第9話 努力の兄、恒一との「絶望的なまでの懸隔」

 外の世界でどれだけ「異常」の片鱗を見せようとも、白石家という特権階級の城壁の内側で、私はただの愛娘であり、恒一の可愛い妹だった。


 恒一は、私をインターナショナルプリスクールに通わせ、特別な環境に置く両親の判断を、鋭い直感で理解していた。


 彼は白石病院グループの正統な後継者としての期待を一身に背負い、日本の名門私立小学校で、地獄のような受験戦争を戦っていた。夜遅くまで机に向かい、何度も何度も同じ漢字を書き取り、計算ドリルを解き、模試の結果に一喜一憂する。


 彼は「努力の天才」だった。そして、努力だけが自分を証明する唯一の手段だと、自分に言い聞かせ続けていた。


「玲奈、プリスクールはどうだ? ……今日も、英語でお話ししたのか?」


 ある週末の午後、恒一が私の部屋にやってきた。机の上には、彼が解けずに放り出した、灘や開成レベルの難解な算数の問題集が散らばっていた。


「うん、楽しいよ。みんなとパズルしたり、お絵描きしたり」


「そうか……。俺は、今日も偏差値が一つ下がった。母さんに顔向けできないよ。……なあ、玲奈。お前はいいな。何も悩んでないみたいで」


 彼は、自嘲気味に笑った。その笑顔には、十二歳の少年が背負うにはあまりに重すぎる、白石家という血脈の重圧が滲んでいた。


 父は神の手を持つ外科統括部長、母は国立大の准教授。そして、妹の私は、何もしなくても世界を理解してしまう「本物の怪物」。


(……お兄ちゃん、そんな顔をしないでくれ。俺はお兄ちゃんのことが大好きなんだ)


 私は、前世の自分を投影せずにはいられなかった。


 どれだけ必死に営業ノルマを追っても、要領の良い同期に一瞬で抜かれ、上司からは「努力の量が足りない」と突き放される日々。恒一が今感じている、壁を越えられない絶望は、前世の私の心臓を何度も締め上げたあの冷たい痛みそのものだ。


 だが、今の私は、彼を救うための「絶対的な力」を持っている。それは同時に、彼のプライドを木っ端微塵にする毒にもなる力だ。


「お兄ちゃん、このパズル、玲奈と一緒にやろう? この三角形、おもしろい形だね」


 私は彼が投げ出していた平面幾何の難問――複雑な補助線を三本引かなければ答えに辿り着けない問題――を指差した。


「玲奈にはまだ早いよ。これは中学受験の最難関レベルなんだ」


「これね、ここにお星さまの橋を架けたら、みんな繋がる気がするの。……ほら」


 私は、わざと「子供の気まぐれな落書き」を装い、解法の急所に、クレヨンで鮮やかな一本の線を引いた。それは、問題の対称性を一瞬で暴き出す、魔法の補助線だった。


 恒一の身体が、電流を流されたように硬直した。


「……そこか。……相似じゃない、回転移動……。……あ。あああ! 解けた! 玲奈、お前……今のは偶然じゃないだろ?」


 彼は猛然とペンを走らせた。正解に辿り着いた彼の顔に、束の間の喜びが宿る。だが、その直後、彼は私を凝視した。


「玲奈、お前は本当にすごいな。……でも、たまに、怖くなるよ。お前がいつか、俺の手の届かない、ずっと遠い場所に行ってしまうんじゃないかって」


 彼は私の頭を撫でたが、その掌は明らかに震えていた。


 私は彼の腰に抱きついた。


(行かないよ。どこにも行かない。俺は、お兄ちゃんの妹でいたいだけなんだ。……このスペックなんて、全部お兄ちゃんにあげられたらいいのに)


 私の願いは、物理法則に阻まれるように空虚に霧散する。


 私の脳は、無情にも恒一の「限界値」を算出してしまっていた。彼の現在のニューロンの伝達速度、ワーキングメモリの容量、ストレス耐性。彼は、一般人としては十分に優秀だが、父や母、そして私のような「世界の解像度が違う側」に到達するための資質を、持って生まれていない。


 その残酷な真実を、私は世界で一番深く理解してしまっていた。そして、兄を助けようと手を差し伸べるたびに、その実力差を本人に残酷に突きつけてしまうという皮肉に、私は一人、静かに絶望した。

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