第30話


 レーレン河のほとりに建つレーレン修道院からどこかへ行こうと思ったら、向かう先は実質的にひとつしかない。

 川下だ。


 川上に位置する戦地跡は非戦地帯に設定され、プロスティア王国、ゼルフィア帝国双方の軍による監視がある。

 いくらユリアナといえど、いや悪い意味で有名だったユリアナだからこそ、決してそちらへは向かうまい。


 川下をさらに南下すると港街に出る。

 その港からは南西諸島および他の大陸に旅立つことができたが、こちらも様々な許可が必要とされる昨今、素人が気軽に乗船できる船などない。


「だからしらみつぶしに宿や旅人を泊める民家を探していけば、必ず見つかる。安心しろ。そもそも若い女と幼児の二人連れなんて目立たないのは不可能だ」

 ――もしソフィアがすでに殺されていたら、ユリアナ一人だけなら逃げおおせることはできるだろう、と二人とも意識の下ではわかっていた。

 だがその想像はあまりにも恐ろしすぎて、エリーザベトは考えることもできなかった。

 マティアスも強いてそうしているようだった。


 ソフィアは生きている。

 生きて、泣いて、父母を呼んでいる。

 応えてやらねばならない。


 その日は月が頂点から傾き始めるまで馬を駆り、街をひとつ、通り過ぎた。

 まだ海は見えないが河幅が明らかに広がっているのがエリーザベトにもわかった。


 次の村は小さいが人の行き来があるので村人はよそ者に寛容だった。

 マティアスは宿を取り、エリーザベトを部屋に押し込める。

 見知らぬ部屋、疲労、混乱、心配がエリーザベトを物言わぬ人にさせた。


 ソフィアがいない。

 ソフィアがいない。


 てきぱきと寝る準備をして同じ寝台に入り、それはまったく構わなかったのだが、

「嫌だろうがとにかく眠るんだ。少しでもいいから。明日はもっと忙しくなる、聞き込みをしながらより南下してあの女を探すぞ」

 というマティアスの尖った声は不安にひび割れている。


「ソフィアは屋根の下で眠れているかしら。怪我は、病気は……」

 ソフィアがいない。

 お腹の中にも腕の中にもあの子がいない夜は三年ぶりだった。

 それだというのにすぐ隣には子供の父親がいて、エリーザベトは不安と焦りと同時に安堵も感じている。

 相反する感情を同時に抱ける自分が変なのか、それともマティアスの存在感が優しすぎるのか。


「心配してもどうにもできない。とにかく少しでも、睡眠をとれ」

 ちっとも眠れるはずはないだろうと思いながら、エリーザベトは目をつぶる。

 自分がこう呟いたことは覚えている――

「愛しています」

 と。

 ただそれだけを、ぽつり。


 目を閉じたと思ったのはついさっきだったのに、瞼を開くと朝だった。

 マティアスはすでに起き上がり身支度をしていたから、あやうく今がいつか忘れかけた。

 シュヴァルツェン家の夫婦の寝室はこんなに狭くはなかったのに。


 エリーザベトは迅速に身支度をした。

 といっても身体を濡らした布で拭ってマティアスが差し出す乾燥したビスケットを食べ、水を飲んだくらいである。


 再び騎乗したのは夜が明けてすぐの時刻、河から溢れた濃い霧が街道を覆っていた。


「本当に行きなさるのかね? こんな時間から動くお客さんなんていないよ」

 と宿の主人である老爺は白い髭を撫でながらもごもご言う。

 それでも柵を開けて二人を通してくれたのは、いかにもワケアリの風体に面倒ごとに巻き込まれたくなかったのだろう。


「ありがとう。このあたり、人が隠れられそうなところはないか? 河のそばの浅瀬だとか、湿地帯だとか」

「そんならちょっとした沼地がありますわ。西に曲がったところ」

「そうか。取っておいてくれ」

 マティアスは銀貨を老爺に投げ、馬を走らせた。

 矢のように景色が過ぎる。

 一晩しか休んでいないのに馬は早かった。


「沼には街に入れない者どもが住み着いている場合が多い。俺が話を聞くから君は馬のところにいてくれ」

 エリーザベトは頷いたが、頭は忙しなく考えていた。

 霧をすかして見える目が欲しかったが持っていないので、せめて頭を働かせる。


(彼女が沼地になんて行くかしら?)

 美貌と身体に絶大な自信を持っており、自分の思い通りに世界を動かす権利があると思い込んでいるらしいあの娘。

 汚いところに行き、服を汚し、顔まで汚すことがはたして彼女にできるだろうか?


 マティアスは若く有能な武官である。

 彼の考えではユリアナの思考回路を理解などできないだろう。

 エリーザベトはマティアスの襟を引っ張った。


「マティアス、待って。あそこに、丘の向こうへ向かってください」

「何?」

 エリーザベトが指差したのは小高い丘の方面だった。

 その向こうはすぐに森だった。

 禁猟区である王の森で、村人は薪取りにも入らない。

 小さな見張り小屋は封鎖され、寂れて不気味な雰囲気だった。


「ユリアナは魔法使いでしょう。ならば森の中でこそ生きられるすべを持っているはずです。私が彼女なら港へも沼地へも向かわず、森に隠れて追っ手を撒こうと考えます。お願い。確認するだけでも」

 マティアスは手綱を緩めて馬を小走りにさせた。

 それでもみるみるうちに丘は遠ざかる。

 エリーザベトの手に力が籠った。


「お願い、マティアス。そうしてください」

 彼は妻の願いをかなえることにした。

 何が彼にそうさせたのか……自分の経験と知識からくる正確な追跡術ではなく、ただ彼の妻であり子供の母親である女の感情を優先させたのか?

 おそらく理由はなかった。

 ただそうすべきだと本能が叫んだのだろう。


 エリーザベトにはその衝動がよく分かる。

 彼女もまた同じ能力で、森の中に娘がいることを知っていた。

 理屈ではない部分で。


 禁猟区と世間を隔絶するための柵はあちこち壊れ、修繕もされないままだった。

 この三年間、すべての国力は戦争に回され、小さな不具合は見過ごされ続けてきた。

 軍馬はやすやすと壊れた柵を乗り越えた。


「見つかったら懲罰ものだ。国の規範たる軍人が自ら王の領域を犯すなど」

 とマティアスは呟き、目で周囲を見渡す。

 エリーザベトは馬から滑り降りようとして、落ちそうになった。

 彼の腕に支えられてようやく足が腐葉土を踏むと、そこはつきんと耳の奥が痛くなるような静寂が支配する緑の世界だった。


 巨木の根っこが足を取るので馬は連れていけなかった。

 マティアスは手近な枝に軍馬の手綱を結び付けた。


 エリーザベトは一足早く、森へ足を踏み入れる。

 人の手が入らない森というのはこれほど力強いものなのか。

 枯れ枝や倒木、生えっぱなしの雑草。

 木の幹を逃げていく甲虫や羽虫の群れ。

 エリーザベトは道なき道の向こうを見た。


 ソフィアが母親を呼んでいるのがわかった。


「待て、エリーザベト。勝手に行くな。迷ったら探し出せない……エリーザベト!」

 彼の手を振り払ったのははじめてのことだった。

 だがエリーザベトには振り返る余裕もなかった。

 ずんずん進む細い身体をマティアスは馬を引いて追いかける。

 彼は舌打ちしそうな表情だったが、声なき声に呼ばれているのは彼も同じだった。

 去年か一昨年のどんぐりのカラッポの殻が軍靴の下で砕かれた。


「ソフィア! ソフィア!」

「ソフィアー! 返事をするんだ、ソフィア!」

 二人の呼ぶ声が森にこだまする。


 木々はざわめくばかり、小鳥たちはさえずり、狐かアナグマか、四つ足の獣の影が二つ足を興味深く見守る。

 ささやかな獣道を二人は前になり後になりしながら進んだ。

 次第に手が繋がれて足取りが揃った。

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