あなたの罪悪感頂きます

男女鹿メテ(オメガメテ)

カタルシス

胃の奥に、冷え切った鉛が居座っている。


 それは一週間前、僕が愛猫のルナを不注意で死なせてしまったあの日から、一秒たりとも僕を解放してくれない。


 ふとした瞬間に、コンクリートに叩きつけられたあの鈍い音が蘇る。温かかったはずの体が、冬の夜風にさらされて急速に冷たくなっていく、あの絶望的な感触が指先に張り付いている。

 

「……ごめんな、ルナ」


 何度謝っても、心は軽くならない。むしろ、言葉にするたびに罪の意識は鋭利なナイフとなって僕の胸を抉った。


 そんな時だった。SNSのタイムラインの隅に、場違いな広告が流れてきたのは。


『あなたの罪悪感、食べます。 ――相談無料・秘密厳守』


 怪しい、と一蹴するには、僕はあまりにも摩耗していた。


 導かれるように辿り着いたのは、街外れの雑居ビルに入る喫茶店『カタルシス』。


重い扉を開けると、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい女が、カウンターの奥で僕を待っていた。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、蓮様」


 サキと名乗ったその女性は、僕が事情を話す前からすべてを見透かしているようだった。

 

「苦しいのでしょう? その罪を、私が『食事』として引き取ります。代償はいりません。ただ、あなたが『自分は悪くない』と納得するだけでいいのです」


 彼女の指が僕の額に触れた瞬間、脳内にルナとの思い出が濁流のように流れ込んだ。そして、サキが口を大きく開けた。


 ズルリ、と。


 魂が引き抜かれるような感覚の後、信じられないことが起きた。


 あんなに苦しかった胸の痛みが、跡形もなく消えていたのだ。


「……あれ?」


 ルナを思い出す。

しかし、そこにあるのは『ああ、不運な事故だった』という、他人事のような冷めた認識だけだった。


 これが、罪を食べてもらうということなのか。僕は、あまりの心の軽さに、震えるほどの法悦を感じていた。


 それからの僕は、別人のようになった。


 以前の僕は、同僚に少しきつい言葉をかけただけで一晩中悩むような臆病者だった。

だが、今は違う。嫌な奴には徹底的に毒を吐き、仕事でミスをすれば他人に押し付ける。


胸が少しでも痛めば、『あそこ』へ行けばいい。

 

「サキさん、今日もお願いします」


「ええ、喜んで。……ふふ、今日の罪悪感は少し『欲』が混じっていて、コクがありますね」


 サキは僕の影を吸い取るように、僕の中の『痛み』を食べてくれた。


 彼女に食べてもらうたびに、僕の感性は研ぎ澄まされ、世界が輝いて見えた。罪悪感というブレーキが壊れた人間にとって、世界はこれほどまでに自由なのか。


 僕は横領に手を染めた。部下の婚約者を寝取った。親の葬式でも、涙一つ出なかった。

 

 周囲の人間は僕を『血も涙もない悪魔』と呼んで去っていったが、それすらもサキに食べてもらえば、ただの『雑音』に変わった。

 

 だが、変化は確実に訪れていた。


 ある朝、鏡を見て息を呑んだ。


 鏡の中にいる男の顔から、生気が失われていた。肌は蝋のように白く、瞳は焦点が合わず、まるで精巧に作られたマネキンのようだった。

 

「……何か、おかしい」


 僕は逃げるように『カタルシス』へ向かった。今のこの『不安』さえも、彼女に食べてもらえば解決するはずだ。


 店に入ると、サキは以前よりも妖艶で、どこか禍々しいオーラを放っていた。

 

「サキさん、なんだか体が変なんです。感情が……何も感じないんだ。喜怒哀楽の『怒』と『哀』だけじゃなく、『喜』も『楽』も消えてしまったみたいで」

 

 サキは僕を見て、クスクスと、銀鈴を転がすような声で笑った。

 

「当然ですよ、蓮様。罪悪感とは、人間が人間であるための『核』なんです。それを食べ尽くしてしまえば、残るのはただの空っぽな器だけ」

 

「……なんだって?」

 

「あなたはもう、十分に人間としての味を失いました。でも、安心してください。最後の仕上げが必要です」


 サキの姿が、揺らめき、膨れ上がった。


 彼女の白い肌は硬質な鱗に覆われ、美しい顔の中央に、巨大な『口』だけが垂直に裂けた。そこから溢れ出すのは、これまで僕が彼女に食べさせてきた、おぞましい悪臭を放つ『罪の記憶』の濁流だった。


 

「あなたが捨てた罪悪感は、私の胃袋で発酵し、今、現実となってあなたを飲み込みます」

 

 店の床から、死んだはずのルナの形をした『黒い影』が這い出してきた。


 影のルナは、僕の喉笛に食らいついた。


 痛みはない。なぜなら、痛みを感じる心さえ、もうサキに食べられてしまったから。

 

「ごちそうさまでした。……次は、あなたの『存在そのもの』をいただきましょう」

 

 サキの巨大な口が、僕の視界を真っ暗に染め上げた。

 

 ――翌日。

 街のニュースでは、一人の男が自宅で『衰弱死』していたことが報じられた。


 外傷はなく、病気でもない。ただ、全身の細胞から『生きる意思』だけが抜け落ちたような、奇妙な遺体だったという。

 

 その遺体の傍らには、一匹の黒猫が座っていた。


 猫は、男の顔を冷たく見下ろすと、満足げに喉を鳴らして、誰もいない空間へと消えていった。




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