第8話 身体操作の極地 ―― 体育という名の「幾何学的舞踏」
プリスクールでの「体育(Physical Development)」の時間。それは私にとって、知能を隠すこと以上に苦痛で、かつ神経を研ぎ澄ます「欺瞞」の時間だった。
白石玲奈というこの肉体は、単に柔軟で筋力が適正であるという次元を越えていた。脳の運動野から各筋肉への指令伝達速度が、前世の「俺」とは比較にならないほど高速かつ正確なのだ。
園庭でのミニサッカー。五歳児クラスになれば、男の子たちは野獣のようにボールを奪い合う。
私の目には、ボールが空気を切り裂く際のマヌス効果による軌道の変化、芝生の濡れ具合による摩擦係数の変動、そして少年たちの骨格の動きから予測される「次の0.5秒後の位置」が、高精細なフルCGのシミュレーションのように見えていた。
(……あそこに足を一歩置けば、ボールは私の足元に吸い付く。……右、二歩。そこで重心をあえて左に15度外せば、私は『転んだ非力な女の子』として画面から消えられる)
私は「女の子らしく」ボールを追いかけ、絶妙なタイミングで転んで見せた。膝に少しだけ砂をつけ、うっすらと涙を溜めて母性本能を刺激する。そうすれば、周囲の大人は「運動は少し苦手な、おっとりした玲奈ちゃん」として私をカテゴライズしてくれる。
それが、前世で三十八年間「代替可能な歯車」として生きてきた私にとって、最も精神的な安全を確保できる場所だった。
しかし、その「擬態」という名の安寧が、決定的に崩壊する瞬間が訪れた。
それは、プリスクールの中央に鎮座する、高さ四メートルに及ぶ複雑な大型アスレチック遊具での出来事だった。
一人の少年、クラス一のやんちゃ坊主であるトニーが、最上部のタワーで足を滑らせた。
彼はパニックになり、掴むべき安全バーを掴み損ね、そのまま背中から奈落へと放り出された。
高さは四メートル。下にはマットがあるとはいえ、トニーの身体は空中を回転し、頭部から、あるいは頚椎から落下する絶望的な軌道を描いていた。
教師たちの悲鳴が、空気を切り裂き、時間が止まる。
その瞬間、私の中の「営業マンの卑屈な仮面」が、内側からの圧力で粉々に砕け散った。
思考よりも早く、身体が「生存の解」を選択した。
(――間に合う。ベクトルは北北西へ45度。踏み込み、最大出力)
私は自分でも信じられない爆発的な加速で地面を蹴った。五歳児の脚力ではない。筋肉の繊維一本一本が、精密機械のように協調し、大気を蹴り上げた。
私はアスレチックの支柱を一気に駆け上がり、宙でトニーの小さな身体を抱き寄せた。
重力と落下のエネルギー。私は空中で自らの身体を旋回させ、トニーを上に乗せる形で、自らがクッションとなるよう身を翻した。
着地。衝撃を骨ではなく筋肉の連動で分散させるための、極限の受け身。
私の身体は、物理法則を完璧にトレースし、トニーを無傷で抱えたまま、砂場の上を数メートル滑って静止した。
プリスクールの園庭に、真空のような静寂が訪れた。
トニーの震える泣き声が、ようやく止まっていた時間を動かした。
「……れ、玲奈? 今……何が起きたの?」
担任のサラが、腰を抜かした状態で這い寄ってくる。
私は泥を払い、何事もなかったかのように、いつもの「守られるべき玲奈ちゃん」の顔を作ろうとした。
「……わかんない。……トニーくん、あぶないと思ったの。玲奈、こわかったよぅ」
だが、誤魔化しは効かなかった。
サラの瞳に映っているのは、「勇敢な子供」への称賛ではなく、あまりに美しすぎる無駄のない動きを目の当たりにした人間の、本能的な「忌避感」だった。
その日、私の連絡帳には、「玲奈ちゃんには、驚異的な身体の連動性と、危機における超人的な判断力が備わっています。我々の手に余る才能かもしれません」という、両親への隠しきれない畏怖が綴られた。
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