花という、あらゆるもの。

紙の妖精さん

A Flower, and All Things.




都立灰桜岸音ノ川女子小中高等学校第七美術造形表現学習室の広い空間に満ちているのは、鉛筆の芯が紙の表面をかすめる、乾いて細い音。一定のリズムを保ち、静けさを強調するように窓から差し込む午後の光とともに、冬に向かいはじめた季節特有の白さを帯びていた。


窓際の長机の中央には、透明なガラスの花瓶が置かれている。購買で手に入れた安価な花であることは、購入する時についていた包装紙の薄さや、花瓶の中でわずかに濁った花自体色からも明らかだった。それでも花は、安さを言い訳にすることもなく、ただそこに在る形を保っている。彼女は椅子に浅く腰掛け、逃げ場のない距離でその花を正面から見つめ続けていた。視線を外せば、すぐに全体のバランスを見失ってしまうような気がして、瞬きの回数さえ意識的に抑えている。


花の名前は知らないし、知ろうとも思っていなかった。必要なのは名称ではなく、今この瞬間の形だった。茎がわずかに左へ傾いている理由、花弁が重なり合うことで生まれる影の濃淡、その中心に溜まる微妙な暗さ。彼女はそれらを一つひとつ視線でなぞり、頭の中で分解し、紙の上へ移し替えようとしていた。鉛筆を持つ指先には力が入りすぎないよう注意を払いながらも、芯が折れないぎりぎりの圧を探るように、何度も線を引き直す。


ときおり、外から運動部の掛け声や廊下を走る足音が微かに届くが、第七美術造形表現学習室の扉を隔てることで、それらは現実感を失い、遠い世界の出来事のように聞こえた。彼女の意識は今、花と紙と鉛筆の間に細く張られた一本の糸に集中している。その糸が切れないよう、余計な感情や思考を慎重に脇へ押しやりながら、ただ形だけを、できるだけ正確に拾い上げようとしていた。


時的虚空白――そんな言葉がふと頭をよぎったが、それを確かめる術はもうなかった。時計はいつの間にか思考の外へ押し流され、時間は数字ではなく、机の上に溜まった鉛筆の削り屑の量でしか測れなくなっていた。削るたびに増え、指で払うと床へ落ちていくその削粉屑が、静かに経過した時間そのもののように思えた。


集中は深く、意識は狭まっていた。だが、ふとした拍子に彼女は視線を上げる。ほんの一瞬、呼吸の合間のような間だった。その瞬間、花弁の縁がわずかに萎れているのが目に入った。最初に見たときには確かにあった瑞々しさが失われ、張りのある曲線は頼りなく内側へ沈んでいる。光の受け方も微妙に変わり、影が以前より柔らかく、曖昧になっていた。


その変化を「変わった」と認識した途端、紙の上の線が急に他人のものに見えた。自分が引いたはずの線なのに、どこか距離があり、触れれば壊れてしまいそうな薄さを帯びている。


――、違う。


言葉にはならず、声も出なかった。ただ胸の奥で、小さな石が落ちるような感覚がした。線は正確だったはずだ。比率も、角度も、何度も確認して狂いはない。理屈の上では、失敗ではない。それなのに、今、目の前にある花と、紙の上に定着した花は一致していなかった。どちらが間違っているというより、すでに同じ時間に存在していないような、そんな断絶があった。


彼女はゆっくりと鉛筆を置き、椅子に深く腰を預ける。背もたれに体重を預けた瞬間、肩や首に溜まっていた緊張が遅れて自覚された。努力が足りなかった、という感覚ではない。描き込みが甘かったとも思えない。ただ、追いつけなかった、という感触だけが残る。ものが変わる速さに対して、自分の手が、意識が、どうしても一拍遅れてしまう。その事実を突きつけられたようだった。


改めて室内を見渡すと、美術室にはイーゼルが整然と並び、石膏像も所定の位置に静かに立っている。アグリッパの石膏はいつも通り無表情で、時間の影響を一切受けていないように見えた。環境としては申し分ない。光も、道具も、配置も、すべてが「描くため」に整えられている。それだけに、自分が遅れている感覚が、余計に際立った。


机の隅に置かれたペットボトルはすでに空。横には、甘い菓子の包み紙だけが残り、指で触れると微かにカサリと音を立てた。その軽い音が、張り詰めていた空気に小さな亀裂を入れる。彼女はその音を聞きながら、変わり続けるものを留めようとする行為そのものについて完全に原型を再現し理解するのは厳しいという現実だった。


制服の上に被ったベレー帽は、どう考えてもこの場所、この年齢、この立場には少しだけ不釣り合いだった。柔らかく淡い色合いは、美術館や画集の中で見てきた「絵描き」という像から借りてきたもので、現実の彼女の輪郭とは微妙に噛み合っていない。それでも外す気にはなれず、彼女は帽子の縁を指先で軽く押さえながら、無意識に姿勢を整えていた。絵描きになりたい、という気持ちだけが先にあって、それに似合う形を後から無理に被せた結果なのだと、自分でも分かっている。


もし今、ここに鏡があったなら、きっと少しだけ口角を上げて、曖昧な苦笑を浮かべていただろう。似合っているかどうかよりも、「らしく振る舞おうとしている自分」が可笑しくて。実際の彼女は全然、絵描きらしくない。ただの学生で、課題に追われ、時間割に縛られ、最近やっていることといえば、ひたすらデッサンばかりだ。想像力が溢れて止まらない、というタイプでもない。ただ目の前の形を、必死に追いかけているだけ。


「『デッサンだけ上手くなったとしても……、それで自分は、どうするんだろう?』」


心の中でそう呟くと、さっきより少しだけ深い苦笑が胸の奥に落ちる。その感情は自嘲というほど強くはなく、けれど確かな違和感として残った。指先に視線を落とすと、やけに長い自分の指が目に入る。昔、その指を見て、ピアノを勧めてきた大人がいたことを思い出す。確かに鍵盤の上を走らせるには、悪くない形をしていたはずだ。もしあのまま続けていたら、別の景色が見えていたのかもしれない。


それでも、彼女にとって近かったのは鍵盤よりもキャンバスや紙だった。音よりも線のほうが、沈黙を許してくれる気がしたからだ。ただし、それは現実の形に限った話だった。器、花、石膏像――目の前に存在するものなら、時間をかけて追いかけられる。だが、想像の世界を描こうとした瞬間、手は途端に止まる。頭の中には確かに何かがあるのに、それは輪郭を拒み、紙の上に降りてこようとしない。現実は捕まえられるのに、空想は逃げていく。その差が、いつも彼女を黙らせた。


彼女はもう一度、机の上の、少し萎れ始めた花へと視線を戻す。花弁の縁は朝よりも弱く、茎の張りも心細く失われている。だが、変わってしまったのは花だけではない。描いている間に、自分の側も、確かにわずかにずれている。集中しているつもりで、時間を忘れているつもりで、その実、何か大事な感覚を置き去りにしているのかもしれない。


そのずれをどうやって修正すればいいのか、彼女はまだ知らない。答えの形すら、見えていない。ただ確かなのは、今日もまた鉛筆だけが、少しずつ、しかし確実に重くなっていくということだった。


彼女は椅子を引く音をできるだけ立てないようにして立ち上がり、ゆっくりと窓の方へ歩いた。足音が広い美術室に響かないことを、どこかで確認しながら。鉛筆の粉が薄く付着したままの指先で、無意識のうちに窓ガラスの縁に触れる。冷たさが皮膚にじんわりと広がり、描くことに集中していた指先の熱が、現実へと引き戻されるようだった。ガラスにはうっすらと指の跡が残り、それを見て初めて、自分がどれほど長い時間そこに座っていたのかを思い知る。


そこから見下ろす学校の全景は、彼女の知っている「校舎」という言葉では収まりきらないものだった。それはひとつの建物というより、意図と思想を内包した、ひとつの構造体に近い。小学校と中学校が合体した私立の校舎は、敷地いっぱいに広がり、全体が淡い白で統一されている。その白は清潔さというより、距離感を生むための色のようにも見えた。装飾は極端に控えめだが、直線が多く、ところどころに尖塔のような形状が挿入されているため、視線は自然と上へ、あるいは奥へと誘導される。


その佇まいは、どこか宗教施設に近い印象を与えていた。教会ではない。だが、祈りのための空間が最初から想定されている建築――そんな言葉が、彼女の中で静かに形を取る。実際、敷地の中央には礼拝堂があり、授業の区切りや特定の時間になると、決まって鐘が鳴る。信仰を強く意識させるわけではないのに、「立ち止まる時間」が制度として組み込まれていることが、この学校の特徴だった。


その鐘の音が、今まさに遠くで響いていた。金属的でありながら、耳に刺さることはなく、むしろ丸みを帯びて空間に広がっていく。空気を切り裂くというより、冬の澄んだ空に溶け込み、徐々に薄まっていくような音だった。その余韻が残るあいだ、校舎全体が一瞬だけ、静止したかのように感じられる。


一月の初め。冬はまだ深く、寒さは校舎の白をいっそう硬質なものに見せていた。舎壁面の白は、地面に残る雪の名残と区別がつかないほど冷たく、均質で、感情を拒むようでもある。その白の前を、濃い色の冬服に身を包んだ生徒たちが行き交っている。黒や紺のコート、マフラーの重なり、歩くたびに揺れる布と影。無数の個人がいるはずなのに、色彩は抑えられ、全体としてひとつの流れを形成していた。その集団の密度が、広い風景を一気に引き締めている。


窓越しに眺めるその光景は、どこか現実感が薄かった。確かにここは日本の学校で、彼女自身もその内部にいるはずなのに、視覚だけを切り取ると、国外の修道院や、閉じた学園都市を遠くから眺めているような錯覚が生じる。建物の白と冬服の暗色、その対比があまりにも整いすぎているせいかもしれない。人の多さも、雑然とした騒がしさではなく、あらかじめ設計された動線の中を、静かに流れていく要素のひとつとして配置されているように見えた。


彼女はガラス越しのその均整をしばらく眺めながら、自分が今、どこに立っているのかを確かめるように息を整える。外の世界と内側の静けさ。その境界に触れている感覚だけが、指先の冷たさとともに、確かに残っていた。


やがて鐘の音が消えてく。生徒たちはそれぞれの目的地へと散っていく。白い建物は、何事もなかったかのように再び静まり返り、冬の光を均等に受け止めている。その完結した風景を前にして、彼女はガラス越しに、思考の中でデッサンをするように、構造と流れを静かにトレースしていた。形を描くのではなく、配置と関係性をなぞるための、無言の観察だった。


鐘の余韻が完全に消え、空気が元の密度を取り戻した頃、彼女はようやく窓から視線を外した。ガラス越しに保っていた外界との距離を断ち切るように、ゆっくりと体の向きを変え、再び机へと意識を戻す。その動作は滑らかだったが、内側では小さな採断がいくつも積み重なっていた。


机の上の花に目を落とす。花弁の縁は、先ほどよりも確かに内側へと丸まり、色も一段沈んでいる。白に近かった部分には、うっすらと影が差し、瑞々しさの代わりに疲労のようなものが漂っていた。気づかないふりをして描き続けることも、工巧技術的には可能だっただろう。線を重ね、比率を保ち、最初に決めた形を完成させるだけなら、それで十分だった。しかし、その変化は「無視できる誤差」として片づけるには、あまりにもはっきりしていた。


彼女は息整し、鉛筆を置く。迷いはほとんどなかった。ためらいなく花瓶に手を伸ばし、指先で内ガラス部側に触れる。ひんやりとした感触が伝わり、そこに残っていた水の状態が、視覚よりも先に感覚として伝わってきた。水はすでに、最初の透明さを失い、底の方には細かな気泡と、言葉にしづらい濁りが溜まっている。花瓶を持ち上げると、水の重さが想像よりも軽く感じられた。その軽さが、何時間も経ったことを、何より端的に示していた。


流し台まで運ぶあいだ、花は小さく揺れ、花弁同士がかすかに触れ合う。水を捨てると、音もなく流れていき、花瓶の中には空洞だけが残る。その内側を軽くすすぎ、指で回しながら、新しい水を注ぐ。水面が上がるにつれて、ガラスの縁に反射する光も少しずつ変わっていく。引き出しを開け、小さな栄養液化剤薬を取り出す。量を量ることはしなかった。説明書きを読むこともない。感覚だけで、ほんの少し落とす。正しい配分かどうかは分からない。それでも、何もしないでいるよりはいい、という判断だった。その判断には、理屈よりも、描き手としての意地に近いものが含まれていた。


花を元の位置に戻すと、しばらくして、茎が水を吸い、わずかに姿勢を正したように見えた。背筋を伸ばす、というほど劇的ではない。ただ、ほんの少し、重心が戻ったような印象がある。それが錯覚である可能性も、彼女は理解していた。それでも、その変化を信じることにした。描く対象が、完全に静止したものではないという事実を、ここまできて否定する理由はなかった。変わるものを前にして、変わらないふりをするほうが、よほど不自然だった。


再び机に戻り、デッサンを見下ろす。紙の上の花は、まだ最初に捉えた形を保っている。しおれ始める前の、張りつめた状態のまま、時間を止められたようにそこにある。その違いを認識し、描いているのは同じ花のはずなのに、すでに別の存在になりかけている。


どちらが正しいのか、彼女には分からない。今、目の前にある花を描くべきなのか。それとも、最初に見た、もっと確かだった形を、最後まで描き切るべきなのか。鉛筆を持つ指先は、まだ動かない。ただ、紙と花のあいだに生まれたそのズレを、視線だけで何度も行き来しながら、彼女は静かに次の一線を待っていた。


彼女は椅子に腰を下ろし、先ほどよりも少し深く背を預けてから、改めて鉛筆を持ち直した。指先に伝わる木軸の感触は変わらないのに、その重みだけが微妙に違って感じられる。迷いはまだ消えていなかった。むしろ、はっきりと形を持ってそこに在る。けれど、それは手を止める理由にはならなかった。描かないという選択肢は、いつの間にか思考の外へ追いやられている。


花は今も生きている。水を吸い、わずかずつ形を変えながら、この時間を生き延びている。一方で、紙の上に引かれる線は、その瞬間に固定され、過去として残り続ける。その二つの性質が噛み合わないことは、もう分かっていた。そのズレをどう扱うか――どちらかを切り捨てるのではなく、同時に抱えたまま描くことが、自分に課された問題なのだと、彼女は静かに理解していた。答えはまだ出ていないが、問いの輪郭だけは、ようやく見え始めている。


第七美術造形表現学習室を見渡しても、相変わらず何ひとつ不足していない。イーゼルは所定の位置に並び、道具は整然と揃い、窓から入る光も安定している。それでも、時間だけは例外だった。時間だけが、こちらの都合や覚悟を待ってはくれない。均等に、容赦なく、すべてを通り過ぎていく。


その事実を受け入れるように、彼女は小さく息を吐き、もう一度、花に視線を合わせた。変わり続けるものを前に、変わらない線を引く。その行為の緊張を指先に集めながら……。


鉛筆を紙に当てたまま、彼女はふと手を止めた。芯はまだ紙に触れているのに、線は動かない。わずかな沈黙の中で、どこからともなく、ひとつの言葉が意識の底から浮かび上がってくる。


――花の美しさ、というものはない。


そんな言い回しだった気がする。断定的で、少し突き放すような響きだけが残っている。


誰が言ったのかは思い出せなかった。授業中に先生が何気なく口にした一言だったのかもしれないし、本の余白に紛れ込んでいた文章だった可能性もある。あるいは、誰かが軽い調子で投げた言葉を、彼女自身が勝手に拾い上げ、長いあいだ胸の内で転がしてきただけなのかもしれない。記憶の出どころは曖昧だったが、その言葉の輪郭だけは、不自然なほど鮮明だった。まるで、今この瞬間のために保存されていたかのように。


花に美しさがない、という意味ではなかったはずだ。その言葉には、否定よりも警戒に近い響きがあった。むしろ逆で、「美しさ」という規定近似値枠の中に花を押し込めた途端、何か大切なものがこぼれ落ちてしまう、という感覚を示していたのだと思う。花を見て、反射的に「美しい」と口にした瞬間、目の前の花そのものではなく、「美しいもの」という既カテゴリーを先に見てしまう。その短絡即断、その省略を、あの言葉は嫌っていたのではないだろうか。


彼女は紙の上の線をじっと見つめながら、その考えを辿った。描かれた花は、最初に捉えた形のまま、時間を止められたようにそこにある。一方で、机の上の花は、今この瞬間も微かに変化し続けている。その二つを前にして、「美しい」という言葉は、あまりにも簡利便すぎる。


花を、美しさの代表例のように扱うこと。 花=美しい、という等式。 その分かりやすさが、もし乱暴なのだとしたら。花という複雑で、時間に従う存在を、「美しさ」という一語で回収してしまうこと自体が、傲慢なのかもしれない。


美しさを定義したいがために、花を使う。 花を理解したいのではなく、「美しい」という概念を補強するために、花をそこに配置する。 もしその順序が逆転しているのだとしたら――花が主ではなく、概念の添え物になっているのだとしたら。その違和感に耐えられなかった誰かが、あの言葉を残したのだろう。彼女は、そう考える。


その瞬間、これまで言葉にならなかった小さな苛立ちの正体が、ようやく輪郭を持った気がした。どこか鼻につく感じがした理由。それは、花が説明のための道具のように扱われることへの抵抗だった。花は、美しさを証明するために、そこにあるわけではない。意味づけのために配置される存在でもない。ただ咲き、やがて萎れ、形を変えていく。考慮は見失ってしまうもの、移ろいやすい。


彼女はそれ以上考え込むのをやめ、意識的に思考の深いところから手を引き上げた。答えを出すために描くのではない。ただ描く。そのために、鉛筆を動かした。紙の白と向き合い、今この瞬間にそこにある形と、ほんの少し前に確かに存在していた形。その微妙なズレを、判断せず、評価せず、ただ線として残す。それは誰に見せるためでもなく、自分自身に言い聞かせるための行為だった。


鉛筆の先が紙を滑り、次の瞬間、小さな「パキン」という乾いた音が美術室に響いた。予期していなかったその音に、彼女は思わず息を呑む。指先に伝わる衝撃はわずかだったが、静寂の中では過剰なほど大きく感じられた。折れた芯の断面を見下ろしながら、彼女は無言のまま、短くなった鉛筆を持ち替える。


手元に並ぶデッサン用の鉛筆は、どれも同じ硬さで、同じように削られている。今折れた一本だけが特別なのではなく、残りのすべても、遅かれ早かれ同じ運命を辿るだろうという予感が、妙に現実味を帯びて胸に残った。描けば折れ、削れば減り、また描いては消耗していく。その繰り返しが、あらかじめ用意された工程のように思えてくる。


『「デッサンって、苦行なのかな……」』


声には出さなかったが、その言葉は確かに胸の内で形を持った。紙の上に軽く線を引いただけで、疑問は静かに広がっていく。線と現実のあいだに横たわる距離。手と紙が触れ合うときの微かな摩擦。芯が削れ、粉となって積もっていく感触。その一つひとつが、まるで自分の集中や覚悟を試す装置のように感じられた。


それでも彼女は、鉛筆を置かなかった。紙に散らばった折れた芯屑を指で払い、もう一度、紙の上に新しい鉛端を当てる。苦行かどうかは分からない。ただ、この抵抗の多さそのものが、今の自分にとって必要なのだと、理由もなくそう思えた。線を引くたびに、現実と紙のあいだで揺れる感覚を確かめながら、彼女は黙って描き続けた。


その瞬間、ドアが開いた。


ごく微かな、しかし確かに現実の音として、レバーが回る金属音が美術室に落ちた。乾いた空気の中で、その音だけが不自然にくっきりと輪郭を持つ。彼女は反射的に顔を上げ、視線を入口へ向けた。

けれど、そこには誰の姿もない。


「……うにゃ?」


短い溢声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

開いたはずのドアは、ゆっくりと、まるで最初からそう決まっていたかのように静かに閉じていく。人の気配も、足音も、衣擦れの音もない。ただ、ドアが閉まるという結果だけが残された。


誰かが入ってきた――そう認識したはずなのに、現実はそれを否定する。

理由のわからない食い違いが、背中の奥をなぞるように冷やし、彼女は小さく?の記号を頭に浮かべた。


第七美術造形表現学習室を見渡す。

壁際の棚には使い込まれた画材が整然と並び、長イーゼル、短イーゼルはいつもの位置に立ち、窓から差し込む冬光、外の冷気を思わせる白い光は、室内の空気を少し硬く、張り詰めたものに見せていた。

どこにも異変はない。すべてが、あまりにも「いつも通り」だった。


しばらく場凍したあと、彼女はようやく視線を紙へ戻し、思考をゆっくりと巡らせる。

すると、先ほどの違和感に、かすかな意味の輪郭が浮かび上がってきた。


――観察する側と、観察される側。その間には、美意識のズレがある。


誰かが入ってきたと感じたのは、外界の出来事ではなく、自分の内側で起きた認識の揺らぎだったのかもしれない。

描こうとする自分と、現実をそのまま見ている自分。その二つが一瞬ずれ、その隙間に「誰か」という像が立ち上がった。

勘違い。けれど、その勘違いこそが、ものを見る行為を生み、表現の起点になるのではないか。


彼女は足元に落ちていた折れた鉛筆を拾い上げ、指先で転がす。芯の断面は不揃いで、思考の途中で断ち切られた感覚をそのまま形にしたようだった。

静かに息を整えながら、頭の中の言葉を一つずつ整理していく。


もし、花を、ただそこに存在するものとして見続けることができたなら。

意味も評価も与えず、名前すら一度脇に置いて、花を花のまま受け取れたなら――

それは、盲目的な解釈ではなく、存在そのものに触れる描き方になるのかもしれない。


彼女は新しい鉛筆を手に取り、静かに紙へと向き直った。

線を引く前に、ほんの一瞬だけ対象を見つめ……、

走り出した線は、形をなぞるというより、そこに「ある」ことを追いかけていた。

うまく描けているかどうかは、今は重要ではない。誰かが見ていなくても、誰かに褒められなくても、花と画する自分、当たり前の事実。線という行為で確かめるように、彼女は黙々と描き続けていた。


美術室には、再び鉛筆の擦れる音だけが、静かに満ちていった。



背中に、軽く「トントン」と触れる感触があった。


それは驚くほど弱く、指先が布の上を確かめるようになぞっただけの圧力だった。それでも彼女の身体は即座に反応し、心臓が一拍だけ強く跳ねる。

反射的に心細く肩をすくめ、振り返る。


そこに、同級生の女の子が立っていた。


近すぎず、遠すぎず、まるで最初からそこに立つ予定だったかのような距離感。制服の襟元はきちんと整っていて、髪型も乱れていない。特別目立つわけではないが、かといって背景に溶け込むほど曖昧でもない。

それなのに――今まで、確かに視界に入っていなかった。


彼女は、ようやく〘誰かがいた〙ことを理解した、という顔をしていた。

驚きと安堵と、説明のつかない戸惑いが混じった、遅れて追いついたような表情だった。


「……いつから、いたの?」


声は思ったより低く、探るような響きを帯びていた。問いかけというより、事実確認に近い。


同級生の女の子は少し霞む肩をすくめ、あっさりと言う。


「30分前から」


その数字が、美術室の空気をわずかに歪めた気がした。

30分。鉛筆を削り、線を重ね、再度、花の形を追い続けていた、時間。


「……でもね」

彼女は言葉を続ける。

「あなたには、私が、いた、っていう認識がなさそうだったから。そのまま放置してたの。もしかして、本気で見えてなかった?」


問いは軽い調子だったが、どこか試すような視線が含まれていた。


彼女はすぐに答えられず、視線を宙に泳がせる。

脳裏に、さっきまでの光景が順に浮かぶ。紙の白さ、鉛筆の粉、窓から差し込む冬の光。ドアが開いた音。誰もいなかった空間。


――誰も、いなかった。


その確信は、今も揺らいでいない。


「……誰も、いなかったんです」


ぽつりと落とした言葉は、思った以上に小さく、震えを含んでいた。

自分の声なのに、少し距離があるように聞こえる。


同級生の女の子は、すぐには返事をせず、首をかしげる。視線を少しだけ天井の方へ向け、考えを組み立てるように目を細めた。


「うーん……現象学で言えば」


その単語が出た瞬間、彼女は現実に虚数空間空洞のような知覚感を覚えた。


「〘いるのに、いない〙っていう状態に出くわしたのかもしれないね。存在してるけど、認識の網に引っかからなかった、みたいな。空間の歪みのスポットに、ササッと落ちた感じ」


軽やかな言い方とは裏腹に、説明の内容は重かった。

主人公は無意識のうちに、鉛筆を持ったままの指に力を込めていた。


――そんなことが、現実に起こるのか。


頭の中で整理しようとすればするほど、論理はすり抜けていく。理解しようとした瞬間に、感覚だけが残る。


同級生は、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。


「だって。あなたに、私は見えてなかったんでしょ?」

自分の胸元を軽く指で示しながら言う。

「私、はっきりした格好してるじゃない。姿形も、髪型も、別に変じゃないでしょ?」


彼女は、その言葉にうなずくことしかできなかった。


「……うん」


それ以上、言葉が続かない。

説明しようとすればするほど、事実がぼやけてしまう気がした。


言葉にしなくても、状況の異常さは、皮膚の内側に薄く残っている。寒さとは違う、じわじわとした違和感として。


存在と認識のあいだに生まれた、ほんの小さな亀裂。

二人はそれを、言葉にせず、しかし確かに感じ取っていた。


やがて彼女は、ゆっくりと口を開く。


「……あなたには、私が見えてたんだよね。でも、私はあなたを見られなかった」

少し間を置いて、続ける。

「それって……時空間が、隔たってたってことなのかな」


自分でも突飛な仮説だと思いながら、それでも言葉にせずにはいられなかった。


「私が見てた花とか、デッサンの形って……あなたからは、どう見えてたの?」

彼女。


同級生は一瞬だけ考え、静かに首をかしげる。

そして、柔らかい声で答えた。


「今と、変わらないよ」


その即答が、かえって重く響いた。


「……、何故」

主人公は思わず食い下がる。

「私には見えなかったの……あなたが」


問いは宙に浮いたまま、答えを探す。


同級生は、その様子を見て、微かに笑みを浮かべた。慰めるでも、突き放すでもない、曖昧な表情で。


「それを問い立てても、仕方ないんじゃないかな」


静かに、しかし確信をもって言う。


「なぜ花が花なのか、って聞いてるのと、同じ意味だと思うよ」


美術室には再び沈黙が落ちる。

冬光は相変わらず窓から差し込み、紙の上の線も、花も、二人の存在も――そこにあった。


主人公は、同級生の顔からほんの少しだけ視線を外し、その頭の上方に漂う、かすかな違和感に気づいた。

それははっきりとした形を持つものではなく、輪郭も曖昧で、見ようと意識した途端に薄れてしまいそうなものだった。それでも、確かにそこに「丸み」を感じる。光が空気を一段やわらかく歪ませているような、淡い輪。


「……それ」


思わず口に出た声は、自分でも驚くほど慎重だった。


「その、頭の上の……光輪みたいなの。何?」


問いかけられた同級生は、一瞬きょとんとした顔をし、それから小さく首を振る。髪がさらりと揺れ、その動きに合わせて、主人公の視界にあったはずの光の輪は、さらに不確かなものになる。


「光輪?」

同級生の女の子は半ば冗談めかした調子で言う。

「そんなの、ないよ。頭の上に何か浮いてるわけないじゃない。天使でもあるまいし」


はっきりと否定され、その言葉が空気に落ちた瞬間、主人公の胸の奥に、別の記憶が静かに蘇る。

――ドアが開いたのに、誰もいなかったこと。

――確かに存在していたはずの人が、見えていなかったこと。


目に見えるものが、すべてではないのかもしれない。

そう考えた瞬間、背中に薄く冷たいものが走った。


もし、見えるものだけが世界の全てではないのだとしたら。

もし、見る側の状態や意識によって、世界の輪郭が変わるのだとしたら。


絵を描く、という行為は、いったい何をすくい取っているのだろう。


見えるものだけを描けばいいのか。

それとも、見えてしまったものの背後にある、別の層まで含めて描くべきなのか。


描かれるものと、認識されるもの。

その間に生じる、ほんのわずかなズレ。


主人公は、その感覚をまだ言葉にできず、ただ胸の奥で転がしていた。




*****




同級生の女の子を隣に置いたまま、彼女は再びデッサンに向き直った。

椅子に座り直し、紙の位置を微調整し、鉛筆を握り直す。その一連の動作が、いつもよりもゆっくりになる。


指先が、震えているのがわかった。


紙の上に落とされる線は、慎重で、用心深く、それでいてどこか頼りなかった。

花の形、花びらの重なり、縁のわずかな皺、茎の緩やかな曲がり。視覚的な情報はいくらでもある。それを一つひとつ拾い上げ、線に変えていくこと自体は、これまで何度もやってきたことだ。


けれど今日は、その行為が急に空虚に思えた。


ただ「見えた通り」に描くだけで、自分は本当に描いたと言えるのだろうか。

この花は、本当に自分が見たい花なのか。

それとも、誰かが「こう見えるはずだ」と用意した花の姿を、なぞっているだけなのか。


「……見えないものを描く、って」


彼女は、ほとんど息に紛れるような声で呟いた。


「どういうことなんだろう?」


鉛筆を持つ指先が、紙の上で止まる。

見えないもの。

それは、さっきの光輪のようなものかもしれないし、時空間の隙間に落ち込んだ存在かもしれない。あるいは、誰にも確認されず、名付けられることもなく、ただそこにある感覚そのものかもしれない。


それらを、線で表現できるのだろうか。

形を持たないものを、形あるものとして留めることはできるのか。


一度、目を閉じる。

ゆっくりと呼吸を整え、胸の内側に溜まったざわめきを沈める。


そして、もう一度、鉛筆を動かす。


今度は、花を正確に写し取ろうとはしなかった。

花が自分の中で揺れている、その不安定な存在感ごと、紙に残すように意識する。輪郭は少し曖昧に、線は確定しきらないまま。影も、光も、教科書的な正解からは外れている。


それでも――

彼女の眼差しに映る花は、確かにそこに在った。


誰かに見られていようと、いまいと。

褒められようと、無視されようと。

存在しているという事実は、それだけで完結している。


認識されることだけが、美しさの証明ではない。


鉛筆が紙をなぞる、かすかな音が、美術室の静けさの中に溶けていく。

その音は、苦行のようでもあり、小さな儀式のようでもあった。


見えないものを信じること。

描きたいものを、信じること。


彼女は、その両方を、線という形で確かめ続けていた。


同級生の女の子は、何も言わずにゆっくりと歩き出した。

足音はほとんど立てず、床に触れるか触れないかのような軽さで、美術室の中央を横切っていく。その動きは、授業中の生徒というより、すでにこの場所の一部になっているようだった。


彼女は、その背中を目で追う。

止めようと思えば止められたはずなのに、身体は動かなかった。


同級生は窓際の長机の前に立ち、花の前で足を止める。冬の光がガラス越しに差し込み、花びらの縁を薄く透かしている。その光の中で、指先が静かに伸びた。


花びらを、そっとつまむ。


力はほとんど入っていないはずなのに、花びらは小さく音もなく、指から離れた。

一枚だけ、欠ける。


その瞬間、空気の密度がわずかに変わった気がした。


「これが、芸術じゃないの」


同級生の声は、低くも高くもなく、断定説明するでもない、不思議な響きを持っていた。


「欠落――」


言葉が落ち切る前に、彼女の輪郭が揺らぐ。

まるで、ピントの合わない映像が、急に現実から切り離されるように。次の瞬間、そこには誰もいなかった。


姿は消えたのに、空間だけが、ほんの一瞬遅れて静まり返る。


残されたのは、花瓶と、欠けた花と、そして――声。


「私の作品だよ」


その言葉は、どこから聞こえたのか分からない。耳元でも、背後でも、天井でもない。第七美術造形表現学習室、そのものが、そう囁いたように感じられた。


胸の奥で、何かがはじける。


痛みではない。驚きでもない。

長いあいだ固まっていた考えが、音もなく割れた感覚だった。


――自分の中の哲学を、作品で確認しろ。


誰かの言葉だったのか、自分自身の声だったのか、それすら曖昧だ。ただ、その一文だけが、異様なほど明確に胸に残った。


花を描き、欠落を恐れ、正確さに縋り、鉛筆を削りながら立ち止まっていた時間。

空想は描けない、と決めつけ、現実だけをなぞろうとしていた自分。


机の上に残った花を見る。

一枚欠けた花びら。その欠落は、破壊でも失敗でもなく、むしろ、何かを成立させるための「操作」のように見えた。


なるほど、と彼女は思う。


空想を描く、というのは、何もないところから勝手な形を捏ね上げることではない。

現実に触れ、現実に手を入れ、現実の在り方をわずかにずらすこと。

触れさせる力、働きかける力を持つこと。


自分が今まで拒絶してきたのは、空想そのものではなく、現実を揺らしてしまう責任だったのかもしれない。


窓の外の冬の光が、美術室いっぱいに広がっている。

白い壁、イーゼル、並んだ鉛筆、開きっぱなしのスケッチブック。微かに舞う埃の粒まで、ゆっくりと時間の中で浮遊している。


教室全体が、静かに呼吸しているようだった。


彼女は、鉛筆を握り直す。

さきほどまでの緊張が、完全に消えたわけではない。だが、指先の力は、ほんの少しだけ抜けていた。


欠落も、空想も、現実も。

どれかを排除する必要はない。すべてが、絵になる。


デッサンは、まだ続けられる。

今度は、見えないものを恐れずに。

欠けたままの世界を、そのまま受け入れながら。


彼女は、再び線を引いた。




改稿(さらに整理・強化した版)


同級生は、ためらいもなく花の方へ歩いていった。

床を踏む音はほとんど聞こえず、その動きは授業中の人間というより、最初からこの美術室に組み込まれていた装置の一部のように見えた。


主人公は声をかけようとして、やめた。

理由は分からない。ただ、ここで言葉を挟めば、この流れそのものが壊れてしまう気がした。彼女の身体は、判断よりも先に、その予感を信じていた。


窓際の机に差し込む冬の光が、花びらの輪郭を薄く縁取っている。

同級生は指先を伸ばし、揺れる花弁をそっとつまんだ。力はほとんど入っていない。それでも、花弁は抵抗なく、静かに指から離れる。


一枚、欠ける。


その瞬間、空気がわずかに軽くなった。

音もなく、しかし確かに、空間の張りつめ方が変わる。


「これが、芸術じゃないの」


声は淡々としていた。説明でも、挑発でもない。

まるで、すでに答えが分かっている人が、確認のために口にした言葉のようだった。


「欠落――」


その語尾が空気に溶けきる前に、同級生の輪郭が揺らいだ。

焦点がずれ、像が薄れ、次の瞬間には、そこに誰もいなくなっていた。


残されたのは、欠けた花と、静まり返った美術室。


「これが、私の作品だよ」


声だけが、遅れて届く。

どこから聞こえたのかは分からない。耳元でも、背後でもなく、美術室全体がそう告げたように感じられた。


主人公の胸の奥で、何かが静かに壊れた。


――自分の中の哲学を、作品で確認しろ。


誰の言葉だったのかは分からない。

けれど、その一文だけが、異様なほどはっきりと残った。


これまで彼女は、花を描き、欠落を恐れ、正確さにしがみついてきた。

空想は描けないと決めつけ、現実だけをなぞろうとしていた。


机の上の花を見る。

一枚欠けた花弁は、破壊の痕ではなく、操作の結果のように見えた。

何かを失ったというより、初めて「手が入った」ような感覚。


なるほど、と彼女は思う。


空想を描くというのは、何もないところから勝手な形を生み出すことではない。

現実に触れ、現実を少しだけずらし、その変化を引き受けること。

世界に影響を与えてしまうことを、恐れずに受け取ること。


窓の外の冬の光が、第七美術造形表現学習室、いっぱいに広がっている。

白い壁、イーゼル、並んだ鉛筆、開いたままのスケッチブック。

日差しが舞い上がる、光の粒が、ゆっくりと時間の中を漂っている。


教室が、生き物のように静かに呼吸している。


彼女は鉛筆を握り直す。

緊張は消えていない。だが、指先の力は、確かに変わっていた。


欠落も、空想も、現実も。

どれかを排除する必要はない。


デッサンは、まだ続けられる。

今度は、見えないものを恐れずに。


彼女は、もう一度、線を引いた。





(了)

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花という、あらゆるもの。 紙の妖精さん @paperfairy

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