疾風千里を走る

黒崎葦雀

疾風千里を走る

 魏の斉王の正始九年一月、重臣、司馬懿しばい一族が起こしたクーデターにより、実質国の頂点にあった曹爽一族は、三族皆殺しの刑の憂き目にあった。これ以降、かの曹操を祖とする魏国の皇族は衰退の一途を辿り、司馬一族が権勢を握る晋が興るのである。


 この歴史的な大事件とは裏腹に、同年、ひっそりと息を引き取ろうとする老婦人がいた。

 姓はさい、名はえんあざな文姫ぶんき

父は学者であり、儒家、書家、そして暴君董卓派の人物として知られる蔡邕さいようであった。


 その老婦人の静謐せいひつなる部屋へ、焦燥で荒んだ足音が近づいてきた。程なくして、侍女の静止も聞かず、長身美髯の美丈夫が部屋へと入ってくる。


「伯母上!」


 老婦人は美丈夫を認めると、眉をひそめて、小さくため息をついた。


「まあ、叔子しゅくし、何ですか、はしたない。一介の男子が外聞も厭わず慌てるものではありません」


 しかし、叔子と言われた美丈夫は、床上の老婦人を見るや否や、その戒めの言葉に構わず近づいて手を握った。


「これが慌てずにおられましょうか! 伯母上が危篤だと聞けば、この叔子、国家転覆の災事もかくやとばかりに慌てます!」


「国家転覆ねぇ……聞けば曹爽殿は司馬のご兄弟によって処されたとか……あなたの姉、徽瑜きゆは、兄上の司馬師殿に嫁いだ身。あなたも無関係ではいられませんよ。よくよくお覚悟なさい」


「は、はあ……」


 叔子は曖昧な返事をせざるを得なかった。彼にとって、先のクーデターはさほど重要なことではない。義理の兄がクーデターの一端を担った。それだけのことだった。流石にクーデターまでは予想できなかったが、人心が曹爽から離れていたことは分かっていたので、その士官は頑なに拒んでいた。


 叔子は15才の時に父を亡くしている。その後、今に至るまで、この伯母に養育されたのである。

 その伯母が、実の子のように育ててもらった人が死にそうなのである。国家の存亡より何と重大であることか。


 そんな子供のような胸中を知ってか知らずか、老婦人は常にその人物を見てきたあの優しげな目で、再び美丈夫に語りかける。


「叔子、あなたの非凡さは、私がよく知っています。かの孔子の高弟、顔回もかくやというほどの才、やがては蜀の諸葛亮にも劣らぬものとなりましょう。であれば、その力、国のために振るわずして何とするのです。ゆくゆくは、あなたの双肩に多くの民の命がかかることになる、そのような心構えでいなさい」


 事実、叔子は後に、晋の武帝司馬炎の治世を支える名臣となる。荊州都督として南方の徳治政治を進めた、征南大将軍“羊祜ようこ”とは、彼のことである。


「あなたの気持ちは嬉しい。ですが、私もそう長くはない身。あまり順風満帆な人生とは言えませんでしたが、あなたを育てられたことが、私にとって大きな……」


 そこまで言って、老婦人は甥から視線を外し、遠くを見つめるような顔つきになった。

 そうして、


「叔子と二人で話をします。皆は外してください」


 と、侍女を下がらせた。


 賢明なる叔子も、伯母が何を話すのか予想がつかない。悲しい表情のままに、伯母の言葉を待つ。


 少し経って、老婦人、蔡琰の口から、言葉が紡がれた。


「あなたも知っての通り、私は若き時、匈奴の手によりさらわれ、北の荒凉たる大地で12年ほどを過ごしました」




 当時、都は暴君董卓が誅殺されたことにより、混乱の只中にありました。あのような暴虐の徒でも、一定の抑止力にはなっていたのですね。

 その隙を狙って国内の盗賊紛いの者たち、そして、国外の蛮族たちが略奪の限りを尽くしていました。


 そんな中、私は不覚にも胡軍の騎馬兵に拉致され、南匈奴の王、左賢王劉豹に売られました。


 左賢王のもとには、私と同じ境遇の子女が大勢いました。皆、虚な目をして、自らの運命を諦めているようでした。

私も、そのような目をしていたでしょうね。


 北の地は、本当に何もない荒地でした。冬になれば草一本さえ生えず、吹きすさぶ風が肌を切るように冷たかった。その風が広大な大地を走り、砂塵を巻き上げる。寒さを凌ぐ獣衣からは、常に生モノの臭いがして、息をするのも辛かった。


 男たちは「力が全て」という野蛮な人たちでした。弱い者を嫌い、強い者を尊敬する。

 ただそれは、そうでなくては生きられない場所だったからでしょう。皆、弱いがために大切なものを失った、そういう経験があったのかもしれません。


 私が連れてこられてから、しばらくは何もありませんでした。ええ、呼ばれることもなく、牢などに入っていろということもなく、「買ったけれど包みを開くこともなく放っておいたもの」というような存在だったのではないでしょうかね。


 私はひたすら故郷の地を恋しく思っておりました。幾重にも重なる山々が、都からはるか彼方にいることを否応にも思い知らせてくれる。

 父は獄死し、夫も病死していました。帰ったところで、家族はいないはずなのに、どうしてもここから逃げ出したかった。


 毎日、都の方を眺め、無為なままに毎日を過ごしていました。たまにポツリポツリ、心の断片を詩に託しながら。


 その日も、私はほぼ無意識に呟いていました。


「雲山万重にして帰路遥かなり。疾風は千里を走り砂塵を上げる……」


 呟きながら遠くの山を見つめていた私は、視線を感じてそちらに目を向けました。

 左賢王が立っていたのです。

 驚きの眼で私を見つめていました。

 私は、何か機嫌を損ねたのだろうと、恐ろしさのあまり硬直して、けれどすぐさま額を伏しておりました。

 すると、返ってきたのは、意外な言葉でした。


「おい、それは、何だ? その、言葉は……歌? なのか?」


 私は慌ててさらに平伏しました。


「い、いえ、これは戯れに口にした詩でございます。お耳汚しをしてしまい、申し訳ありません」


と答えると、


「いや、よい。それは漢の歌か?」


 と聞いてくるのです。


「いえ、わたくしが考えた歌とも言えないような言葉の一片でございますれば……」


と返すと、


「お前が作ったのか!?」


と、その声はさらに驚いている様子でした。


「そ、それに続きはあるのか?」


 そう言って私に迫る左賢王の顔は、ふふ、叔子、あなたに少し似ていました。

嬉々として学を乞うていた、幼き頃のあなたに。


 いえ、それはどうでも良いことですね。

 如何せん、ただの独り言同然のものでしたので、いえ、ございませんがお望みならばお作りします、と伝えると、


「では頼む」


と目の前で腰を下ろしました。


 おかしいことに、あれほど匈奴を恐れ、また望郷の念に駆られていたのに、どうしたことでしょう。左賢王を前にしたら、「嫌味の一つでも言ってやろう」との思いが起こってきたのです。

 ですから、このように続けました。


「人多くは暴猛にして蛇の如く、弓弦を控え甲を被りて驕奢を為す」


と、蛮族の驕り高ぶりを言葉にしたのですが、若き王は、益々喜ぶばかりでした。


 私は諦め、


「志砕け心折れて自ら悲嗟す」


と締めました。心折れたのは自らのやるせない境遇か、はたまた劉豹の好奇心だったか。


 ともかくこれ以降、私は左賢王と行動をよくともにしました。狩猟の時から閨の時まで。

 ともにありながら、劉豹はよく言うのです。


「では、詩を作ってくれ」


と。


 あの人は、一部族の族長でありながら、あまり争うことを好まない人でした。

平和主義というものではなく、ただ机を並べて学をともにする、そういうことを好む人だったのです。


 しかし、幸か不幸か、あの人の武の才能は抜きんでたものがありました。

 狩猟をする際にどこに行けば良いか、野生の感とも言える鋭い嗅覚で男たちを引き連れていく。

 また、戦術家としての才覚もあり、他部族との戦いでは、魏の軍略家もかくやと言わんばかりの采配を振るっていました。


 ええ、その時も私は連れていかれましたよ。お前には擦り傷の一つも負わせないから同行しろ、と。

 まったく、いくら若いと言っても、あれでは子供ですね。


 ともかく、部族の中でも誰もが認める武人、それが左賢王劉豹でした。


 逆に、文才はとんとありませんでした。

 いつだったか、自分にも詩を作らせてくれ、と言って、基本的なことは教えたのですが、まあ飲み込みも悪く、何より下手くそなのですよ。

 言葉の違いがあるにしても、もう少しどうかなるのでは、と思ったのですがね。ふふふ。


 ですから、それをキッパリ言って、諦めてもらいました。その分、私がお作りします、と言ったら渋々諦めてくれましたよ。


 あの人は、匈奴の蛮族の地にあって、そこまで悪い人ではありませんでした。

 いえ、あの人だけではなかった。私たちは匈奴を野蛮と言う。しかし、そうではないのです。彼らとて家族がおり、友がおり、愛すべき人がいる。それは漢と、いや、どこの国でも同じことなのです。


 そして人が生きていく以上規律もある。一方で自由もある。その自由とは、私がかつて経験したことのないものでした。


 氏族の決まりや制度、果たしてそれは必要なことなのか? 例えば字(あざな)とてそうでしょう? なぜ必要かと問われれば、礼儀が伝統がと述べるだけで、実質的なことは答えられない。


 胡族の世界は実に単純です。生きるのに必要か、必要でないか。その一点を基準にしています。


 ああ、ごめんなさい。その是非を問おうとしているわけではないのです。

 ただ、私たちは、生への視点が少し違う。それだけのことなのです。


 しかし、そう分かってもなお、私の望郷の念は止むことがありませんでした。

 匈奴の暮らしには慣れるところもありましたが、それでも、私はその地の人間にはなれませんでした。


 私は漢の人間であり、学者蔡邕の娘である。その思いが心の中に居座り続けていました。

 実家には、父が記した蔵書およそ五千点がありました。しかし、都の混乱で焼け出されてしまったようなのです。私にはそれを復元する義務がある。そう半ば無理やり信じて、漢に帰る日を願っていたのです。


 ええ、それは復元しましたよ。全部“覚えて”いましたからね。

 いえ、それはよいのです。

 結果としてこの願いは叶い、今、私は漢の地であなたに看取られようとしているのです。


 ある日、左賢王は物々しい表情でやってきて、こう言うのです。


「漢に、帰りたいか?」


 その時の私は、すぐに頷けませんでした。

 しかし左賢王は構わず続けます。


「漢の曹操という男が、お前を買い戻したいと言ってきている」


 驚きました。まさか曹丞相が私のことを知っており、尚且つ大金をはたいて呼び戻そうとしてくださったのです。


 私は嬉々として、己の望みを言おうとしました。

 が、はたと気づいてそれを押しとどめ、かたわらを見ます。幼子が二人、可愛い寝息を立てて眠っていました。

 ええ、私と劉豹との間には、子どもができていたのです。


「この子たちは……」


と全てを言い終わる前に、左賢王が首を横に振りました。


「先方が申し出ているのは、お前一人だけだ。それに、この子らは左賢王の子。俺が許しても、皆が認めないだろう。この子らは帰せない」


 そうして眠っている我が子の頭を撫でて、言うのです。


「お前は、いつも悲しそうだった。いや、ここに連れてこられた女は皆そうだ。故郷を遠く離れた地で、明日をも知れぬ我が身なれば、当然か。しかし、俺はお前の詩に救われた。この荒凉たる大地で、お前は詩の中で花を咲かせた。樹木を植えた。山谷を大河を、天にかかる虹を、色彩を、お前は俺に教えてくれた。それが、俺にとってどんなに心を震わされたことか。だから、お前には、この恩返しをしたい。喜んでもらいたい。それが……」


 文才の無い夫からの、唯一の贈り物だ、と。


 ああ、私は、あの時、なぜその贈り物を受け取ってしまったのでしょう。

 我が子と離れる悲しさを、何故想像できなかったのでしょう。

 いや、想像できたはず。でも、帰りたかった。帰れることが嬉しかった。

 その事実を目の前にして、私は、私の欲望に従ってしまったのです。

 曹丞相のご厚意と、劉豹の真心、そして父上の意志。


 そんなものを言い訳にして。




 一息に話すと、老婦人は咳き込んだ。

 心配して侍女を呼ぼうとする甥を、手で制する。


「漢に帰ることは叶いました。父の書籍を復元することも叶い、また家族を持つことも叶いました。全てを叶えたはずなのに、私は空虚な毎日を、それこそ匈奴に捕らえられたばかりの時のように、虚な毎日を過ごしていました。それというのも、遥か北方の地に置いてきた我が子のこと。生活が落ち着くと、あの子たちのことが思い出されてしまう。忙殺の中に消え去ろうとしたことが、あの子たちの姿が、頭の中から消えないのです」


 老婦人は改めて叔子を見つめる。


「叔子、妹には悪いけれど、あなたは私の実の子のようなもの。なれば、彼の地にあなたの兄弟がいること、ゆめゆめ忘れることのないように」


 そう言い残し、一人の老婦人がこの世を去った。

 叔子は涙を浮かべ、握った手を離さなかったという。


 老婦人は、今際の際に、若き時の夢を見る。

 青く晴れ渡った空に、筆で書いたような白雲が流れる。

 北の大地が草原となる夏、薫風が肌に心地よい。

 その草原の地平線の彼方から、二つの影が駆けてくる。

 そしてその後ろから、馬に乗った人物の姿も。


 私には分かる。あれは、私の愛する子どもたちだ。

 そして、私が愛した人だ。


“疾風は千里を走り、砂塵を上げる”


 いつか聞かせた詩のように、私は風になろう。

 千里の山河を駆け抜け、あの子たちに、あの人に会いにいこう。

 また、家族となるために。




 蔡琰が漢に戻って後、囚われの月日を『胡笳十八拍こかじゅうはっぱく』という詩にしたとされる。

 

 ただ今日では、唐代の擬作とする説が有力である。


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