悟達者

白沼仁

第1話

 なぜ自分が生まれて来たのか、自分がこの世に存在する理由は何なのか考えたことがあるだろうか。どうすればその答えを見つけることができるのだろうか。


 俺が僧になったのは、他に生きていく術がなかったからだ。悟りを得るための修行を続けたのはなぜ自分がこの世に生まれ落ちたかその意味を知りたかったからだ。


 悟りの境地に達するためには様々な修行法がある。悟達者ごたつしゃとは真理を悟った人のことをいう。また迷妄から目覚めたことから覚者かくしゃあるいは自己の本質を見抜くことから見性者けんしょうしゃと呼ばれることもある。


 俺の顔は生まれた時から、常人よりもかなり長く、体も大柄で不格好だった。そのため子供の頃から馬面、馬の子供と、周囲から揶揄やゆされさげすまれてきた。それに加えて力があり粗暴だったので子供たちだけでなく、大人の村人からもうとまれていた。


 十三歳になった頃、父親が病で亡くなった。兄が嫁をもらって家督を継ぐと、次男の俺は家を離れた。不作が続いる中でも過酷な年貢の取り立てが止むことはなかった。その上やっかいな疫病も蔓延していた。そんな中、田畑で米や野菜を作っても、一家全員がこの寒村で暮らしていくことは到底できなかった。俺の妹は生まれて直ぐに間引かれた。働けなくなった老母もいずれ近くの伊吹山に姥捨てになるだろう。


 村を出ても俺には行く当てはなかったが、とりあえず都のある山城国やましろのくにを目指すことにした。都に行けば、何か生きていく術が見つかるかもしれないと思ったからだ。俺と同じように飢えに苦しんで地方から都を目指す人は大勢いた。

 都へ向かう道中は物乞ものごいいをしたり、野草や小動物を取って、食べたりした。道沿いには放置されたままの行き倒れた人の骸を何度か見かけた。盗賊が横行し、旅人同士の諍いもあった。俺はなるべく人目を避けるように移動した。道中では、人が襲われるのを目撃することもあったが、巻き添えにならないように隠れていた。野宿しながらの旅で心身の休まるときは無かった。


 流浪の日々だったが或る時、空腹で気を失って道端に倒れた。偶然、大きな寺の近くだったようで、通りかかった寺の住職が俺を見つけて食べ物と水を与えてくれた。それが縁で寺の小僧にしてもらえることになった。俺の異様な風体が住職の目に留まったのかもしれない。兎も角それでようやくなんとか飢えを凌いで生き延びることができた。

 寺の小僧は他にも数人いたが、仕事は水汲み掃除や僧侶たちの食事の世話など沢山があった。しかし野良仕事で働きどおしだった俺にとっては寺での仕事は大層なことではなかった。小僧たちも住職や僧侶たちと一緒に朝の勤行ごんぎょうにも加わる。読み書きもろくにできなかった俺だったが、修行僧から読み書きを教えてもらい、いつか経典も徐々に読めるようになっていった。


 俺はそれから見習い僧になり、なんとか得度して正式な僧侶にまでなることができた。僧には厳しい修行が課せられている。極貧での野良仕事と餓死寸前の流浪の生活を長くしてきた俺にとっては、僧の修行は、どれをとってもそれほど身にこたえるような事はなかった。

 俺が身を寄せた寺は、大きな寺で寄進や布施もそれなりにあった。そのため僧侶になっても最低限の食い物にはありつけた。しかし、寺から外に出てみると、相変わらず飢餓と疫病による行き倒れや戦も絶えることがなく、生き地獄のような様相を呈していた。


 その中にあっても、俺は僧としての修行を怠ることなく続けていた。座禅や作務、読経などの修行は、それを為すこと自体が目的ではない。修行を通じて悟りの境地に至ることこそが最終目的である。様々な修行は単なる手段にしか過ぎない。

 しかし、俺はいくら修行を重ねても、悟りの境地に近づいている気が全くしなかった。


 ある日、托鉢の帰りに川沿いの峻嶮しゅんけんな山道で盗賊に襲われた。刀で切り掛かられたのを避けようと相手ともみ合い押し倒したが、そのはずみで強盗は崖から転落し川岸の岩に頭を打って血を流して動かなくなり、そのまま死んでしまった。

 誰も見ている者はいなかったので、俺は無我夢中で寺に逃げ帰ったが、しばらくくは茫然ぼうぜんとしていた。夕刻の薬石の後の夜の座禅で、俺は初めてこれまでどうしても出来なかった禅定の境地に入ることができた。その後、さらに俺は朔月観さくげつかんと呼ばれる暗黒の巨大な月と自分が一体になることを観想する特別な行法を成し遂げることができた。

 あの野盗との一件が何か俺の心を変えた転換点だった。


 悟りの境地というのは一つだけのものではなく、複数の段階を経て、最後に究極の悟りに至るとされている。また悟りに至る手段も多様である。俺は悟りの入り口には到達できたようだが、究極の覚醒者となるまでには、まだほど遠かった。


 俺は人を殺したことが、一つの契機となって覚醒に一歩近づくことが実感できたことから、究極の悟りに近づくためにさらに殺人を続けることにした。別に闇雲に殺し回ったわけではない。そうなるべき者に死を与えただけであり、逡巡しゅんじゅんするようなことは一切なかった。

 人知れず殺人を何度も繰り返したが、戦乱の世で、何百人、何千人の屍が累々としているときに、誰が死のうと殺されようと詮索する者などいなかった。

 殺生した後で座禅を行い、また観想を重ねることにより悟りの境地を一段ずつ進んでいく感覚が俺にはあった。それに相応の残忍な殺し方をした方が、より究極の悟りに近づくのが速くなるような気がしていた。


 ある秋晴れの日のこと、俺は托鉢をしている途中で、涼しい眼もとをして頑強そうな顎を持つ相貌の旅の僧に出会った。その僧は俺に声を掛けてきて、道元どうげんと名のった。その名前は俺も聞いたことがあった。たしか比叡山延暦寺で出家し、宋に渡り如浄禅師にゅじょうぜんしの下で学んで、帰国した僧が道元という名前だったはずだ。道元は若くして既に悟りを得た名僧として世に知られていた。

 こ道元は、これから都から遠く離れた越前の国におもむいて道場を開き、俗世から離れて只管打坐しかんたざの修行を完成させたいということを、俺に淡々と話した。

 そして近寄って網代笠あじろがさの下の俺の顔を見て「珍しい異相をされていますが、あなたはすでに悟りの境地に達しておられるようです」と言った。それから独り言のように宋での修行時代に如浄禅師との対話のことを話した。


 如浄が語ったというのは次のようなことだった。

 悟りを得るためには禅宗では座禅を行うが、修行法には他にも様々なやり方がある。師を持つことなく独自の修行方法で悟りを得る者は独覚どっかくと呼ばれる。また宋の遥か西方の地域で発展した仏教の一派である金剛乗教こんごうじょうきょうの教えでは、明妃めいきと呼ばれる女性との交わりを修行の一つとして悟りを得るために行うことがある。さらに彼の地では、度脱どたつという秘儀があるという。度脱というのは煩悩ぼんのうから抜けられない衆生を慈悲のためにあの世に送る、つまり人を殺すということだ。

 しかし様々な悟りの道があったとしても、座禅を通じて悟りを得ることこそが、正しい道、正法であると如浄は道元に説いた。


 その話を聞いて道元は、度脱のような外法の修業で得られる悟りと正法で到達する悟りの境地は同じなのかと師に問うた。しかし、如浄の答えは、「度脱の修行法で悟達した者にはこれまで会ったことがないが、そもそも悟りの境地はそれぞれの心の内にあるものであり、それが同じものなのか全く別のものなのか誰も知ることはできない」だった。

 帰国する道元への手向けの言葉として、如浄は仏道の正法しょうぼうを世に広めるよう道元に強くうながした。


 そう話して、道元は俺の目をじっと見つめた。


 俺はその話を聞いて、ようやく俺がなぜ悟りの境地と自分が思えるものに近づくことができたのか、その理由が分かった気がした。俺は目礼をしてそのまま立ち去ろうとした。


 すると「お待ちください」との道元の声がした。振り向くと「外法げほうの悟達者を見たのは今日が初めてです。早く元の棲み処にお戻りくだされ」と言った。

 それに続いて、「喝」と引導を渡す大音声が俺の耳の奥を貫いた。


 俺は突然、夢からたたき起こされたようにはっとした。そのとたん空が天蓋のように破けて、目の裏に映っていた世界がまくれてがれ落ちていった。気が付くと俺の目の前にいたはずの道元の姿も周辺の景色も全て消え失せていた。


 暗い空には稲妻が走り遠くから雷鳴がとどろいていた。高台に立っている俺の眼下には、果てのない暗黒の大地が広がっていて、所々から大きな炎の柱が立ち上がって周囲を照らした。一瞬照らし出された場所には無数の裸の人の群れがうごめいていて、鬼どもがそれを追い立てているのが見えた。そこかしこからは阿鼻叫喚あびきょうかんの声が沸き上がってきた。


 俺はようやく自分が、地獄の門番である馬頭王めずおうであることを思い出した。俺は人体に馬の首を乗せた姿をしている。牛の頭を持つ牛頭王ごずおうとともに地獄の鬼、獄卒どもを統率する頭目だった。亡者が逃げないように捕縛し、亡者の生前の罪に相応する永劫の責め苦を与えることが俺たちの仕事だった。


 しかし際限なく地獄に落ちてくる亡者どもの元の世界が一体どうなっているのかを一度自分の目で確かめてみたいと思い、俺は人間界に転生したのだ。しかし、思っていたほどのことはなかったというのが正直なところだ。人の世から本来の俺のである地獄に戻ったが、俺が見てきた生者の世も亡者の地獄もさして変わらないではないかと。


 地を這う罪深い亡者どもをいつものように睥睨へいげいしながら俺はそう思っていた。


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悟達者 白沼仁 @siranuma

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