むらさき色の薔薇

花瀬とおる

第1話 消えた被害者

むらさきいろの薔薇

第1章 消えた被害者

「あぶない!!」

思わず叫び、急ブレーキを踏んだ。

一瞬の出来事だったが、人をはねたことだけは間違いない。目の前が暗くなる。

スピードは出していなかった。せいぜい時速五十キロほどだ。

突然、目の前に飛び出してきたのだ。誰だって止まりきれるはずがない。

——悪いのは歩行者だ。

そう思いかけて、はっとする。

ここは横断歩道だった。

人通りの少ない、夜の静かな道。目撃者はいない。

急な飛び出しを証言してくれる人も、通りかかりの車もない。

どちらにしても、言い逃れはできない状況だった。

……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

とにかく救急車だ。

致死と致傷では、天と地ほどの差がある。

車を降りると、すぐそばに公衆電話ボックスがあるのが目に入った。

中に飛び込み、震える手で受話器を取る。

「はい、こちら119番。救急ですか、消防ですか」

「救急車をお願いします。〇〇町で……私が車で人をはねました」

落ち着け。落ち着け。

自分に言い聞かせながら、状況を伝える。思った以上に冷静に話せている自分に、逆に戸惑った。

続けて110番。

「人をはねました。救急車は手配しています」

警察官は淡々と指示を出した。

「その場で待機してください。救急車が到着するまで、けが人のそばにいてください」

——その言葉に、胸が詰まる。

……そうだ。

私は、はねた相手を一度も見ていない。

男か女か、子どもか大人か。

何も確認していなかった。

深く息を吸い、電話ボックスを出た。

「あれ……?」

横断歩道の先に、倒れているはずの人影がない。

「どういうことだ……」

確かに、ここに倒れていたはずだ。

それなのに、誰もいない。

もしかして……本当に人をはねたのか?

ただ何かがぶつかってきただけではないのか?

風に飛ばされた物体だったとか——。

考えがまとまらない。

やがて救急車が到着した。

私は茫然と立ち尽くし、隊員に手を振る。

「けが人はどちらですか?」

「あの……それが……いないんです」

「いない?」

言葉を失う救急隊員。

ほどなくパトカーも到着し、警察官が二人降りてきた。

「通報された方ですね。被害者は?」

「……消えました」

「消えた?」

四人に囲まれ、私は完全に動揺していた。

年配の警察官が、落ち着いた声で言う。

「大丈夫。順番に整理しましょう」

「はねた人は、男性ですか?女性ですか?」

「……わかりません」

視線が突き刺さる。

「服の色は?」

「……紫です。紫色だったのは、間違いありません」

その瞬間、警察官同士が視線を交わした。

「車に傷はありませんね」

急ブレーキの跡を確認しながら、若い警官が言う。

「はねた後、何をしました?」

「公衆電話を見つけて、すぐ119番と110番に……」

「その間、どれくらい?」

「三分もかかってないと思います」

「その間に、被害者が消えた……」

救急隊員が周囲を捜索し、警官が現場検証を始める。

そのとき——

「あの、車の下から、こんなものが」

若い警官が差し出したのは、紫色の花びらだった。

「……薔薇ですね」

「薔薇?」

すると、若い警官が小声で言った。

「……あの時も、確か薔薇でしたよね」

年配の警官が、すぐに制した。

「余計なことを言うな」

その一言で、彼らが何かを隠していることだけは伝わってきた。

車は証拠物件として押収され、私はパトカーで自宅へ送られた。

家に帰ると、妻が出迎えてくれた。

「食欲ないから、今日はいい」

風呂に入り、缶ビールを開ける。

「なんだか、今日のあなた変よ」

黙っていると、妻は微笑んで言った。

「話さなくていいよ。お疲れさま」

そう言って、軽くキスをした。

結婚二年目。

一歳の息子と三人で暮らす、幸せの絶頂——

その夜の出来事だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る