その制服(グリーン)は、血で染まる

夕凪

第1話 グリーンの呪い

鏡の中に立っていたのは、見知らぬ「お巡りさん」だった。

 パリッとした糊のきいた、深いグリーンの制服。襟元には、警察組織を示す柏葉の襟章が鈍く光っている。現代で着古していた油まみれの作業着とは正反対の、清潔で、どこか権威的な姿だ。

「……ハンス、こっちを向いて。少し襟が曲がっているわよ」

 背後から、母さんの弾んだ声がした。

 振り返ると、彼女はエプロンの裾で手を拭きながら、うっとりとした表情で俺を見上げていた。その手には、朝食のパンと代用コーヒーの香りが微かに残っている。

「本当に立派よ、ハンス。まるでお父さんの若い頃を見ているみたい」

 母さんの指が、俺の肩のラインを丁寧になぞる。その指先は少し震えていた。それは戦地へ送る息子への不安よりも、今のところは「安全な場所」へ決まったことへの安堵の方が勝っている証拠だった。

「国防軍のあんな泥だらけの服じゃなくて良かったわ。……警察なら、どこかの街の平和を守るのが仕事でしょう? 銃なんて、飾りみたいなものよね」

 母さんは、俺の胸ポケットをポンポンと叩いて笑った。

 その温もりを感じるたびに、俺の胃の奥でどろりとした鉄の味が広がった。

(……違うんだ、母さん)

 喉まで出かかった言葉を、熱いコーヒーと一緒に飲み込む。

 母さんの言う通り、この服は警察の制服だ。本来なら、泥棒を捕まえ、交通を整理し、迷子の子供を助けるためのものだ。

 だが、俺の頭の中に刻まれた歴史の記憶は、このグリーンの布地が、数ヶ月後には拭いきれない返り血を吸って黒ずみ、火葬場の煙の臭いが染み付くことを告げている。

 窓の外では、ハンブルクの穏やかな春の陽光が街路樹を照らしていた。

 近所の子供たちが元気に駆け回り、向かいの家の主人は平和そうに新聞を広げている。

 この静寂のすぐ先に、数百万人が絶叫の中で消えていく地獄が待っているなんて、この街の誰も信じないだろう。俺自身、これが悪い夢ならいいと何度願ったことか。

「さあ、ハンス。遅れるわ。皆が広場で待っているんでしょう?」

 母さんが玄関で俺の帽子を差し出した。

 警察章が中央に配された、シャープなデザインの制帽。

 俺はそれをゆっくりと受け取り、深く被った。影が落ちて、自分の目が鏡から消える。

「……行ってくるよ」

 俺の声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 一歩、玄関の敷居をまたぐ。

 平和な朝の空気が、制服の隙間から肌に触れる。

 これが、俺が「人間」として呼吸する、最後の朝になるかもしれない。

 俺は、自分がこれから犯すことになる「罪」の重さを、まだ誰もいない駅へと向かう靴音の中に聞きながら、歩き出した。


第101予備警察大隊、集結

 集合場所である警察学校の広場は、新緑の匂いと、男たちの浮ついた熱気に満ちていた。

 整列しているのは、俺と同じグリーンの制服を着た男たち——およそ五百人。

 彼らは職業軍人ではない。ハンブルクの街角でトラックを転がし、港で荷を運び、商店で帳簿をつけていた「普通の男たち」だ。平均年齢は三十代半ば。その多くが家庭を持ち、戦場へ行くには少しばかり歳を食いすぎた父親たちだった。

「よう、ハンス! こっちだ!」

 列の中から、一際大きな声がした。

 かつての工場の同僚であり、気さくな兄貴分だったマイヤーだ。彼は制帽を少し斜めに被り、上機嫌で俺の腕を掴んだ。

「見ろよ、この面子(めんつ)を! 隣の肉屋の親父もいれば、ビアホールでいつもクダを巻いてる会計士もいる。軍隊ってからにはもっと殺伐としてるかと思ったが、これじゃまるで町内会の遠足だな」

 マイヤーの言葉に、周囲の男たちがどっと笑う。

 彼らの顔には、恐怖など微塵もなかった。あるのは、日常の労働から解放され、公的に認められた「冒険」へ向かうことへの、無邪気な高揚感だけだ。

「……みんな、どこへ行くか知ってるのか?」

 俺の問いに、マイヤーは不思議そうに眉を上げた。

「東の方だろ? ポーランドとかいう場所の治安維持だ。ゲリラとかいう連中をちょいと追い払って、秩序を教え込んでやる。それで半年もすれば、俺たちは『立派に国に尽くした警官』としてハンブルクに戻れる。最高じゃないか」

 最高だ、と誰かが相槌を打つ。

「前線の国防軍に比べりゃ、天国みたいな仕事だよな」

 俺は彼らの笑顔を、一人一人、目に焼き付けるように見渡した。

 彼らは悪人ではない。週末には子供を連れて公園に行き、妻のために安物の花を買って帰るような、どこにでもいる「善い市民」だ。

 

 だが、俺は知っている。

 数カ月後、この中の何人が、返り血を浴びた手で笑い、死体の上でタバコを吹かすようになるのかを。

 この無邪気な「遠足」の終着駅は、人類史に刻まれる巨大な墓場なのだ。

 その時、広場の空気が一瞬で凍りついた。

 壇上に、一人の男が現れたからだ。

 警察のグリーンではない、漆黒の制服。襟には銀色のルーン文字。**SS(親衛隊)**の将校だ。

 彼は冷徹な眼差しで俺たちを一瞥し、短く、だが地響きのような声で言い放った。

「諸君、これより諸君は『大ドイツ』の盾となる。……後方の不純物を排除し、新秩序(ニューオーダー)の土台を築くのだ。覚悟のない者は、今のうちに去れ」

 去る者など、一人もいなかった。

 男たちは皆、背筋を伸ばし、その漆黒の影に従うことが「誇り」であるかのように胸を張った。マイヤーでさえ、真剣な顔で敬礼している。

 俺もまた、彼らに合わせて右手を上げた。

 昨日までの隣人たちが、一歩ずつ、引き返せない暗闇へと行進を始める。

 その列のなかに、現代の記憶を持ったまま、俺も飲み込まれていった。



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