きゅうりパックの幽霊

琴坂伊織

第1話

「仏壇に線香をあげてきなさい」


 通知の嵐を捌いている最中、母がノックせずにドアを開いた。健の視線は画面上のSNSに釘付けになったままで、指先は器用に『いいね』を量産し続けている。


「あーい」


 この家にプライバシーという概念は存在しない。気のない返事を返して、ベッドからのそのそと立ち上がる。


 廊下を歩くと、ギィ、と音が鳴った。子供の頃は避けていたはずの『地雷』を、今では簡単に踏み抜いてしまう。


 ふすまの前に立ち、手を掛けて横へ滑らせる。壁のスイッチを叩くと蛍光灯が瞬き、部屋を照らした。


 その瞬間、健の目に飛び込んできたのは、顔にきゅうりを並べた幽霊だった。おでこ、両頬、そして顎。スライスされたきゅうりが、完璧な配置で張り付いている。


 きゅうりの緑に紛れて、こちらを覗き見る瞳と目が合う。


「う、うわああああああああ!!」


 鼓膜を突き破らんばかりの絶叫。しかし、顔にきゅうりを張り付けた幽霊は動じない。


「そんなに大声を出しちゃって。……久しぶりねぇ」


 耳の奥に触れたその響きは、かつての陽だまりのように温かく、そして泣きたくなるほど柔らかかった。


「もっ、もしかして、ばあちゃん!?」


「そうだよ」


 夏野菜特有の、鼻の奥にまとわりつくような青臭さ。


「ばあちゃん、なんできゅうり貼ってんの!?」


「あら、知らないの?きゅうりパックよ。昔は流行ったのよ」


 もしかしてばあちゃんは、パックの最中に急死したのだろうか?


「お盆には帰ってこいって言うじゃない。でもすっぴんで孫に会うわけにはいかないでしょ」


「化粧品は持ってこれないから、お供えのきゅうりを拝借したのよ」


 仏壇に供えられた精霊馬しょうりょううまを、勝手にスライスしたらしい。


「死んでも女心は死なないのよ」


「そ、そうなんだ」


 額を押さえる健をよそに、ばあちゃんは口を動かし続ける。顎先のきゅうりが一枚落ちた。


「あのね、こっちの世界でもね、みんな美容に必死なのよ。お隣の田中さんなんて、毎日パック三枚も使ってるの。私なんてまだ二枚なのに」


「いや、死んでるんだから競わなくても……」


「なに言ってるの。四十九日の法要でね、みんな集まるわけ。そこで同窓会みたいになるの。誰が一番若く見えるか、勝負してるのよ」


 ばあちゃんは畳み掛けるように言葉を紡ぐ。あっちの世界では、そんなふんわりとした集まりなんだ。


 でも、楽しそうでよかった。


「それより健ちゃん、お母さんにお願いがあるの」


「……なに?」


 ばあちゃんが健の方へ向き直る。鋼の意志を宿したような、真剣な瞳だ。


「お供えのきゅうり、もっと増やしてって。最近、こっちで品薄なの。お盆だから需要が高くてね」


「幽霊界の経済事情まで知りたくないよ!」


 コンマ一秒の遅れもない、神速のツッコミが響き渡る。あまりの声量にビリビリと震える襖。その向こうから、もっと震えた母の声が聞こえた。


「健、どうしたの?警察呼ぶ!?」


 振り返ると、母がスマホ片手に立っていた。


「ば、ばあちゃんが...」


「おばあちゃんがどうしたの?」


 再び仏壇の方を見ると、ばあちゃんはにっこり笑って、きゅうりを一枚剥がして手を振っている。


 不意打ちだった。


 ブフッ!と破裂音が響き、腹筋に力が入る。そんな健を、母は小首をかしげて見つめている。


「な、なんでもない」


 息子の気が狂ったと思われないよう、太ももをつねりながら、適当な言い訳を口にする。


 母は「気が狂ったのかしら」と言いながら和室を離れていく。健が頭を抱えていると、ばあちゃんが静かに口を開く。


「ちゃんと線香あげてくれてありがとうね。おかげでこっちに来れたわ。でも次はもっと心を込めなさい。スマホばっかり見てないで」


「……うん」


 顔にきゅうりを張り付けた幽霊に説教されている。


「じゃあね。また来年のお盆にね。あ、そうだ」


 輪郭が夏の暑さに溶けるように、ぼんやりと滲みはじめた。すると、ばあちゃんが思い出したかのように早口で告げる。


「お母さんに伝えておいて。きゅうり、定期的にお供えしてって」


「もう使わないでしょ!」


「こっちで使うのよ。お供えしてくれたら、ちゃんと届くんだから」


 そう言い残して、ばあちゃんはきゅうりと共に消えていった。




 翌朝、新鮮なきゅうりが三本、供えられていた。

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きゅうりパックの幽霊 琴坂伊織 @iori_k20

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