第5章「最初の施工——墨出しの奇跡」

工事は、墨出しから始まる。


 建吾がこの世界に来てから十日。北東塔の修繕工事が、いよいよ本格的に動き始めようとしていた。


 早朝、建吾は北東塔の一階に立っていた。


 住人は全員退去させた。荷物も運び出した。がらんとした空間には、埃っぽい空気と、壁の亀裂から差し込む朝日だけが残っている。


 建吾の周囲には、十数人の職人たちが集まっていた。


 石工、木工、左官——この城で働いていた職人と、リーゼロッテが近隣から呼び寄せた者たちだ。全員が、建吾を懐疑的な目で見ていた。


 よそ者の若造が、何をやろうというのか。


 その視線は、はっきりとそう言っていた。


「今日から、この塔の修繕工事を始める」


 建吾は、職人たちの前に立って言った。


「まず最初にやることは、墨出しだ」


「墨出し?」


 年配の石工が、眉をひそめた。


「何だそれは。聞いたことがないぞ」


「基準線を引く作業だ。これがないと、まっすぐな壁は作れない」


「壁なら、目で見て合わせればいい。わしらはずっとそうしてきた」


 建吾は、内心でため息をついた。


 予想通りの反応だ。この世界の職人たちは、経験と勘で仕事をしている。それは間違いではないが、精度に限界がある。


「見せた方が早いな」


 建吾は、腰に下げていた道具袋から、昨夜作った道具を取り出した。


 墨壺だ。


 この世界には墨壺が存在しなかった。建吾は、木と糸と墨汁で、自分で作った。


 構造は単純だ。容器の中に墨を含ませた綿を入れ、そこに糸を通す。糸を引き出すと墨が付着し、それを床や壁に弾くことで直線を引ける。


 日本では、大工なら誰でも知っている道具だ。


「これを使う」


 建吾は墨壺を見せた。職人たちは、見慣れない道具に首を傾げている。


「まず、基準点を決める」


 建吾は床の一点に印をつけた。それから、部屋の反対側まで歩き、もう一点に印をつけた。


 この二点は、建吾が作った水準器で確認した「水平な点」だ。


「この二点を結ぶ線が、基準線になる」


 建吾は墨壺の糸を伸ばし、一方の端を助手に持たせた。助手は、リーゼロッテが付けてくれた若い従者だ。名をエルンストという。


 糸を二点間に張る。


 ピンと張った糸の中央を、建吾は指で摘まみ上げた。


 パチン。


 糸が床を弾き、墨の線が残った。


 まっすぐな、黒い線。


 職人たちは、その線を見て目を見開いた。


「なんだこれは……」


「こんなにまっすぐな線、見たことがない」


「魔法か?」


「魔法じゃない」


 建吾は言った。


「道具と、技術だ」


 墨出しの作業は続いた。


 最初の線を基準に、そこから直角の線を引く。さらに、壁の位置を示す線、柱の位置を示す線、開口部の位置を示す線。


 床一面に、網の目のような墨の線が広がっていく。


 建吾は、自分の「空間把握」能力をフル活用していた。


 この能力は、部屋の寸法を目視で正確に測れるというものだ。派手な効果はないが、墨出しには極めて有用だった。建吾が「ここ」と指差す場所に線を引けば、それは寸分の狂いもない正確な位置になる。


 職人たちは、最初は懐疑的だった。


 しかし、建吾が引いた線に従って作業を進めるうち、彼らの表情は変わっていった。


 壁の位置を示す線。柱の位置を示す線。それらが完璧に直角で交わり、完璧に平行に並んでいる。


「これは……」


 年配の石工が、床の線を見下ろしながら呟いた。


「こんな精度で線を引けるのか」


「この線に沿って石を積めば、壁は必ず垂直になる」


 建吾は言った。


「目で見て合わせる必要はない。線を信じて、線に従えばいい」


 石工は、長い間床の線を見つめていた。


 それから、顔を上げた。


「……教えてくれ。この道具の使い方を」


「ああ。教える」


 建吾は頷いた。


 これが、第一歩だ。


      ◇  ◇  ◇


 墨出しが完了した後、本格的な工事が始まった。


 北東塔の問題は、大きく分けて三つあった。


 一つ目は、壁の亀裂。これは構造的な問題で、単に埋めるだけでは解決しない。


 二つ目は、基礎の沈下。塔全体が北東に傾いているのは、この沈下が原因だ。


 三つ目は、梁と壁の接合部の緩み。ここから雨水が侵入し、木部の腐食を引き起こしていた。


 建吾は、これらを順番に解決していく計画を立てた。


「まず、基礎を固める」


 建吾は、地面に穴を掘るよう指示した。


 塔の北東側、地盤が軟弱だと思われる場所だ。


 掘り進めると、建吾の予想通り、水を含んだ粘土層が現れた。この層が重みで圧縮され、塔が沈んでいたのだ。


「この粘土を取り除いて、砂利と石で埋め直す」


 石工たちは、建吾の指示に従って作業を進めた。


 穴を掘り、粘土を取り除き、砂利を敷き詰める。その上に石を積み、さらに砂利を入れて突き固める。


 地味な作業だ。見た目には何も変わらない。


 しかし、これが建物の土台を支える。


「なあ、ケンゴ」


 石工の親方——ヘルマンという名だ——が、作業の合間に声をかけてきた。


「お前さん、どこでこんな技術を学んだんだ」


「遠い国だ」


「その遠い国では、こういう工事が当たり前なのか」


「当たり前……かどうかはわからない。だが、俺が教わった技術は、こういうものだった」


 ヘルマンは、しばらく黙って建吾を見ていた。


「……俺は三十年、石を積んできた。親父の代から、ずっとそうしてきた。だが、こんな工事は初めてだ」


「そうか」


「地面の下を掘って、砂利を入れる。そんなことをして、本当に建物が直るのか」


「直る」


 建吾は断言した。


「建物が傾くのは、地盤が弱いからだ。地盤を強くすれば、傾きは止まる。これ以上悪化しなくなる」


「……信じていいんだな」


「信じろ。俺の仕事を」


 ヘルマンは、深く息を吸い込んだ。それから、頷いた。


「わかった。信じてやる」


 基礎工事は、一週間かかった。


 その間、建吾は同時に他の作業も進めていた。


 壁の亀裂には、まず仮の補強を施した。亀裂に楔を打ち込み、これ以上広がらないようにする。本格的な修復は、基礎が安定してからだ。


 梁と壁の接合部には、防水処理を施した。この世界には、松脂と獣脂を混ぜた塗料があった。これを接合部に塗り込むことで、雨水の侵入を防ぐ。


 日々の作業の中で、建吾は職人たちに施工管理の基本を教えていった。


 工程表の作り方。材料の管理方法。品質のチェックポイント。


 最初は戸惑っていた職人たちも、少しずつ理解し始めた。


「なるほど……事前に計画を立てておけば、材料が足りなくなることがないのか」


「そうだ。行き当たりばったりで作業すると、必ずどこかで無駄が出る」


「これまでは、足りなくなったら買いに行っていた。その間、作業が止まっていたな」


「それを防ぐために、計画を立てる」


 建吾は、元の世界での経験を思い出していた。


 現場代理人の仕事は、こういうことの繰り返しだった。職人に指示を出し、材料を手配し、工程を管理する。地味で、目立たない仕事だ。


 しかし、この仕事がなければ、現場は動かない。


 ここでも、同じだった。


      ◇  ◇  ◇


 工事が始まって二週間。


 リーゼロッテが、現場を見に来た。


「ケンゴ様」


 彼女は、変わりゆく北東塔を見上げながら言った。


「素晴らしいですね。こんなに早く、ここまで進むとは思いませんでした」


「まだ始まったばかりだ」


 建吾は、土埃にまみれた顔で答えた。


「基礎はできた。これから、壁の本格的な修復に入る」


「壁の修復……どのように行うのですか」


「まず、亀裂を広げる」


「広げる?」


 リーゼロッテは、驚いた顔をした。


「なぜ、広げるのですか」


「亀裂の奥に、新しい材料を詰め込むためだ。表面だけを塞いでも、中が空洞では意味がない」


 建吾は、壁の亀裂を指差した。


「亀裂を広げて、中を掃除する。それから、砕いた石と漆喰を混ぜたものを詰め込む。最後に表面を塞ぐ。こうすれば、亀裂は完全に埋まる」


「なるほど……」


 リーゼロッテは、感心したように頷いた。


「ケンゴ様は、本当に建物のことをよくご存じですね」


「これが俺の仕事だからな」


「仕事……」


 リーゼロッテは、少し寂しそうな表情を浮かべた。


「私には、そのような専門の技術がありません。領主として何をすべきか、いまだに手探りの状態です」


「領主には、領主の仕事がある」


 建吾は言った。


「俺は壁を直すことはできるが、人を纏めることは苦手だ。税を集めたり、法を作ったりすることはできない」


「それは……」


「お前がやっているのは、そういう仕事だろう。領地を治め、民を守る。俺にはできない仕事だ」


 リーゼロッテは、建吾の言葉を聞いて目を見開いた。


 それから、微かに笑った。


「ありがとうございます、ケンゴ様。少し、気持ちが楽になりました」


「そうか」


「はい。……私も、私の仕事を頑張ります」


 リーゼロッテは、改めて北東塔を見上げた。


「この城が直ったら、民の暮らしも少しは良くなるでしょうか」


「直接は変わらないかもしれない。だが、城が安全になれば、お前が領主の仕事に集中できる。そうすれば、間接的に民の暮らしも良くなる」


「そうですね。……そうですね」


 リーゼロッテは、決意を新たにしたような表情で頷いた。


 その時、城門の方から馬の蹄の音が聞こえた。


 騎馬が数騎、城に入ってくる。


 リーゼロッテの表情が、わずかに緊張した。


「あれは……」


「誰だ」


「隣領の使者のようです。紋章が見えます」


 使者たちは、中庭で馬を降り、こちらに向かってきた。


 先頭の男が、リーゼロッテに向かって一礼した。


「グライフェンベルク辺境伯様でいらっしゃいますか」


「はい、私がリーゼロッテです」


「ヴァイスベルク伯爵家より、書状をお届けにまいりました」


 使者が差し出した書状を、リーゼロッテは受け取った。


 封を切り、中を読む。


 彼女の表情が、読み進めるにつれて変化していった。最初は警戒、次に驚き、最後に——困惑。


「ケンゴ様」


 リーゼロッテが、建吾に書状を見せた。


「これを、ご覧ください」


 建吾は書状を受け取り、目を通した。


 この世界の文字は、転生時に理解できるようになっていた。だから、内容は読めた。


 書状の内容は、こうだった。


 ヴァイスベルク伯爵家の城に、深刻な雨漏りが発生している。聞けば、グライフェンベルク領に優れた建築技術を持つ者がいるとのこと。ぜひ、その者を派遣してほしい。報酬は弾む。


「……俺を、よこせと言っているのか」


「そのようです」


 リーゼロッテは、複雑な表情を浮かべていた。


「もちろん、ケンゴ様のご意思を尊重します。お断りいただいても構いません。ただ……」


「ただ?」


「ヴァイスベルク伯爵家は、この地域で最も力のある貴族です。彼らとの関係を良好に保つことは、我が領地の安全にも関わります」


 建吾は、書状を見つめながら考えた。


 北東塔の工事は、まだ途中だ。しかし、最も危険な段階は過ぎた。基礎は固まり、これ以上の沈下は起きない。残りの作業は、ヘルマンたちに任せても大丈夫だろう。


 それに——


 他領の城を見ることは、この世界の建築技術を学ぶ良い機会になる。


「行ってもいい」


 建吾は言った。


「ただし、条件がある」


「条件……ですか」


「報酬の一部を、グライフェンベルク領に入れてくれ。この城の修繕費用に充てる」


 リーゼロッテの目が、驚きで見開かれた。


「それは……よろしいのですか」


「俺は飯と寝床があれば十分だと言った。余った金は、お前の領地のために使え」


「ケンゴ様……」


 リーゼロッテは、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、有効に使わせていただきます」


 建吾は頷き、北東塔を振り返った。


 職人たちが、作業を続けている。墨の線に沿って、石を積み、木を組み、壁を作っていく。


 俺の技術が、この世界に広がっていく。


 その実感が、建吾の胸に静かに広がった。


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