第31話



 ソフィアの声をエリーザベトは追った。

 耳ではなく心が娘の声を聴いた。

 彼女は小さく丸くなり、怯えてはいなかったが母親を探し求めていた――もちろん、父親も。


 ソフィアが知る修道院と泉、知っている人々だけに囲まれた小さな世界は崩壊していた。

 娘の小さな心が痛み、戸惑っているのを感じてエリーザベトは苦しかった。


 落ち葉が堆積した道の上、崖になっているところから水の音が聞こえた。

 エリーザベトは迷わず崖をよじ登った。

 白い岩がちょうど階段のように斜面を彩り、足がかりになってくれてる。


 マティアスが後ろから彼女の腰を掴んで持ち上げ、無理な段差や亀裂を通過させた。

 彼は難なく妻の後ろを進み、目を凝らして小さな娘を探した。

 はやる心にもどかしいほど歩みは遅かった。

 エリーザベトは何度もマティアスに先に行ってと言いたくなり、だが離れることができなかった。


 家族は全員が揃ってひとつだ。

 エリーザベトはソフィアの一部であり、ソフィアはマティアスの一部であり、エリーザベトとマティアスは互いの半分以上だった。

 誰か一人が欠けた状態で、さらに最後の一人まで欠けるなんて耐えられない。


 視界が開けた。

 水の音がする方へ、彼らは駆けた。

 小さな泉があった。

 レーレン修道院の裏手にあったものより大きく、マティアスが忘れられないあの湖より小さかった。


 そして、彼らの娘は灰色の砂利の床になった水辺で遊んでいた。

 元気そうで怪我も病気もしていなさそうで、見たことがないほどつまらなさそうだった。

 かたわらに食べかけのパンが転がり、白く輝く石をおもちゃにしている。


「――ママ!」

 ソフィアは足音に気づくとぱっと顔をほころばせ、両手を突き出して両親に走り寄る。


「ソフィア!」

「ソフィア!」

 それ以外の言葉はなかった。

 腕の中に駆け込んできた娘の小さな熱い身体をエリーザベトはきつくきつく抱きしめ、その匂い、溌剌とした笑顔、どこも怪我していない手足と胴体を確かめた。


「パパ」

 ソフィアは紅葉のような手をマティアスに伸ばし、にっこりする。

 膝をついた地面はからりと乾いていたが石が食い込んでいたが、エリーザベトはそんなことを忘れた。

 思わずマティアスと顔を見合わせ、勢い込んで聞いた。


「パパって言ったの、ソフィア?」

「俺のことをパパって呼んだのか、ソフィア?」

 マティアスの声は震えている。


「パパって呼んでくれるのか?」

「パパ、パパ、パパ! ママ! ママ!」

 ソフィアはわけもわからずきゃらきゃらと笑い出した。

 面映ゆそうで嬉しそうで、心から幸福なのが溢れ出た笑い方だった。


 身を乗り出すソフィアのお尻をエリーザベトは支えた。

 小さな身体を膝の上に抱き取ったマティアスは、深呼吸をして娘の薄い金髪に顔を埋めた。

 ソフィアの身体をすっぽり包んでしまえる大きな両手、左手に嵌ったエリーザベトの父母の結婚指輪。

 すべてが完璧だった。

 あるべきものがあるべきところに戻ったのだった。


 小さな泉からはこんこんと水が湧きだしている。

 せせらぎの音がエリーザベトの耳に戻ってきた。

 ソフィアの口元のパンくずを拭い、頭を撫でているとくるりと娘は首を回した。


「おなかすいた!」

 と元気よく報告されて慌ててポケットを探る。

 キャラメルナッツの包みがいくらか残っていた。

 エリーザベトはひとつをマティアスに渡し、もうひとつをパキパキ割ってソフィアに与えた。


 ここがどこで、今がいつなのかは構わなかった。

 娘が空腹であり、それを満たしてやれる。

 それだけが重要だった。

 もしすぐ後ろに熊がいても気づかなかっただろう。

 エリーザベトの世界には、今、ソフィアとマティアスしかいなかった。


「……君は昔、猫を追いかけて湖に落ちた。ちょうどこんな、小さな澄んだ湖だった」

「え?」

 もぐもぐ口を動かすソフィアが手を伸ばしてくる。

 娘を膝に乗せて腹に寄りかからせ、エリーザベトはマティアスを見つめた。

 彼は彼女たちを見つめる。

 目を離したら消えてしまうと恐れているかのようだった。


 マティアスの節くれだった指がエリーザベトの頬を撫でる。

 夏の空の色した目がこっくりと濃く青くなり、まなざしは不思議に鋭かった。

 彼は彼女の顔の中に過去を探していた。


「覚えていなくて当然だ。君は五つくらいだった。今のソフィアよりようやく一回り大きいくらい」

「記憶が……戻ったの、マティアス?」

 ああ、と彼は頷いた。

 優しい笑顔だった。


「全部思い出したよ。君を見つけて、ずっと思い続けて。そして結婚を申し込んだんだ。こんな水辺で、跪いてプロポーズした。風が心地よくて、君の金髪は天使の翼のように清らかに輝いていた。俺は有頂天だったよ」

 エリーザベトの心は過去に飛んだ。

 叔父夫婦から告げられた突然の結婚、馬車でルスヴィアまで旅したこと、騎馬のマティアスの凛々しさ。


 ……五歳。

 五歳の頃。

 それではそのすぐあとに父母が死んだのだ。

 ならばそれはエリーザベトが覚えている記憶と一致する。


「避暑地に家族旅行に行ったの。鉄道で。使用人たちもいて、古い鞄がいっぱいあって。最後の思い出なの」

 声が震えた。

「私と両親の、最後の旅行だったの」

「お優しそうなご両親だった。君は幸せそうだった。顔が赤くなって、日焼けするほどはしゃいでいた」

 マティアスはエリーザベトの灰色の目を見つめ、いたわりを籠めて言う。


 報われた、とエリーザベトは思った。

 全部が。

 叔父夫婦の元で苦労したことや、父母の財産のほとんどすべてが奪われていったこと、屋根裏部屋での暮らしが。


「君の目の色はお母上の色だ。そっくりな母親と娘、堂々としたお父上。……俺は君たち家族を見て、羨ましいと思って、いた」

 マティアスはソフィアに視線を落とした。

 アーモンドのかけらが小さな口の中に刺さらないよう気を付けて、エリーザベトは次を娘の唇に押し込んだ。ソフィアはゆったりと満足気だった。

 白い石を弄びながら娘は食べた。


「その頃からうちの両親は布教活動にのめり込んで、国内のあらゆる貧民区域に施しをして回る旅行が趣味だった。俺は父の友人の家族に預けられていたんだが、その家族が避暑地に出かけて……ただでさえ馴染めない家族の、さらに知らない別荘は居心地悪くてな。湖のほとりを散歩していたんだ。そこで君が水に落ちるのを見た。俺は叫んだ。すぐにお父上がやってきて君を助け出した。立派な腕だった。俺は彼のようになりたいと思った」

 皮肉な口調で彼はうっすら微笑み、ソフィアの髪を撫でる。

 幼女は鬱陶し気に首を振り、パリポリとナッツを齧り、キャラメルを歯と手で伸ばして遊んでいる。


「我が父のように神だけを愛する男ではなく。神を愛するように家族を愛する男になりたいと思った」

 夏空がエリーザベトを包み込んだ。

 彼の目があれば空はいらないとさえ思った。

 森に差し込む光に輝くダークブラウンの髪、それから日焼けした肌のなめらかさ。


 エリーザベトの白っぽい金髪は黄金より高貴にきらめいた。

 湿気を含んだ風が彼らを撫でた。

 泥まみれで細かい傷だらけでも、彼女は美しかった。


「君と結婚したいと、あの頃から思い続けていたよ。まだ十歳だったあの頃から」

「嘘……」

 エリーザベトはソフィアを抱きしめた。

 まだ食べ物が口の中に残った娘は、首を傾げながら無邪気に母親を抱きしめ返す。

 マティアスが手元のキャラメルナッツを砕いて、次のかけらを娘の口に入れた。


 エリーザベトはこれまでずっと一人だと思っていた。

 ソフィアの妊娠がわかったときも、それより前からずっと。

 人は立場に関わらず、一番大変なときに助けてくれないものだと思っていた。

 誰のことも信じすぎないようにして生きてきた。

 マティアスのことだって信じていなかったのだ。

 だから彼が記憶喪失になったとレオポルドに聞いて、すぐに逃げることを決めた。


 もう二度と大切なものを失わないように、最初から大切なものを作らないでいようとした。


 けれど――マティアスが、そんなに前からエリーザベトを選んでいたと知っていたら。

 きっと彼女は違った人間に成長していただろう。


 マティアスは彼女をソフィアごと抱きしめ、父母に挟まれてソフィアは不愉快そうな声を出す。


 あとはもう言葉はいらなかった。

 時間が止まったらいいとエリーザベトは思った。


 キャラメルナッツの最後のひとかけらをソフィアが食べ終えた。

 マティアスは優しい目でソフィアを見つめる。

 エリーザベトはそんな二人を見ると、胸が熱くなる。


「やれやれ、どうやら俺はこれを食べられない運命にあるらしい」

「あなたに差し上げたぶんはどうしたの」

「大事にしすぎてカビを生やした。すまない」

「じゃあルスヴィアに戻ったらたくさん作ってあげるわ。泣くほど食べさせてあげる」

 マティアスははっとエリーザベトを見つめた。

 彼は泣き出しそうに見えた。


「ありがとう。きっと、そうしてくれ」

 そして乱入者が現れた。


 転移魔法だろう、ユリアナは風のようにただそこに現れた。

 憎しみに燃える赤い目がエリーザベトを貫いた。


 マティアスは身軽に立ち上がった。

 エリーザベトはソフィアを抱き上げ、後ろに下がった。


 

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