台風の目が開く廃墟
影守 玄
台風の目が開く廃墟
九時のニュースは、いつも通りの声で異常を告げた。
「気象庁によりますと、季節外れの台風 が発生しました。
十二月としては異例で、今回の発生は 三年ぶりです。
午前中にかけて雨風が強まり、正午前 後にかけて
一時的に風雨が弱まる見込みです」
画面の右上で時刻が切り替わる。9:00。
窓の外は、朝の霧がまだ残っていて、
雨が細い線になって降っていた。
霧と雨が混ざって、
世界が一枚の薄い膜に包まれているみたいだ。
冬真は、カーテンの隙間から
高台を見た。
普段は森しか見えない。
木の影と、曖昧な稜線だけ。
でも台風が来ると、
そこに“何か”が見える。
見える、というより――雨が見せる。
雨粒が斜めに走り、光を拾い、
遠景を“線”に整列させる瞬間がある。
その瞬間だけ、
霧の向こうに黒い輪郭が浮く。
大きな廃墟。
輪郭は揺れて、
すぐに溶け、また現れる。
まるで雨がレンズになって、
一瞬だけ別の世界を焦点に
入れるみたいに。
「兄さん、見える? ほら、あそこ」
智也はテレビの音を落としたまま、
リュックの口を締めていた。
その隙間から、花が少し見えた。
色ははっきりしない。
霧のせいか、朝の光のせいか。
冬真は首を傾げる。
「それ、何に使うのかな?」
智也は短く息を吐いた。
「……行くぞ」
冬真は頷き、
準備していたリュックを背負った。
懐中電灯、予備電池、非常食。
ペットボトルのジュース。
玄関を出ると、
霧が肌にまとわりついた。
冷たいのに、湿った生ぬるさがある。
雨は弱い。けれど空気は重い。
吸い込むと喉の奥が濡れるようだった。
高台へ向かう坂道は、
いつもより遠く感じた。
同じ塀が二度見えた気がして、
冬真は一瞬立ち止まる。
振り返ると霧で道が溶けていて、
自分がどこを通ってきたのか確信が持てない。
「……変な天気だな」
冬真が呟くと、
霧の向こうで雨の線が揃い、
高台の上が一瞬だけ鮮明になった。
廃墟の屋根。破れた窓。崩れた壁。
そこに“建物”が立っている。
次の瞬間、
雨脚が乱れて輪郭は森に溶ける。
見えたのか、見間違いか。
霧が、そういう判断を奪う。
「10年前も行ったね。
あの時は、ドキドキしたね」
冬真は、軽く言ってみた。
軽く言わないと、
言葉が重たくなりそうだった。
「3年前は、行かなかったね」
智也は歩みを止めない。
坂道を登りきる頃、雨は強くなり、
風がうねり始めた。霧の膜が厚くなる。
廃墟は見えたり見えなかったりする。
見えない時間のほうが長いのに、
冬真の脳裏には「ある」
という印象だけが残っていく。
そして――唐突に、世界が止まった。
風が、ぴたりと止む。
雨が、止む。
霧だけが、ゆっくり漂う。
台風の目。
不自然な静けさ。
遠くの木々の葉が
擦れる音まで聞こえる。
その静けさの中で、
高台がはっきり見えた。
霧が割れて、空気が澄み、
輪郭が“固定”される。
廃墟が、そこにある。
さっきまで
“見えたり消えたり”していたのに、
今は疑いようがない。
壁の穴、窓枠の欠け、黒ずんだ屋根。
存在が確定した途端、
冬真の胸の奥がひやりと冷えた。
「……来たな、あの時と同じだな」
智也の声が小さく落ちる。
冬真は頷き、足を踏み出した。
扉は鍵がないのに音もなく開いた。
中は広い。湿気は少ないのに、冷たい。
そして、入ってすぐ――大きな置時計があった。
針は正確に十時を指している。
その瞬間、鐘が鳴った。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
十回。
腹の底に落ちるような重い音。
木材の継ぎ目が、微かに軋む。
冬真は笑ってしまいそうになった。
歓迎されているような、
咎められているような。
どちらとも取れる音だった。
「兄さん、僕、怖くないからさ。
一人で二階を探検してくるよ」
冬真は懐中電灯を掲げ、
ペットボトルのジュースを
軽く振って見せた。
「広そうだし、面白そう」
智也はリュックを背負い直し、
置時計から視線を外さない。
冬真はそれを
「一階を調べるつもりなんだろう」
と解釈して、階段へ向かった。
二階は広かった。
廊下が長く、部屋が多い。
扉が並び、どの部屋も似た暗さで、
似た匂いがする。
一部屋ずつ覗く。
空の棚。剥がれた壁紙。
床に転がる小さなガラス片。
何もないのに、
何もなさが整いすぎている。
生活の痕跡がないというより、
生活が“削ぎ落とされている”。
冬真は喉の渇きに気づいた。
ペットボトルを開けて口をつける。
……味がしない。
甘さも酸っぱさもない。
舌に当たる冷たさだけが、妙に鮮明だ。
冬真はもう一口飲む。
やっぱり無味。
喉を通る液体の感触だけが残る。
「……え?」
その瞬間、置時計の音が上からも
聞こえた気がした。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
十一回。
「もう一時間……?」
冬真は廊下の窓を見た。
外はまだ明るい。
台風の目の静けさは
続いているようにも見える。
時間だけが、
先に進んだような気分だった。
探検を再開する。
部屋を覗き、廊下を進み、
また部屋を覗く。
特に何もない。
なのに、落ち着かない。
怖いものがないはずなのに、
怖さだけが増えていく。
説明できない“違和感”が、
胸の内側を少しずつ削る。
廊下の突き当たりの部屋。
扉が半分だけ開いている。
冬真はそこへ入って、足を止めた。
床に、ペットボトルが落ちている。
飲みかけ。
ラベルも同じ。
自分が持っているものと、
よく似ている。
冬真は一瞬だけ眉をひそめたが、
「誰かが持ち込んだのか」
と考えてしまった。
考えてしまえること自体が、
どこかおかしい。
ここは廃墟で、
今さっき現れたはずなのに。
冬真はペットボトルを拾わず、
部屋を出た。
気にしないほうがいい。
そういう直感があった。
廊下を歩いていると、
背中に気配が落ちた。
冷たいとか、温かいとかではない。
ただ、空間に重さが増えた。
冬真は、ゆっくり振り返った。
黒い影があった。
人の形に近い。
けれど輪郭が定まらず、
光を吸うように揺れている。
襲ってこない。近づいてもこない。
ただ、そこに立っている。
見ている。
目がないのに、見られている。
冬真は喉の奥がきゅっと締まった。
息を吐いたはずなのに、
吐息が白くならない。
「……やだ」
影は動かない。
それでも冬真は怖くなり、走った。
廊下を曲がり、
部屋を飛び出し、階段へ。
足音が軽い。
自分の体が床に触れていないみたいに軽い。
心臓は鳴っているのに、
体の芯が冷えない。
一階へ降りる。
置時計が視界に入った。
針は十一時台を指している。
「兄さん!」
冬真は呼んだ。
返事がない。
けれど今は、返事がなくても
不思議に思う余裕がなかった。
冬真は一階の奥へ走る。
そこに、地下へ降りる階段があった。
暗い穴。
冷気が、吐息のように上がってくる。
冬真は立ち尽くした。
この階段を、知っている。
「……10年前」
口にした瞬間、記憶がひっかかる。
薄い膜が剥がれるように、
映像が一枚ずつ浮かぶ。
台風。
霧。
廃墟。
地下へ降りる足音。
懐中電灯の光の円。
濡れた床。
智也の声。
「気をつけろ」
そして――
滑った感覚。
足が空を掴む。
頭の後ろに走る衝撃。
視界が白くなる。
冬真は息を呑んだ。
息を呑んだのに、
肺が動いた感覚が薄い。
「……僕、帰った……よね?」
言葉が宙に浮く。
返ってこない。
代わりに、
背後から微かな衣擦れの気配がした。
冬真は振り返らない。
振り返ったら、
また影がいると分かっていた。
分かっているのに怖い。
地下へ降りた。
下には智也がいた。
リュックを下ろし、
花と線香を取り出している。
その所作は静かで、
丁寧で、儀式のようだった。
冬真は喉が乾いたのを思い出し、
ペットボトルを見た。
手の中にあるそれが、
本当に自分のものなのか、
急に分からなくなる。
智也は床の一角
――黒ずんだ場所の前に膝をついた。
そこは、
他の床よりほんの少しだけ色が濃い。
濃いのに、理由が分からない。
智也は花を置き、線香に火をつけた。
煙が細く上がり、天井へ溶ける。
そのとき、智也が声を漏らした。
泣き声ではない。
泣く前の、壊れそうな声。
「……冬真」
その名前が、冬真の胸を貫いた。
呼ばれた瞬間、記憶が“合う”。
ここだ。
ここで。
自分は。
智也の独り言が続く。
「ごめん……」
「俺が誘ったのに」
「俺が、ちゃんと見てなかったから」
「……ここで、おまえが……」
言葉の最後が、嗚咽に変わった。
智也の肩が震え、
床に落ちる涙が暗い点になる。
冬真は、
ゆっくりとその黒ずんだ床を見た。
自分の視界が一瞬、
十年前の色に変わる。
懐中電灯の円。
濡れた床。
滑った足。
倒れる自分。
叫ぶ兄。
「……あ」
声が漏れた。
でもそれは“驚き”じゃない。
やっと、
辻褄が合ってしまった声だった。
置時計が鳴った気がした。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。ボン。
十二回。
正午。
外で風が戻る音がした。
雨が再び走り始める。
霧の膜が厚くなる。
台風の目の静けさが、終わる。
冬真は智也の隣にしゃがみ込み、
花と線香を見つめた。
煙の向こうで、兄の横顔が濡れている。
「兄さん……」
声は小さかった。
届くかどうかは分からない。
それでも言わずにいられない。
「ごめん」
「僕、帰ったって……思ってた」
「ずっと、一緒に家に帰ったって」
冬真は、自分の手を見る。
指先が少し透けているように見えて、
慌てて拳を握る。
握った感触が薄い。痛みが薄い。
それでも、
兄の涙だけははっきり見える。
それだけが、
この場所でいちばん現実だった。
「……生きて」
冬真は言った。
「兄さん、生きて」
その言葉を言った瞬間、
胸の奥が軽くなった。
ほどける。
重たい糸が、静かに解けていく。
外で雨が“レンズ”になり、
遠景を線に整列させる。
廃墟の輪郭が、霧の向こうで揺れる。
揺れて、薄くなって、森に溶けていく。
智也は泣きながら、床に頭を下げた。
冬真はそれを見守り、
最後に一度だけ置時計を見上げた。
針は動かない。
止まったのではなく、
最初からそこに“あった”だけのように
見える。
そして冬真は、雨の膜の向こうへ、
静かに沈んでいった。
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最後までお読みいただき
ありがとうございました。
台風の目が開く廃墟 影守 玄 @Kage01
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