引っ掻き傷(前編)

河村 恵

第1話

「三瀬、その背中どうしたの?」

女子社員の更衣室で才華が小声で聞いてきた。

「え?」

「三瀬って今、彼氏いるの?」

「いない、いないってば」

「そっか。傷だらけだよ。ちょっと待って、写真撮って見せてあげる」

肉の文字が刻まれた背中を取られるのは抵抗があったが、才華は三瀬が年増であることを無抵抗に付き合ってくれる唯一の後輩だった。

「ほら」

才華のスマホにはたるんだ背中にいく筋もの引っ掻き傷が写っていた。

「え、なにこれ?」

私は背中に手を回そうとしたが50肩が痛くて触れなかった。

「三瀬がフロントホックなのはやっぱり肩が痛むからなんだね。ボクが最初に気づいたのって、たしか先週くらい。てっきり、三瀬に春が来たのかと思っていたけど、違うのか」

才華はつまらなそうに言った。

「ああ、最近、乾燥して、身体中痒くて、寝てる間に無意識に掻きむしってるのよ、きっと」

「痒くなるよね、冬って。保湿だよ、保湿。ボクでよければ塗ってあげるけど。ひどいから一度、皮膚科行ったらほうがいいかもね」

同時に更衣室に入ったのに、才華はもう着替えを終えてバッグを肩にかけている。

「そう、そうね。今日は時間あるし、家の近所に評判のいい女医さんの皮膚科があるから、行ってみようかな。ありがと、才華」

「じゃ、私デートなんで、お先」

デートといいながら普段のシンプルなパンツ姿の才華の背中をおくった。

ロッカーのドアの内側にある小さな鏡に背中を写そうとして、振り返るが、背中がうまく映らない。


カチャ

誰かが入ってくる。


「おつかれさまです」

「おつかれさま〜」

チッ

才華の2期下の新人だった。

舌打ちが聞こえたような気がした。

おばさんの着替えなんて見たくないのは、わかる。こちらだって、見られたくはない。

黒のハイネックに裏起毛のベージュのパンツに高速で着替えて、更衣室を後にした。


帰り道、ふと笑いが込み上げてきた。

才華ったら、背中の引っ掻き傷を見て、私に彼氏ができたかって。こんなおばちゃんに、ムリムリ。

電車に揺られ、体が温まってくると、背中がむず痒くなってきた。

あいにく、皮膚科は休診日だった。


湯船に浸かっても傷はしみない。

(いつできたのかしら)

メガネをかけて浴室の鏡に写した。

ギョッとした。

背中だけではなかった。

脚にも腿裏にも腹にまで引っ掻き傷がついていた。

血が出て、かさぶたになっているような傷もある。


冬になると手荒れがひどく、柄にもなく夜はシルクの手袋をして寝ている。それなのにこんな傷ができるほど掻きむしっているとはにわかに信じがたかった。そもそも手の届くはずのない場所に。

気味が悪いと思いながら、何にでも効くと信じている軟膏を、手が届く範囲で塗って寝た。

翌朝、更衣室で才華にあった。

「皮膚科、行った?」

「それが昨日はお休みで、今日行くわね、ありがと、気にかけてくれて」

「三瀬、ちょっと待って。袖めくってみて」

私は才華の言葉にヒヤリとした。自分でも気づかないうちに傷が増えているのかもしれない。

「ほらあ、増えてるじゃん。今日はぜったい、皮膚科行ってよね」

「はい、だ、大丈夫よ。行くって約束する」

まぶたがひくひくと痙攣するのがわかった。

腕の傷はそれほどひどくなかったが、制服の袖から見えそうな傷が気になった。


もちろんその日は皮膚科へ行った。

「ずいぶん掻きこわしたね、ひどくなる前に来て欲しかったな」

女医はHPを見ると私と同年代のはずだった。

サバサバとした口調と裏腹に目がくりくりした肌艶のいい美人だった。

クリーム状の薬を処方された。背中に塗れないというと、「ぬるまる」というアイテムを教えてくれた。先端は孫の手のような形状で、そこにボールがはまっていた。試しに使ってみると背中じゅうにとどいた。

「面倒だけと、毎回きれいに洗って使ってくださいね。ほかに、なにか聞きたいことある? あ、顔も乾燥してるわね。よかったら、受付に敏感肌用の保湿美容液のサンプルあるから試してみて。私も使ってるの。また来週見せて」

女医の顔を見ながら粗探しをしていた自分を恥じた。


帰宅するとソファにもたれかかった。

「いたいっ」

ソファの背もたれを確認した。

「何よ、これ」

背もたれの縫い目から細長い糸のようなものが飛び出していた。

「もうこのソファもくたびれてきたわね」

ハサミで切ってゴミ箱に捨てた。


このマンションに越してから明日でまる一年。

駅近、日当たり良好、家具付きの格安物件ということで飛びついた。

あまりに条件が良くて事故物件か聞いたが、違うということだった。

事故物件はその後、入居者がいれば、次の入居者には告知義務はないというのをしったのは、入居して3ヶ月が過ぎたあたりだった。

3階の角部屋。最上階なのに、夜中、天井から時折物音がするのが気になって調べたのだ。ネットで“マンション名” “事件”と検索しても、何も出てこなかった。

隣に住んでいる若い男は前の住人を知っていると言っていたが、事件などないという。

「事件とか面倒なことあったら俺とっくに引っ越してるんで」と長い前髪をかき分けながら話してくれた。


(後半に続きます)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 土曜日 19:00 予定は変更される可能性があります

引っ掻き傷(前編) 河村 恵 @megumi-kawamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ