第26話


 町外れの大きな道まできたときだった。

 いくつかの騎兵の影があった。

 マティアスは呻き声を上げると、エリーザベトの身体をそっと手放し、彼らに向かって駆けていった。


 早口に再会の喜びが交わされた。

 彼らの顔と声にエリーザベトは覚えがあった。

 マティアスの部下、ルスヴィアの騎士たちだ。


 何人かが満月の下にエリーザベトの姿を見つけた。押し殺した鋭い叫び。若奥様……!

 彼らが更に何かを言う前に、マティアスが鋭く何かを命じる。


 何騎かが別々の方向に駆け去り、残りの騎兵たちもさっと隊列を組んで指示を待つ姿勢に戻った。


 マティアスが修道院の逗留客からプロスティア王国軍の士官に戻ってしまうのを見て、エリーザベトはどうしてこんなに胸が痛むのか不思議だった。

 まるで彼が遠くに行ってしまったような気がしたのだった。

 それら全部を飲み込んで夫を支えるのが妻の役目なのに。


 彼はエリーザベトのところに戻り、彼女の肩を掴んだ。

 エリーザベトはその顔を見て、先んじて言った。


「よろしいですわ。修道院でソフィアと一緒に待っています」

 自分では気丈にはきはき言ったはずなのに、声は震えていた。

 真っ黒な心配がざわざわと湧いてきてならない。

 ここで見送ったら、また記憶喪失になって今度はソフィアのことさえ忘れてしまうのではないか?

 本当は行かないでと取り縋りたい。

 エリーザベトは再び彼を手放したくない。

 やっと戻って来てくれたのに。


 マティアスの痛ましげな声は彼女の心をさらに傷つけた。

 彼は優しく彼女の肩と腕を撫で、いたわりを籠めた声で囁く。


「すまない。レーレン修道院なら、安全のはずだ」

「……早く迎えに来てください。私も、ソフィアも、待っていますから」

「ああ。長い間待たせたのに、また待たせてしまう……」

 人目があったが、彼は構わず彼女を抱きしめ髪に顔を埋める。

 エリーザベトはダークブラウンの髪に指を差し込んで彼の頭を撫でた。


「すまない、すまない。やっと思い出せたのに。君は俺の妻なのに、またひとりにしてしまう」

「司令官様にご無事をご報告なさいませんと。立派なご身分を取り戻して、ソフィアをあなたの娘としてルスヴィアに連れ帰ってやってください」

 夏の空の目は潤んでいた。

 だがマティアスは頷いた。

 エリーザベトは彼の手の中に父母の結婚指輪を押し込んだ。

 彼は動揺する。


「これは君の……」

 構わず、エリーザベトは大きな手を広げさせ、指輪を指に嵌め込んだ。

 少しきついが母の指輪は小指に、父の指輪は中指に嵌った。


「持って行ってください。必ず返してくださいね。大事なものですから」

「――わかった。必ず」


 そして彼の馬が連れてこられた。

 堂々たる巨体の軍馬で、装備も凛々しい。

 彼はエリーザベトのことを覚えているらしく、鼻を鳴らして地面をひっかく。

 エリーザベトはがっしりしたなめらかなその頬を撫で、轡の感触に身震いした。


 マティアスは羽根が生えた生き物のように、巨大な軍馬に身軽に騎乗した。


「キャシー、妻を修道院まで送っていってくれ」

 とマティアスは馬上から騎士たちの中に声を張り上げる。


「はい。わかりました」

 と言って出てきたのは他の騎士たちより一回り小さな人影で、鈴を振るような声で女性だとわかった。


 彼女は自分の小さな、だがポニーほど小さくはない軍馬から片手を差し出してくれた。

 エリーザベトはありがたくその手を掴むと、彼女の鞍の前方に乗った。


「それじゃ、エリーザベト。なるべく早く片づけて、迎えに来る」

「わかりました。お待ちしております」

 エリーザベトは礼儀正しく目を伏せて答え、去っていく彼の背中にすぐに後悔した。

 泣き叫びたくなった自分に驚き、マティアスのぬくもりを欲してわななく身体を恥ずかしいと思った。

 自分の後ろの彼女には伝わってしまうだろうから。


 キャシーはハキハキした口調で告げた。

 軍服を纏った女性の身体の柔らかさがエリーザベトを現実に引き戻す。


「さ、若奥様。ルスヴィアでご挨拶させていただいたのを覚えていらっしゃるといいのですが。……急いで修道院まで参ります。しっかり捉まってください」

 キャシーは黒髪をおさげにした大きな緑の目の有能そうな人だった。

 胸のバッヂで魔法使いだと分かる。

 直前に話した女の子があれだったものだから、ついつい張りのある若い声に腹の底が緊張してしまう。


 エリーザベトはぎゅっと口を引き結んで背筋を伸ばした。


「ええ、覚えていますよ。酒屋さんの娘さんよね?」

 キャシーは意外そうにまばたきした。

「修道院までよろしくお願いします。手数をかけてごめんなさいね」

「いいえ」


 そうして馬は走り出し、といってもエリーザベトを気遣って小走りだったが、その乗馬技術は若さに見合わず巧みだった。

 身体がぜんぜん揺れないのだ。相乗りなんて馬酔いするためにある技法だとばかり思っていたエリーザベトとしては驚きである。


 騎士たちの姿が見えなくなり、馬蹄の響きも聞こえなくなった頃、キャシーはくすっとと息だけで笑った。

 耳朶にかかった甘い若い娘の声にエリーザベトは飛び上がった。


「ユリアナにお会いになったと聞きました。びっくりなさったでしょう」

「……ええ。あの人は、夫の傍にずっといたと聞きましたが」

「それは私どもにとっても頭の痛い問題でした」

 彼女は淡々と説明口調で話した。


 おそらく仲間の誰かから、ひょっとしてマティアス本人から、それとなくエリーザベトに言っておけと言われた内容をそのまま話しているのだろうと察せられる物言いで、


「あの人は確かに魔法使いでしたが、軍に所属する正規の軍属ではありませんでした。私たちのように任務に従わねばならない縛りがないぶん、なんともまあ好き勝手やってくれて。

 もちろん負傷者の救護のために戦場まで出向いてくれる民間の魔法使いや修道女様方には心から感謝しております。しかし彼女はそうした集団にも属さず、規律も理解せず、いつも妙なローブ姿の者たちとつるんで布教活動に精を出しておりました。その上、若様に絡み付いて鬱陶しいことこの上なく――」


 鬱憤を晴らすように一息にそこまで言ってしまうと、ハアッと大げさに肩を上下させ、

「一度などシュヴァルツェン家の天幕に潜り込んで若様を待っていたのですよ。若様が放り投げて追い出しましたが。なのに翌日には懲りずにヘラヘラ現れるのですから、うすら寒いものさえ感じました」

「そうだったの……」

 エリーザベトは自分の誤解に目を伏せる。


 噂をそのまま信じ込んで、夫を信じなかった自分を愚かだと思った。


 レオポルドに何を言われても、自分で手紙を出すか、戦場へ乗り込んででもマティアスに真相を聞けばよかったのだ。

 実際は妊娠中で無理だったとしても、そのくらいの気持ちで戦えばよかった。


 どうしてそうしなかったのだろう。


 エリーザベトはキャシーの探る視線を受けて、物思いから覚めた。

「若いお嬢さんがあれほど――壊れてしまうとは、戦場とは聞く以上に恐ろしいところなのでしょう。女性の身で軍に所属し、夫の元で働くあなたのような方を私は尊敬します。今も私を送っていくせいで部隊に合流する手間がかかるのに、ありがとう……」

 キャシーは朗らかな笑い声を上げた。

 どこかマティアスに似ている、いいや、軍人らしいさっぱりとした笑い方だった。


「お優しい若奥様! ええ、ええ。若い女性なのにね!」

 と続けて苦しそうに咳き込む。

 エリーザベトは振り返って彼女の新緑のように美しい緑の目を見上げた。

 そこには好意と、ようやくユリアナの奇行を話せる喜びが輝いていた。

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