第34話


 と言って口づけをひとつ。

 夫にキスされるとエリーザベトの心はいつでも新婚の頃に戻るようだ。

 ソフィアが笑い混じりに幼児語で何かをうさぎのぬいぐるみに話しかけた。


「街の真ん中に市庁舎、その周りには広場だよ。広場では毎日朝市が開かれる。城壁は堅牢で、常に駐留軍人が怪しい人が入ってこないように厳しく見張っているから、ママもソフィアも安全だよ」

 彼はソフィアの頬をさすりながら歌うように続けた。

 娘に故郷の話ができるのが、この上ない喜びだと夏の空の目が輝く。


「レーレン河ほど大きくないけどルスヴィアにも河がたくさんある。市場にやってくる野菜や果物、豚さんや牛さんのお肉は河に浮かんだ船からやってくるんだ」

「にわとりしゃんは?」

「鶏さんは、近所の農家の人が飼っているから。欲しくなったら彼らに頼めばすぐにいくらでも用意してくれるさ」

 エリーザベトはソフィアと一緒になって夫の話に聞き入った。

 あの頃の自分はルスヴィアについて何を学ぼうとしていただろうか?

 ルスヴィアに流れる河川の名前さえ、エリーザベトは正しく答えられないだろう。


 ――これから学び、あの土地を故郷にしたいと望んでも、許されるだろうか?


「ルスヴィアは木の細工物でも有名だ。ルスヴィア人は手先が器用だからな。それから、教会。一番大きい教会は聖歌隊が定期的に音楽会をするんだ。よそから楽団や劇団がやってきて劇をすることもある。礼拝は豪華なものだよ、ソフィア。たくさんの絵と像に描かれた天使が君を愛してくれるだろう」

「レーレンのよりおっきいの?」

 ソフィアは無邪気に聞いた。


 マティアスは一瞬、考え込み、

「まあ、レーレン修道院ほどではない……」

 と唇を尖らせる。

 エリーザベトは彼が大規模な街の改革を始めると宣言するのではないかとひやひやした。


 夕食を終え、寝入ったソフィアを布団に入れると夫婦の間には奇妙な沈黙が満ちる。

 マティアスは明らかに多少の興奮状態にあり、エリーザベトは彼のルスヴィアへの愛の深さに感動していた。

 彼の故郷を愛する気持ちは本物だった。


「娘は小さな天使のようだ」

 彼は満足の唸り声を上げる虎のようにくつろいでいた。

 足を投げ出し、エリーザベトをワインのグラス越しにつくづく眺める。

 その目の青のとろけるような濃さ。


「俺たちの娘はなんて純真で、同い年の子供の誰よりも賢い。そうだろう?」

「あなた、飲みすぎですよ」

「いや、まだまだ」

「マティアス」

「ちぇ」

 彼がグラスを手放すと、エリーザベトは素早くボトルとグラスを回収する。

 マティアスはそんな彼女を眺めるのが楽しいらしい。

 彼はにこにこと笑っていた。ソフィアの寝息が流れていた。


「君とソフィアが無事でよかった」

 と彼はぽつり、呟いた。

 エリーザベトはお茶を淹れようと立ち上がり、彼の額に口づけた。


「ええ、あなたが守ってくださったからです」

「記憶喪失にかからずルスヴィアに戻って君がいないことに気づいたら、俺は多分家を捨てていたよ」

 エリーザベトは茶葉の小匙を手に持ったまま固まった。

 茶葉はパラパラと落ちた。


「ルスヴィアのことは愛しているが、そう未練はなかったから」

 マティアスの声はあくまで優しく、ソフィアの寝息と連動するように静かである。

 彼の手と声と視線がエリーザベトを柔らかく包み込んだ。


「マティアス」

「父から手紙が来たんだ。俺の戦争での功績を評価して、シュヴァルツェン家の家督を正式に譲ると。そのうち皆が君のことを奥様と呼ぶようになる。俺のことは旦那様、ご主人様と呼ぶようになるだろう」

 エリーザベトはマティアスの首を抱きしめ、ダークブラウンの髪の中に指をくぐらせた。

 彼の頭蓋骨は丸い形をしている。

 この内側に彼の魂がある。


「両親は俺より信仰が大事だった。そのうち布教活動の果てに死ぬだろう。死んだと連絡が来ても、俺は悲しむことができないかもしれない」

「マティアス、そんなこと言わないで。そのときは一緒に泣きましょう。いいえ、ソフィアの顔を見に一度戻って来ていただきましょう? そしたらきっとあなたと彼らで長い話をする時間が取れますから」

「君と叔父貴らが長い間話し合いをしたとして、相手のことを許せるか? 愛せるのか?」

 エリーザベトは押し黙った。


「どうして……知ってるの」

「君がいい扱いを受けていなかったことを? 求婚しに最初に訪れた家からすぐに花嫁が出てくるなんて、どうかしている。何も聞かなくても君があの叔父にひどい目に遭わされていたことくらいわかるよ」

 マティアスの頑丈な腕が彼女をいとも簡単に立ち上がらせ、男の膝の上に乗せられてエリーザベトは耳が熱くなる。

 それとは反対に、胸の中には冷たい悲しみがあった。


「俺は君の叔父夫婦を許さないが、何もしない。何かをしたら君が悲しむのを知っているから。そうだろう?」

「……ええ」

 正確には、マティアスが彼らに関わると汚れてしまう気がしていやなのだった。

 エリーザベトは彼の鎖骨に額を預けた。


「同様に、俺は両親のことを許さない。俺を愛さなかったから。許せない……」

「マティアス」

「でも君が俺の両親を拒絶したら、俺は悲しむだろう。それがわかるんだ。なんでだろうな? 理屈じゃないんだ、たぶん」


 彼の心の中身を、エリーザベトは聞いていた。

 きっとここがルスヴィアではなかったからだろう。

 そして少しばかり酔っていたから。だから彼は話してくれたのだ。

「マティアス。あなたの悲しみに寄り添えないのをどうか許して。私にとって父母は遠くに行ってしまった愛なの。あなたの苦しみを分かってあげられないのが、悔しいわ」

 マティアスは何も言わなかった。

 言葉が見つからないのかもしれなかった。


 エリーザベトは彼の頬を撫で、顎や鼻の頭や、あらゆるところに口づけた。

 彼の肌はがさがさして、甘かった。


「みんなで幸せになれたらよかったのに。憎み合わずに、家族だというだけで、血のつながりがあるというだけで愛し合えたらよかったのに」

 夢物語だ。

 現実はそんなふうにできていない。

 人間はそれほど綺麗な生き物ではない。


 エリーザベトはソフィアの方を振り向いた。

 暖炉の光の届かない寝台にいる娘の顔は、暗闇にぽうっと浮かび上がって見えた。


「でも、私たちにはもう愛する娘がいるのよ、マティアス」

 小さくあどけなく純粋無垢な彼らの天使。


 ソフィアを見ればマティアスの顔つきも柔和になった。

 年相応の、少しだけくたびれた凛々しい軍人に見えた。


「そうだ。俺はソフィアを愛する。彼女の望むものは全部与えてやるつもりだ。愛情深い、自分を見てくれる両親。親切で怒鳴らない使用人。たくさんのぬいぐるみとおもちゃと服。もう少し成長したら自由に使える金と、ああそうだ、宝石もいるな。この子の美しさを引きたてるだけたくさん」

 エリーザベトはほのかな笑みを浮かべた。

 マティアスの語る未来は楽しみと嬉しさだけで構成されているようだった。

 おとぎ話の結末のように。

 彼はエリーザベトを引き寄せて口づけ、それが徐々に深くなる前に、彼女は顔を離して高い頬骨を撫でる。

 身体の下で男の身体が熱くなっていた。


「それからきょうだいも。なるべくたくさん」

 エリーザベトは夢見心地に呟いた。

 たくさんの家族たち。

 ずっとほしくてほしくて、喉から手が出そうだったもの。


 マティアスはふう、とため息をついてエリーザベトの顔を覗き込む。

「エリーザベト。ここは寝室で、寝台があって、俺と君は夫婦だ。この状況でそんなことを言うなんて?」

「そして幼い娘が眠ってるわ。起こしてしまうつもり?」

「ああ……くそっ」

 エリーザベトは笑いながら彼の膝から降りた。


「もう眠りましょう」

 寝台は二台。

 二人は残念なことに別々に分かれて眠ることになる。

 エリーザベトは当然ソフィアがいる方を選び、彼がもう一方に入って彼女たちの方を見ながら横になるのを見届けた。


 おやすみなさいを言って眠りにつくとき、未来の楽しい予知夢を見る気がした。

 それは当たっていて、エリーザベトはダークブラウンの髪をした子供たちが足元にまとわりつく夢を見た。

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