心に反応する。そして、誰にも共有できません。その人の感情の昇華が終わると、消えてしまうんです」

「私の心に……焼き付いた風景?」

「ええ。あなたは、あの夕焼けに何かを託したかった。あるいは、あの夕焼けを見て、何かを終わらせたかった。だから、あなたの感情が形となって現れ、そしてあなたが涙を流したことで、その形は役割を終えた」

 彼の言葉はあまりにも鋭く、抽象的でありながら、私の内側の最も深い部分を正確に射抜いていた。

「どうして、私が泣いたことまで分かるんですか?」

 私が少し声を荒げると、彼は初めて、少し寂しそうな顔をした。筆の柄を指で遊びながら、彼は遠くの空を見た。

「私の絵は、描いているフリではありません。私は描きたいものを描いているのではなく、誰かの心の中にある、流れ落ちる直前の感情を描いているんです」

 彼は画用紙の白い部分を指した。

「私の使う絵具は、普通の絵具とは違います。これには、人が流す涙の成分が混ざっています。誰かが悲しみ、あるいは喜びで流した涙。それが持つ、一瞬の感情の解放のエネルギー。それこそが、私の絵に色と形を与えます。人が本当に心を動かした瞬間、その感情が絵になり、その絵が人の心から解放されると、消えます」

 魔法のような話だった。普段の私なら鼻で笑っていただろう。でも、あの現象を体験した今なら信じられる。

「だから、私の涙で……絵が消えたんですか?」

「あなたの涙は、上書きであり、洗浄です。あなたはあの夕焼けを見て、何かに心を動かされ、泣くことで、抱えていた感情を絵を通じて外に出した。つまり、絵が完成し、役目を終えたということです。絵が消えたのは、あなたが救われた証拠ですよ」

 ――救われた。

 その言葉が、胸の中で反響した。思わず涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。私の涙が、彼の絵の触媒であり、終わりの合図だったなんて。

「あの夕焼けは、私には、『人生の終わり』に見えました」

 私は、誰にも言えなかった言葉を彼に告げた。初対面に近い彼になら、なぜか素直になれる気がした。

「今年の春、私は長年連れ添った恋人と別れました。別れを決めたのは私なのに、その後ずっと、自分の人生が夕焼けのように終わってしまったと感じていたんです。日が沈むと、何もかも見えなくなるように。私の未来も真っ暗な空白になって、もう二度と朝は来ないんじゃないかって」

 彼はじっと耳を傾けていた。同情するでもなく、ただ事実として受け止めるように。

「でも、あなたは希望を捨てなかった。いや、捨てたくはなかった」

「ええ。あの夕焼けの絵を見た時、まだこの先に夜明けがあるかもしれない。朝が来るかもしれない。そんな、無責任な希望を抱いてしまった。だから泣いたんです。絶望の夕焼けに、まだ微かな美しさを見出し、希望を見てしまった自分が情けなくて。彼を切り捨てたのに、自分だけ幸せになろうとしているようで」

 画家は再びにっこりと笑った。今度の笑顔は、先週よりも温かく、血の通ったものだった。

「情けないことではありません。それは、あなたがまだ生きているということの証です。痛みを感じることも、美しさに涙することも、全ては生きるための機能です」

 彼は新しい画用紙を画板にセットし、再び筆を持った。シャッシャと、白い紙の上を乾いた筆が走る音が響く。それは、止まっていた私の時間を再び動かす音のように聞こえた。

「私が絵を描くのは、ほんの一瞬の感情ですが、その解放こそが、また新しい始まりに繋がります。過去の感情を絵に閉じ込め、涙と共に流すことで、心に新しいスペースができる」

「私のスペースは、もう空っぽです」

「空っぽなのは、悪いことじゃありません。これから何でも入れられるということですから」

 彼は手を動かし続けた。

 夕日は沈み、辺りは藍色に包まれている。街灯がポツポツと灯り始め、公園の輪郭が曖昧になっていく。

 私はその場で、彼が絵を描き終えるのを待った。寒さは感じなかった。彼の筆の音が、不思議な暖かさを持っていたからだ。

 やがて、彼は満足そうに筆を置き、私に新しい、真っ白な絵を差し出した。今度の絵は、前のものとは違う気がした。白さが、より深く、そして明るい。

「今、私はあなたの『新しい始まり』を描きました。ただし、この絵具には、涙の成分を入れません。あなたはもう自分で泣いて、感情を解放したのですから」

 私は恐る恐る手を伸ばした。

「何も、現れないんですか?」

「ええ。これは、あなたがこれから自分で色を塗っていくための、空白の未来図です。私の魔法はもう必要ない。あなたが自分の目で見て、自分の足で歩いて、見つけた色で埋めていくためのキャンバスです」

 私は、今度は迷うことなくその絵を受け取った。

 画用紙は白く、どこか温かい。その白さは、以前感じた虚無の白ではなかった。無限の可能性を秘めた、光の白だった。

「ありがとうございます」

 私は深く頭を下げた。

 涙はもう出なかった。代わりに、胸の中には澄んだ空気が満ちていた。肺の奥まで新鮮な酸素が行き渡り、体が軽くなるのを感じた。

「また、お会いしましょう」

 画家はそう言って、再び画材の片付けを始めた。

 私は「また」があることを嬉しく思った。彼が何者なのか、名前すら知らない。けれど、彼がこの場所にいてくれるという事実だけで、私はまた明日も生きていける気がした。

 私は真っ白な画用紙を抱きしめた。

 帰り道、空を見上げると、一番星が光っていた。

 この空白はもう、虚無ではない。これから始まる私の人生が、どんな色で描かれていくのか。悲しい青かもしれないし、情熱的な赤かもしれない。あるいは、穏やかな緑かもしれない。どんな色であっても、それは私が自分で選び、塗っていく色だ。

 私は、その予感に胸を高鳴らせながら、帰路に就いた。


(了)

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