甦れ!我ら、志留辺(しるべ)高校天気倶楽部!

斬条 伊織

甦れ!我ら、志留辺(しるべ)高校天気倶楽部!

 生徒会室は、やけに広く感じた。

 長テーブルがコの字に並び、その内側に空野恒一そらの こういちは一人で立たされていた。

 コの字の外側には、生徒会役員たちが等間隔に座っている。全員が無言で、資料らしき紙に目を落としているのが、余計に空野の胃を締め付けた。


 正面。そこに座っているのが、生徒会長だった。

 深山冥みやま めい

 長い黒髪を背中に流し、背筋をぴんと伸ばしている。表情は穏やかだが、穏やかなまま人を追い詰めそうな静けさがあった。


 深山は一度、手元の書類に視線を落とし、それから顔を上げた。


「状況はわかりましたか?」


 深山は確認するように言った。責めるでもなく、急かすでもなく、ただ事実を並べる前の声音だった。


「……わ、わかりました」


 そう答えるしかなかった。

 深山冥は小さくうなずき、手元の書類に視線を戻した。


 生徒会室に、短い沈黙が落ちた。

 時計の音がするわけでもないのに、時間だけが無駄に流れていく気がした。空野は次に何を言われるのかを待ちながら、喉の奥に溜まった空気をゆっくり吐き出す。


「あ、あの」


「もう結構ですわよ」


 深山冥は、書類から目を上げることなく淡々と言った。

 あまりにもあっさりした声音に、空野は一瞬、聞き間違えたのかと思った。


「あ、はい」


 深山はそれ以上、何も付け加えない。

 空野は遅れて理解した。それだけ答えると、もう他に選択肢はなかった。小さく頭を下げ、コの字の内側から抜け出す。

 生徒会役員たちは、誰一人として顔を上げなかった。


 生徒会室の扉を閉めた瞬間、空野は肩を大きく落としながら生徒会室を出た。


 廊下は、妙に明るかった。さっきまでの重苦しい空気が嘘のように、窓から入る光が床に反射している。その落差に、空野は余計に現実感を失いかけていた。


「で、どうだったの?」


 声をかけてきたのは風間咲だった。腕を組み、空野の顔を一目見て、だいたい察したらしい。


「それが……」


 言葉を探すように、視線を泳がせる。


「明確な活動実績が見られないと、予算は出せない、って」


 廊下の空気が、少しだけ冷えた。


「つまり?」


 日向が確認するように聞く。

 空野は一度息を吸ってから、重い声で言った。


「……廃部、ってこと」


「……そっか」


 日向は短く答えた。


(とは言ったものの)


 胸の内で続ける。


(正直に言えば、俺自身はこの天気倶楽部に、そこまで強い思い入れがあるわけじゃないしなあ)


 幼稚園からの腐れ縁で、空野に誘われて入った。それだけだ。


「まあ、しょうがないか」


 つい、口に出してしまう。


「でも」


 空野が顔を上げた。


「実績があれば、存続の可能性はあるんだ」


「実績って?」


 雨宮澄あまみや すみが静かに尋ねる。

 空野は少しだけ言いにくそうに頭をかいた。


「それがさ。これから、生徒会の人が来て説明するって」


 その一言で、全員の視線が集まった。

 廃部。でも、まだ終わりじゃない。空気が、ほんの少しだけ動いた。


 少しだけ時間が空いた。十分くらいだったと思う。長くも短くもない、何をしていいのか分からない時間だ。


 放課後の校舎は相変わらず騒がしかった。

 廊下の向こうから運動部の掛け声が聞こえる。吹奏楽部の音が、どこかで音程を外しながら伸びてきた。


(……うちの部だけ、止まってる気がするな)


 日向がそんなことを考えていたときだった。


 ガチャリ、と音がした。部室の扉が開く。

 立っていたのは生徒会長の深山冥だった。

 その後ろに、銀縁の眼鏡をかけた細身の男子生徒が一人。手には書類の束。秘書だろう。


「お待たせしました」


 深山はそう言って、当然のように部室へ足を踏み入れた。

 温度が一段階下がる。


 深山は一歩進み、振り返って言った。


「あなたは外で待っていてください」


 秘書の男子が目を瞬かせた。


「え……いや、しかし会長。説明の補足なども――」


 深山はただ、静かに視線を向ける。


「……聞こえませんでしたか?」


 声音は柔らかい。だが、それは問いではなかった。

 秘書役は、はっきりと息を詰まらせた。


「し、失礼しました」


 そう言って慌てて頭を下げると、部室の外へ下がる。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 部室に残ったのは深山冥と、天気倶楽部の五人だけだった。

 思わず背筋を伸ばした四人に合わせて、日向もそれらしくキリッとしてみせた。


 深山冥は部室の中をゆっくりと見回した。

 壁。机。窓際に置かれた湿度計。貼りっぱなしの天気図。


 その視線が一周したところで、空野がはっと我に返る。


「あっ……」


 慌てて近くの椅子を引いた。


「み、深山、あ、いえ。深山会長、こちらへ」


 声が一瞬、裏返る。

 深山は何も言わず、示された椅子に向かう。動きは静かで、急ぐ様子もない。

 椅子に腰を下ろすと、深山は自然な所作で背筋を伸ばした。


 空野をはじめ、天気倶楽部の五人もそれぞれ椅子に座った。


 深山冥は軽く指を組んだ。


「では」


 いよいよ、本題だった。


「昨シーズン、先輩方の依頼達成率は84パーセント。あなたたちの代になってからは50パーセント。そうですね?」


「は、はあ……」


「でもさ」


 風間咲が割って入る。


「冥っち、50パーってすごくない?ニブイチだよ」


「依頼件数は二件。そのうち一件は、依頼人が途中で諦めています」


「……じゃあ、実質100パー?」


 深山は静かに咲を見た。


「……ご、ごめんなさい」


「そういうことを言っているから、かつて栄華を誇った『志留辺(しるべ)高校天気倶楽部』がここまで堕落してしまったのです」


 深山はそれだけ言って、視線を戻した。

 咲は深山に見つからないように、皆のほうへ小さく手を合わせた。――ごめんね、の仕草。


「ですが」


 深山冥は、そこで一度言葉を切った。


「生徒会にも慈悲の心はあります。あなた方にラストチャンスを与えましょう」


「具体的には?」


 日向が思わず聞いた。

 深山は静かに視線を向ける。


「達成した一件。それと同類の依頼です。これなら、今のあなた方でも活路を見いだしやすいでしょう」


 五人の視線が交錯した。


「っていうと……」


 誰ともなく呟いた。

 天瀬涼太のアフロが、わずかに揺れた。


「……三組の時田修と、二組の石平ひかりの件か」


「ええ」


 深山は即座にうなずく。


「あなた方の唯一の実績です」


 淡々と、事実だけを告げる。


「同種の依頼をもう一件達成できれば――天気倶楽部の存続を認めましょう」


 部室の空気が、静かに張りつめた。


「話はわかりましたけど」


 空野がおそるおそる手を挙げた。


「依頼人は……どうするんですか?そう都合良く見つからないと思うけど」


 深山は、ほんの一瞬だけ黙った。


「……います」


「どこに?」


 日向が聞く。


 深山は視線を泳がせ、わずかに頬を赤らめる。


「……こ、ここに」


 一拍。部室の空気が、理解に追いつくまで止まった。


「め、冥ちゃん……いえ」


 雨宮澄が言い直す。


「会長が、依頼人……ですか?」


 深山冥は、こくりとうなずいた。


 その様子を見て、風間咲が一瞬、にやりと口元を緩め――慌てて両手で顔を戻した。


「で?」


 平静を装って聞く。


「相手は誰ですか?」


「……サッカー部の、藤屋君です」


「……誰?」


 日向が首をかしげる。


「知らんな」


 天瀬涼太も即答だった。視線が交わる。誰一人、心当たりがない。


「い、一年生です」


 深山が小さく付け足す。


「――年下!?」


 五人の声が見事に揃った。部室の空気が、一気にひっくり返った。


 深山冥は顔を真っ赤にしたまま、視線を床に落としていた。

 言葉がない。部室に気まずい沈黙が流れる。


「……コホン」


 部長の空野が、わざとらしい咳払い一つで無理やり空気を整える。


「では、依頼内容を確認します。三年一組・深山冥さんの、一年五組・藤屋明君への告白成功に最適な日を選定する。――で、よろしいですか?」


 深山冥は真っ赤な顔のまま、


 こくり。

 こくり。


 小さく、何度もうなずいた。



「いやー、びっくりだねぇ」


 依頼人が去ったあと、最初に口を開いたのは咲だった。


「まさか、あの冥っちがさ」


 その一言に、全員が無言でうなずく。びっくりだ。本当にびっくりだ。


「けど、チャンスには違いない」


 天瀬涼太がアフロを揺らしながら言った。


「そうだな」


 空野が部長の顔に戻る。


「じゃあ、さっそく調査を始めよう」


 空野は指を折りながら指示を出す。


「咲と直人は、藤屋君の情報収集。涼太と雨宮は、二週間分の天気分析を頼む」


「お前は?」


 日向が聞いた。


「俺か?」


 空野は一瞬だけ間を置いてから言った。


「……深山冥を調べる」


「え?」


 四人の声が、きれいに重なった。


「念のためだ。念のため」


 そう言うと、空野はすっと立ち上がり机の前に歩み出た。


「よし、じゃあ行くぞ」


 その言葉に、四人も歩み寄る。自然と円陣の形になった。次々と右手が差し出され、中央で重なる。


 日向は少し遅れて最後に。雨宮の手の上に、そっと自分の手を乗せた。


 空野が息を吸い込み、それから口を大きく開く。


「観測――」


「開始!」


 5人の手が、同時に天井へ突き上がった。



 ◆調査その1:藤屋明の人物観測(担当:日向・咲)


 放課後のグラウンドは夕方の光に包まれていた。

 金網越しに、二人はサッカー部の練習を眺めている。


「……あいつだな」


 日向が顎で示した。


 視線の先で、オレンジ色の光を浴びながらボールを追いかけている一年生がいた。

 汗に濡れた前髪を気にも留めず、黙々と動き続けている。


 藤屋明。


「へぇ……」


 咲が目を細める。


「なかなかのイケメンじゃん」


 それから、少しだけ身を乗り出して続けた。


「っていうかさ。見て、直人」


「なんだ」


「あの子がボール蹴るたびに、あっちの女子グループ、微妙に揺れてる」


 グラウンドの端。フェンス際に集まった女子生徒たちが、声を出すでもなく、ただ同じ方向を見つめている。


 確かに、藤屋がボールを蹴るたび、その視線がわずかに同じ方向へ傾いた。


「一年生でレギュラー、しかもトップ下か。すごいな」


「トップ下ってなに」


「……まあ、中心ってことだ」


「なるほど〜」


 わかったような、そうでないような咲の返事を聞きながら、日向は藤屋を眺めた。


「しかし意外だったな。ミーハーなんだな、メッチャー」


 生徒会長、鉄の女、深山冥。サッチャーになぞらえて人は陰でそう呼んでいる。


「ま、サッチャーも結婚はしてたけどね」


 咲がお菓子を食べながら続ける。


「っていうかさ、直人さ、人の告白とか言ってる場合じゃなくない?」


「は?なんだよ」


 日向は咲を睨んだ。


「ジ〜〜〜」


 そう言いながら、咲はニヤけて日向を見た。


「さっきもさ、手、重ねたとき、ちょっち震えてたじゃん」


「震えてねえよ」


「そう?ま、いいけど」


 ニヤけ顔のまま、咲はターゲットに視線を戻した。


「とりあえずは、今回の依頼に集中だね。澄にもいいとこ見せなきゃだしね」


「関係ねえよ」


「ハイハイ」



 ◆調査その2:告白適正日の気象分析(担当:天瀬・雨宮)


 部室の机いっぱいに、プリントアウトされた天気図と予報資料が広がっていた。

 その中央で、天瀬涼太が腕を組み、静かに資料を睨んでいる。


「……二週間分。こんなところか」


 向かい側で、雨宮澄がノートに何かを書き込みながら顔を上げた。


「はい。気象庁の予報だと、ずっと晴れマークが並んでます」


 涼太は、わずかに眉を動かした。


「……来週は、雨だな」


「え?」


 澄は思わず顔を上げた。


「でも……ほら、全部晴れマークですよ?」


 涼太は机の上の紙には目を落としたまま言った。


「雨宮。君も気象予報士を目指しているんだろう?」


「はい」


「君は気象庁の予報をそのまま伝えるだけの気象予報士になりたいのか?」


 澄は言葉に詰まる。


「それは……」


「僕は違う」


 涼太は静かに続けた。


「気象庁の予報と整合性を取りながら、自分なりの専門的見解を添えて分析結果を出す。それが僕の目指す気象予報士だ」


 少しだけ間を置いて、澄を見る。


「君は、どういう気象予報士になりたい?」


「それは……」


 答えが出ないまま、視線が落ちる。


 涼太は小さく息を吐いた。


「……すまない。君が決めることだったな。僕がとやかく言う話じゃない」


 澄は少し困ったように笑った。


「……ところで」


 話題を変えるように言う。


「どうして、雨なんですか?」


 涼太はしばらく何も言わなかった。


 そして、ふいに自分のアフロを指でつまむ。くい、と引っ張って、ぱっと離した。


ビローン。くるくる。 髪はすぐに元の形へ戻った。


「……この戻り具合だ」


「え?」


「湿度が上がる兆候がある。静電気が出にくくなっている」


 真顔で言い切る。


「間違いない。来週は雨だ」


 澄は数秒、黙ったまま涼太を見つめていた。


「……それ、専門的見解なんですか?」


「もちろんだ」


 涼太は一切、冗談の顔をしていなかった。



 三日後。

 二手に分かれていた調査班が、再び部室に集結していた。

 机の上にはメモ、天気図、付箋だらけのノート。


「……以上が、私たちの二週間予報です」


 雨宮澄が、静かに言った。


 部室に、短い沈黙が落ちる。


 空野は腕を組み、視線を天気図の上で止めたまま、しばらく考え込んでいたが――やがて、顔を上げた。


「わかった」


 そして、はっきりと言い切る。


「直人たちの人物分析と合わせて判断する。今回は――」


 四人の緊張が高まる。


「エンドルフィン・リセット・狐の嫁入りタクティクス作戦でいく」


 空気が一瞬、止まった。


「部長……それは……」


 天瀬涼太が、わずかに眉を寄せる。


「……いいのか?」


 空野は迷いなくうなずいた。


「ああ。涼太、俺はお前と雨宮さんの予報を信じる」


 視線を、今度は日向と咲へ向ける。


「それに、直人と咲の調査もな」


 そして、少しだけ柔らかく笑った。


「だから――お前たちも、俺を信じてくれ」


 部室の空気が、静かに変わった。


 日向は思った。


(……あ、これ、マジなんだな。天気倶楽部って……)


 チラリと澄に視線を向ける。改めて天気図を見つめる瞳が、爛々と輝いている。


(ま、しょうがないか)


 日向は鼻の頭を指でかいた。



 昼休みの部室に、深山冥が立っていた。

 腕を組み、相変わらず背筋は真っ直ぐ。ただし、ほんのり耳が赤い。


 黒板の前には空野。


「作戦名。エンドルフィン・リセット・狐の嫁入りタクティクス作戦」


 堂々と宣言する。


「決行日は来週水曜日。これが天気倶楽部のベストアプローチです」


 深山は短く言った。


「……説明を」


「はい」


 空野はチョークを握り、黒板に書きなぐる。


① エンドルフィン・リセット(生理学的アプローチ)


「水曜はサッカー部のハードトレーニング日です。午後五時、藤屋君の脳内は『エンドルフィン』で満たされている状態になります」


 空野は振り返る。


「簡単に言えば、天然のハイです。この状態の人間は、外部からの好意を拒絶しにくい。心の門が、開きっぱなしになる」


「……なるほど」


 深山は真顔でうなずいた。

 日向は横で(うなずくんだ……)と思った。


② 狐の嫁入り(気象学的アプローチ)


「天瀬と雨宮の分析によれば、この日、上空に不安定な寒気が流入します」


 黒板にぐちゃぐちゃの前線図。


「地表は晴れ。でも局地的な対流で、突然雨が降る。いわゆる――」


「狐の嫁入り!」


 咲が笑顔で合いの手を入れる。


 空野は一歩、近づく。


「晴れという『論理』と、雨という『非論理』の共存。この気象的矛盾は、人の判断力を一時的にバグらせます」


 冥の目が、わずかに見開かれる。


「『え、なんで雨?』と混乱した瞬間、藤屋君の脳の処理能力は天気に奪われる。つまり――告白への防御が遅れる」


 冥は沈黙したまま聞き耳を立てている。

 日向は(完全に詐欺師のプレゼンだな)と思ったが、誰も突っ込まなかった。


③ 視覚的ブースト(物理学的アプローチ)


「さらに午後五時、西日は『レイリー散乱』によって最も赤くなります。波長の短い青い光が散り、赤い光だけが届く現象です」


 チョークが走る。


「雨粒にその光が反射し、あなたの背後には天然の『光のヴェール』が生まれる」


 涼太はきっぱり言った。


「物理学的に――あなたは、一年で最も美しく見える!」


 深山の顔が、完全に赤くなった。


「以上です」


 空野はチョークを置いた。

 部室の空気が、妙に静かだった。


 五人が無言で横一列に並ぶ。


「これで告白成功、間違いなし!」


 五人が笑顔で同時に親指を立てる。


 深山は、しばらくその光景を見つめて――やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。



 作戦当日、水曜日。午後四時五十分。

 旧校舎の屋上。


 フェンスの陰に身を潜めながら、日向と雨宮は中庭を見下ろしていた。


 日向の手には、給水栓から引いた長いホース。

 先端には空野が「広角散水ノズル」と雑にマジックで書いた、ただの散水器具が取り付けられている。


「……日向君、来たわ。藤屋君よ」


 湿度計を握りしめたまま、雨宮が小さく言った。


 渡り廊下を、練習を終えた藤屋明が歩いてくる。肩で息をし、額に汗を浮かべている。


 反対側からは、顔色を失った深山会長。白いブラウス姿で、覚悟を決めたように歩いてくる。


「……なあ、雨宮さん」


 日向はバルブを握りしめたまま、ぼそっと言った。


「これ、いる?バレたら……メッチャーに殺される気がするんだけど」


「たぶん使わない。でも念のためよ」


 雨宮は視線を外さずに言った。


「天瀬君の計算だと、そろそろ本物の『天気雨』が降るはずだから……ほら」


 空を見上げる。

 太陽は眩しいままなのに、ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。


「……来た」


 だが――


「……弱っ」


 日向が思わずつぶやいた。


 雨はあまりにも頼りない。会長も迷って、その場で微妙にフリーズしている。


「微雨ね……これじゃ……」


 雨宮が、下を見つめたまま言った。

 そして、こちらを振り返る。


「日向君。補填(ブースト)よ」


「……え」


「このままだと、会長がただの『変な先輩』で終わっちゃう。……お願い」


 しばらく、日向はホースを見つめていた。


「……わかったよ」


 小さくため息をつき、蛇口を少しだけ回す。


「なあ雨宮さん。なんでそこまで必死なんだ?会長の恋なんて、放っといてもいいだろ」


 雨宮は、空から落ちる雫を手のひらで受け止め、少し照れたように笑った。


「……天瀬君に聞かれたの。どういう気象予報士になりたいんだって」


 日向は黙る。


「それで、思い出したの。私、人を幸せにするための気象予報士になりたいって」


「幸せに?」


「天気って、時々残酷でしょう?でももし、『あの雨のおかげで、大事な人と話せた』って思える瞬間を誰かに届けられたら……」


 雨宮は、そっと言った。


「それって、天気が人を救ったってことになると思うの」


 日向は、言葉を失った。


(……この人、本気なんだ)


 喉の奥が、妙に熱くなる。


「……俺も」


「え?」


「俺も……手伝うよ。天気なんて全然興味なかったけどさ……雨宮さんがそう言うなら、悪くないなって思った」


 目を逸らすと、雨宮の顔がぱっと明るくなった。


「ありがとう、日向君!」


 そして、満面の笑顔で言う。


「じゃあ――お願い!」


「……了解」


 日向はバルブを全開にひねった。


「食らえ、人工・狐の嫁入り!!」


 シュォォォォォォッ!!!


「ちょっと日向君、出しすぎ!それじゃ『狐の水害』だよ!!」


「ノズルが壊れてるんだってこれ!暴れるんだよ!!」


 二人で必死にホースを押さえる。


 フェンスを越えて噴き出した水流は、夕日に反射して巨大な「光のヴェール」となり、中庭の二人に降り注いだ。


 下から悲鳴。

 そして――


「……あ」


 雨宮が、ふと動きを止めた。


 藤屋明が反射的に自分のジャージを脱ぎ、会長の肩にかけていた。

 驚いて顔を上げる会長。

 見つめ合う、二人。


 屋上では、日向と雨宮が肩を並べて、その光景を見下ろしていた。


「……結果オーライ、なのか」


 日向が言う。


 雨宮は、少しだけ微笑った。


「気象学的には、ちょっと失敗だけど」


 そして、静かに続けた。


「人を幸せにする雨には……なれたみたい」


 オレンジ色の光が雨宮の笑顔を照らした。

 日向は手でそっと心臓の鼓動を抑えた。



 放課後の部室。

 机を囲む五人の前に、深山冥が立っていた。

 相変わらず背筋は真っ直ぐ。


「では、生徒会からの最終決議をお伝えします」


 五人は無言で息をのむ。


「天気倶楽部の――三か月分の予算を、承認します」


「え、それって……?」


 と、咲。


「とりあえず、三か月は存続ということですわね」


「よっしゃあああ!!」


 空野がガッツポーズを決め、四人が一斉に沸いた。


「やったじゃん!」

「廃部回避だね!」

「フッ、僕の分析力の勝利だ」


 その横で、日向が小声でぼそっと言った。


「……どうせなら一年分くらいくれてもよかったのに。あんだけ頑張ったんだからさ」


「……日向直人」


 氷点下の声。


 日向がびくりと顔を上げると、深山がキッと睨んでいた。


「生徒会内では反対意見が多数だったのを、わたくしの一存で、なんとかこの予算を捻出したのですのよ」


 一歩、近づいてくる。小鳥を追う鷹の目の如く、眼光が鋭く輝く。


「それをお忘れにならないでいただきたいものですわね?」


「す、すみませんでした……」


 即座に頭を下げる日向。


 満足したのか、深山は小さくうなずいた。


「では、そういうことで」


 くるりと踵を返す。


「ごきげんよう」


 そのまま部室を出ようとして――扉に手をかけたところで、ふと立ち止まった。


 振り返る。なぜか顔が赤い。


「……こ、今回の件は」


 声が、微妙に裏返る。


「くれぐれも……内密に」


「え、内密ってどういうこと?」


 と、咲が首をかしげる。


 深山は視線を泳がせ、数秒葛藤したあと――


「……か、彼が」


「……え?」


「明君が……恥ずかしいから、その……付き合っていることは、しばらく内緒にしておきたいって……」


 言い切った瞬間、耳まで真っ赤になった。


「じゃ、じゃあ、そういうことで!!」


 バタン!


 勢いよく扉を閉め、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 数秒の沈黙。


「……まさか、本当に付き合うとはね」


 最初に口を開いたのは咲だった。ケラケラと楽しそうに笑う。


「いやー、人生何が起きるかわかんないよね」


「フッ……僕の予測どおりだ。愛の熱量が寒冷前線を上回った。極めて妥当な結果さ」


 天瀬は満足げにアフロをなでつけながら言った。


「何言ってんのかわかんないけど、結果オーライだ」


 と、空野。部室に、やわらかな笑いが広がる。


 そのなかで、日向がふと思い出したように言った。


「そういやさ、お前、『深山冥を調べる』って言ってたよな。あれ、結局なに調べてたんだ?」


 空野は、ああ、と小さくうなずいた。


「依頼人の本気度だよ」


「本気度?」


「こっちがいくら最適日を選んでも、依頼人にその気がなかったらどうしようもないだろ」


「なるほど。それで?」


「全く問題なし。本気も本気。ド本気だった」


「そんなの、どうやってわかったの?」


 と、咲。


 空野は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。


「なにそれ?」


「生徒会だより。今月号」


 咲が覗き込む。

 そこには、生徒会長談の欄があり、こんな文章が載っていた。


『明るい校風を守るため、生徒会一同、日々明確な目標を持ち、明快な活動を心がけていきたいと思います。明治以来の伝統ある本校を、より明朗な場所へと導く。それが生徒会長としての私の使命であると、はっきりとここに明示いたします。

 明日も、皆さんにとって明るい一日になりますように』


 咲が、ゆっくり顔を上げた。


「……『明』の字、多すぎじゃない?」


「だろ?」


「……完全に恋じゃん」


 部室が、じわじわとざわつく。


 咲はしばらく固まってから、ぽつりと呟いた。


「……内密にって言ってた割に、モロバレじゃん」


 部室に、今日一番の笑い声が広がった。



 日向はふと、隣にいた雨宮澄を見た。

 彼女は窓際に立ち、外の空を静かに見つめている。


 雲は流れ、夕方の光がガラス越しに淡く差し込んでいた。


「よかったね、日向君」


 振り返った澄の声は、屋上で聞いたときと同じ、澄んだ響きだった。


「ああ。……まあ、よかったな。三か月分だけど」


 日向は照れ隠しに、鼻の頭をかく。


 澄は、ふふっと小さく笑った。



 少し間があって、澄がぽつりと聞いた。


「ねえ、日向君は……どうして天気倶楽部に入ったの?」


「え?」


 一瞬だけ言葉に詰まり、日向は視線を逸らす。


「空野の付き合いだよ。幼稚園からの腐れ縁だし。暇だったし。それだけ」


「……そう」


 澄は、少しだけ寂しそうにうなずいた。


 日向は、その横顔をそれとなく見る。

 なぜか、胸の奥がちくりとした。


「でもまあ」


 思わず、口が先に動いた。


「もう少し……付き合ってやってもいいかなって思ってる。暇だし」


 澄の表情は、ぱっと明るくなった。


「ほんとに?」


「あ、ああ」


「じゃあ次の依頼も、頑張ろうね」


 そう言って笑った澄の顔は、夕方の光よりも少しだけまぶしかった。


 日向は返事をしないまま、窓の外を見た。

 でも口元だけ、ほんのわずかに緩んでいた。

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