黒い箱

不労りング

光合成


まるで雨乞いの儀式のよう。

私は何度も何度も繰り返し頭を垂れる。

水神を愛でる祝詞も添えて。

決して粗相の無いよう慎重に。

舌と唇だけを使い柔らかく丁寧に唱える。

じゅるじゅるじゅぼじゅぼと水音をたてながら一心不乱に祈るうち、神と一体化した感覚になっていく。

やがて豊かな命が溢れ出し、私は恵みに酔い痴れた。

「普通に起こしてくれていいんだよ?」

「今はこれを普通にしたいんです」

「うーん」

「嫌でしたか?」

「…気持ちいいし嬉しいし、目覚めもいい」

「じゃあアラームよりいいですよね?」

「わかったよ…でも、君が嫌ならしなくていいからね」

「はい」

返事しつつ恵みを味わう。

良薬なのだろう。

苦みに慣れてから飲み込むと、1日の活力を頂いた気がした。


太郎さんが歯磨きしに行くのを見届けてからコンロに火をつける。

カップにインスタントの粉末を小さじで1、2…2.5杯入れ、朝食の準備を進めながらお湯の完成を待つ。

太郎さんはなにかとルーズだ。

他人へ注ぐ気遣いの量がやかん一杯分だとしたら、太郎さん自身に振りかけられるのは霧吹き一回分くらいのもの。

そしてその霧に電子ポットという贅沢は含まれていなかった。

「よし」

必要最低限の量しか入れてないのであっという間に沸く。

やかんがシュウシュウ鳴き始めたところで火を止め、できたお湯をカップへ。

濁流が粉末を飲み込んでいくとともにいつもの香りが漂う。

原始的で安っぽくて…だからこそなのか、妙に蠱惑的な香り。

ドス黒くもかぐわしい液体を小さじでかき混ぜテーブルへ運ぶと、ちょうど太郎さんが現れた。

「…うん、いつも通り絶妙だ。

ありがとう花子」

かろうじて湯気が立つくらいのぬるいコーヒー。

これで歯磨き粉の味に打ち勝ってからの朝食が彼のルーティン。

「褒めてもらえるのは嬉しいですけど…本当に美味しいんですか?」

怒っているわけでも嫌味を言いたいわけでもない。

純粋に疑問だった。

私に言わせれば同じ苦みでもお茶に比べコーヒーはひねくれすぎている。

「美味しくはない」

太郎さんの返答で疑問はより深まった。

「あ、淹れ方は最高だよ。

でもジュースとか味噌汁の美味しいとは全然違う」

「じゃあ、歯磨き粉味を流すためだけに?」

「大人になるため…かな」

「…苦いから?」

「もちろん見栄を張りたいなんて話じゃないよ。

この苦みを味わっているとね、他の苦しい事への耐性も育っていく気がするんだ。

その修行を、体が欲しているんだと思う」

「そんなに苦しい事ばかりなんですか…?」

「君がうちに来てくれてからは随分楽になった。

このままこの生活を続けられれば、いつかコーヒー断ちする日が来るかもな」

「んもう…」

ひねくれた感謝を受けた私は、苦い愛情をせがまずにいられなかった。


「ん」

仕事へ行こうとする太郎さんに両手を広げる。

抱き合った時、今度は白米と玉子焼きの甘みを伝えられた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

ほんの数秒でも油断はできない。

別れの挨拶を済ませてすぐ身を隠す。

玄関ドアが閉まりきるまで確実に。

冬の化身たちに見つかってしまわぬように。

「さてと」

愛しい背中へ隔絶の音を届けたくない。

太郎さんが充分遠ざかったのを確認してから鍵とチェーンをかけ、ワンルームに向き直る。

仕事の時間だ。

まずあれこれ放り込んだ洗濯機に命を吹き込む。

この子はゴガゴッ、ゴガゴッとむせながらでしか動けないけど、私には長生きを祈るくらいしかできない。

放置して、次は掃除機に餌やり。

私の知ってる掃除機より何倍も大きく何十倍もうるさい彼?の事は正直苦手だけど、最近ようやく慣れてきた。

それが済んだら雑巾のメイクをあちこちでかき集め、臭くなりたがる洗濯物たちをアイロンで躾けていく。

太郎さんのために。

そして私の幸せのために。

好きな人のために働く…たったそれだけの事で満たされてしまう己の器の小ささに最初は驚いたものだ。

今となってはその驚愕自体恥ずかしい。

自分をどれほど高く見積もっていたのか、と。

太郎さんと暮らし始めるまでに学んできた全てが今の私を否定している。

でも、もうどんなに嬉しくてもその喜びが自然で誇らしい事だと納得できる。

私は雪原をたくましく駆けるより暖炉のそばで冬に怯えていたい。

そのほうが暖かくて幸せだし、暖かい幸せを望むほうが人として真っ当だと思うから。


花子が家に来てからもうじき2ヶ月。

はじめは戸惑いと後悔で脳が弾け飛びそうだったが…今では落ち着いている。

後悔どころじゃなくなってしまったのだ。

思えばかつての自分は解答欄を埋めようとしていなかった。

人生の問い。

目標、理想、生活、仲間、正義…問われる順に従い書いてきた。

後で直す事もあった。

だが、どこにどんな問題があるかを探した事は無かったし、探していないという認識すら無かった。

その怠慢に気付かせてくれたのが彼女だ。

家に帰れば花子がいる。

花子が俺に尽くしてくれる。

俺が花子のために生きられる。

たったそれだけの事が教えてくれたのだ。

幸福の欄の存在と、そこに書き記すべき答えを。

浅ましいとは思う。

ただ同時に、その浅ましい低みこそ人間本来の居場所だと、強く強く思う。

もし神がこの解答にバツをつけるなら俺は人間をやめてもいい。

他の答えなんかどこを探しても無かったし、見つけてしまえば悲しむ女がいる。

俺は花子が喜ぶならどんな事でもするだろう。

下ろし金の坂から転げ落ちようとも。


私は花子って名前が好きじゃなかった。

地味でダサくて古臭くて…馬鹿にされる要素でしかない呪いだった。

今は太郎さんのおかげで自分そのものだと思える。

地味でダサくて古臭い花。

それを愛せるようになった。

私は太郎さんという太陽を求めて自分をさらけ出す。

陽の光は私を全身くまなく照らしながら、栄養欲しさに突き出される花弁を愛撫していく。

歓喜が根から茎から流動し、もっともっとと花びらを開かせる。

意地汚い食欲に太陽は快く応えてくれた。

優しく、力強く、何度も何度も繰り返し、私の奥の奥まで光を届けてくれる。

熱い。

根まで焼き切れてしまいそう。

なのに花も茎も焦げるどころか止め処なく燃え盛る。

葉花全てを余さず使って抱きつくと、燃料を受け取った太陽もより激しく燃え上がった。

光に貫かれ輝く花は、どこか遠くで命の雨水が放たれるのを感じていた。


「はいあーん」

「…………」

「あーん」

「早めに教えておく。

可愛いって言われて喜ぶ男はほとんどいないし、とりあえず俺は違うからね」

今日は太郎さんの休みの日。

はしゃぐ私は朝から甘えて釘を刺された。

「……あーん」

「……おいしいです」

仏は3度までしか穏やかな顔でいてくれないそうだけど、太郎さんは困ったおじさんの顔から先生の顔になり、3度目に仏の顔で私の焼き鮭に食いついてくれた。

「じゃあお返しだ。

はいあーん」

「あーむっ」

玉子焼きを差し出されたので即座に頬張る。

甘い甘ーいデザート感覚の味付け。

鏡がなくても自分がだらしない顔になったとわかる。

その様子を太郎さんは神妙な面持ちで見つめていた。

「君にはいつも教えられてばかりだ。

子供の遊びだと思ったが、けっこういいねこれ」

「ふふふっ」

「はははっ」

楽しそうな太郎さんを見て私が笑うと、私を見た太郎さんも笑った。

とても暖かい朝だった。

冬から隠れる小箱の中は、他の何よりも私を潤してくれた。


私が食器洗いをしていると外で車の止まる音がした。

バタンバタンとドアの閉まる音が複数続く。

「思ったより遅かったな」

「そうですね」

短くやり取りした後すぐにインターホンが鳴り響く。

もともと人の耳へ乱入するため作られたそれは、なにか特別な悪意を纏っているように聞こえた。

太郎さんは慌てもせず普通に開けようと玄関に向かったけど、その前に合鍵で勢いよく開け放たれる。

玄関の向こうには外見に正義のせの字も感じ取れない強面の男が数人立っていた。

「未成年者略取、及び不同意性交等罪の容疑で逮捕する。

わかってるよな?」

「はい」

泣かないつもりでいた。

でも強面が太郎さんに手錠をかけるのを見ると、どうしようもなく涙が溢れ出てくる。

すると…そんなわけないけど。

偶然だってわかるけど。

涙のこぼれる音を聞きとったみたいに太郎さんが振り返った。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

玉子焼きの甘みを伝えて送り出そうとしたら、強面の一人に肩を抑えられてしまった。


《…次のニュースです。

約2ヶ月の間行方不明だった小学6年生の女の子が担任教師の自宅に監禁されていたところを無事保護されました。

担任の男は1人暮らしで、仕事で外出中にも関わらず部屋から音がする、との通報を受けた警察が誘拐事件として容疑を強めていました。

逮捕された男は全面的に容疑を認めているとの事です》

《はい、またしても教師による児童への犯行ですが…どう思われます?》

《そうですね、いや〜もう許せないですよね!

子供を持つ親としては本当に恐怖でしかない!》

《取材によりますと、この女の子は容疑者の留守中家事をやらされていたとかで、警察に保護された際には涙を流して喜んでいたそうです》

《安心したんでしょうね。

本当に良かったです。

変態男のために児童労働させられるなんてもう本当に可哀想で可哀想で…トラウマになりますよ!》

実家に帰った翌日の朝、リビングの70インチテレビが太郎さんのアパートを映していた。

あることないこと言われているが何も言い返す気にはなれない。

黒を指して何色か聞かれたら黒いと答えるのが当たり前だし、蓋を開けて見せたところで雪に埋もれてしまうのがオチだ。

特別気にもせず朝支度を進めていると母なる冬が少し吹雪いた。

「花子、わかった?

あなたが普通だと思ってても本当は違うの。

被害に気づいてないだけなのよ。

グルーミングって言ってね?

大人は理解者のふりして近寄ってくるけど、それは汚い欲望を満たそうとして子供を利用するための手口なの。

何か寄り添うような親切な事を言われても絶対信じちゃダメ。

そういう奴らはあなたの実際の気持ちなんてどうでもいいと思ってるんだから。

どんなにもっともらしくて優しい言葉を使っててもね、いざ意見が衝突したら脅しで無理矢理従わせにくるのよ。

結局自分の都合に合う歪みを正当化したいだけ。

もちろん本人はそんなつもりじゃないって否定するわ。

でも口先の嘘っぱち。

嘘でないなら異常者の思い込みね。

自分の考える幸せがあなたの本当の幸せだっていう妄想よ。

どっちにしてもあなたの望みが無視される事に変わりはないんだもの。

今度なにかあったら必ず相談してよ?

お母さんはあなたの味方だからね」

「うん、わかってる。

教えてくれてありがとう」

返事しながら電子ポットの給湯ボタンを押す。

原始的で安っぽい香りが黒い箱に広がっていくと、少し強くなれたような気がした。



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