第5話クレアの白書――偽りの聖域(クレア視点)
地下室へと消えていくミンの後ろ姿を見送りながら、私は深く、深く息を吐き出した。 それは、どうしようもないほどの安堵だった。 ……ああ、私は一体、何に安堵しているというのだろう。彼がまだ私を信じてくれていることにだろうか。それとも、この汚れきった私を殺さずにいてくれたことにだろうか。
私は首を振り、救済院の子供たちを寝かしつけると、独り窓辺に寄りかかって冷たい月を見上げた。 思考が、あの忌まわしくも輝かしい過去へと引き戻されていく。
私は、クレア・ヴィジール。 聖都の法を司る最高権力者、大判事ヴィジール家の長女として生まれた。 本来ならば、私は今頃、豪奢なドレスを纏い、きらびやかな夜会で優雅に微笑んでいたはずだ。
八年前、私には将来を約束された婚約者がいた。 辺境守備長官、チャック侯爵。 北境の盾と称される彼がどんな人物なのか。若かった私は、少女特有の好奇心に突き動かされ、身分を隠して従軍看護婦として戦地へ向かった。
――そこは、地獄だった。
サリコヴィッチ。獣人の南下を阻む第一防衛線。 鉄と血が混じり合い、雪が赤く染まるその場所で、私の世界は崩壊した。侯爵は戦死し、希望は絶望へと変わった。 その死体の山の中で、後方支援部隊が唯一見つけた生存者。それが、八歳の少年――今の「彼」だった。
記憶を失い、虚空を見つめるだけの瞳。私は彼をヴィジール家へと連れ帰った。けれど、戦火を潜り抜けた野良犬のような彼は、聖都の偽りの静寂に馴染むことはなかった。彼は何も言わずに去り、私もまた、家を捨てた。
「長男が死んだのなら、次男と結婚すればいい」 父が放ったその冷酷な一言が、私を神への献身へと走らせた。 高貴な家柄も、汚れた政略結婚も捨て、私は修道院の門を叩いた。だが、そこで私を待っていたのは、神の慈愛ではなく、この街の「真実」という名の地獄だった。
もしも、この世界に本当に神がいるのなら。 天から降り注ぐ業火が、この偽善に満ちた聖都を跡形もなく焼き尽くすべきだ。さもなくば、あの大洪水が、善人も悪人も関係なく、等しく「死」という名の救済を分け隔てなく与えるべきなのだ。
聖都の繁栄を支えるのは、完璧なまでに合理的な「人喰い」の経済学だ。 ヴァレリウス伯爵が主導する医療と保険。それは、一度でも支払いが滞れば最後、人生のすべてがオークションにかけられるシステム。 不動産、家財、家族、そして自分自身。命さえもが明快な「価格(プライスタグ)」で格付けされる。 返済不能なローン。支払えない保険料。 その瞬間、人は「資産(リソース)」として解体される。 聖都にひしめく宮廷錬金術師や薬剤師たちは、その「資源」を渇望していた。子供たちの新鮮な内臓は、貴族の若さを保つ秘薬の原料となり、遺体は魔力実験の触媒として、グラム単位で取引される。 救済を求める子供たちが、収容所で「出荷」を待つ「在庫(ストック)」に変わっていく。 私はそれを知っていた。知っていながら、父に、そしてこの街のシステムに抗うことができなかった。 私が今日まで施してきた薬も、その血塗られた利益の分配(マージン)に過ぎない。
この数年間、私は片時も安らげたことはなかった。 私の「善心」が、この子たちを救っている?……いいえ、違う。私が救済に充てているこの金は、先ほども言った通り他でもない、この血塗られた「人喰い車(グラインダー)」が吐き出した余剰利益に過ぎないのだ。 この子たちの家族を、未来を、肉体を切り刻んで得た金の残骸で、私はこの子たちにパンを分け与えている。それは、家を失った子供たちに対する「侮辱」ではないのか?
……それも違う。数年の時を経て、私はようやく理解した。 これは、ただの「幸運な者」が、数多の「不運な者たち」に対して抱く、逃げ場のない後ろめたさ――すなわち、愧怍(きさく)に過ぎないのだ。
けれど、神は沈黙し、代わりに彼が現れた。 あの北境の地獄から生き延びた彼が、断刀を手に現れた。
ミン。 私にはできなかったことを、あなたが終わらせて。 この「人喰い」の檻を、その冷たい刃で根こそぎ斬り裂いて――。
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