窮救の野薔薇

葉月ケイ

第零章 〜野薔薇の咲かぬ庭〜



ワイローズ家の庭には、花が咲かない。


それは手入れが足りないからでも、土が痩せているからでもなかった。

この庭の主が、それを望まなかったのだ。


「花はな、マリーナ。咲いた分だけ、散るときに人の心を奪う」


ベッドに横たわる父――ランド・ワイローズは、そう言って微かに笑った。

その声は、かつて領主として命令を下していた男のものとは思えないほど、弱々しい。


「だから、この庭には要らん。余計な期待も、悲しみもな」


マリーナは、答えなかった。

答えられなかった、の方が正しい。


父の言葉の意味が、

マリーナはまだ完全には分からなかった。




寝室には、薪のはぜる音と、

静かな呼吸音だけがあった。

付き人のガルムは、壁際に立ったまま、

一歩も動かない。

まるで自分も家具の一部であるかのように。


「……ガルム」


ランドが名を呼ぶと、

鋭い灰色の目がわずかに動いた。


「俺がいなくなった後も、この子を頼む」


それは命令ではなかった。

領主の言葉ではなく、父の声だった。


「承知しております」


短く、しかし迷いのない返答。


マリーナは思わず、ガルムの横顔を見た。

いつも無表情で、

必要以上の言葉を持たない男。

けれどその目は、

今だけは、微かに揺れているように見えた。


「マリーナ」


父の声が、彼女を引き戻す。


「お前は……優しい子だ。」


「……」


「だから、それを捨てるな。

優しさを持ったまま、立て」


ランド・ワイローズは、

そこで一度、言葉を切った。

息を吸う音が、やけに大きく聞こえる。


「この領地は、重いぞ」


それは警告だった。

そして、託宣だった。


マリーナは、ぎゅっと拳を握りしめる。

爪が掌に食い込むほど強く。


「……はい」


かすれた声で、そう答えた。





その夜、

ワイローズ家の当主は静かに息を引き取った。

庭には、相変わらず一輪の花も咲かず、

冬の冷たい風だけが、屋敷を包んでいた。


そして――

まだその重みを背負うには、余りにも幼く、余りにも小さな背中の少女が、

知らぬ間に「領主」となった。




もう二度と聞くことのできない父の声のように、その夜はあまりにも静かだった。


「……お父、さま……」


 声は、ひどく幼かった。

 領主の娘でも、次代の当主でもない。

 ただの子供の声。


 返事はない。


 分かっている。

 分かっているのに、

 胸の奥がそれを拒絶する。

 歩み進もうとして、足がもつれた。

 床に手をついた瞬間、

 堪えていたものが決壊した。


泣き声さえ、暗い夜の闇に溶けてしまう。

マリーナは床に崩れ落ち、父の寝室の扉を背にして、声を殺すこともできずに泣いていた。


もう、返事はない。

呼んでも、叱っても、名前を叫んでも。


――父、ランド・ワイローズは帰ってこない。


喉が裂けるほど泣いて、息が詰まり、胸が苦しくなっても、

悲しみは軽くなるどころか、氷柱のようにマリーナの心を冷たく貫き、風穴を開けていた。


「……う、ぅ……」


嗚咽が漏れるたび、自分の声が嫌になる。

領主の娘が。

次代を継ぐ者が。

こんなふうに床に縋り、みっともなく泣きじゃくっている。


それでも、涙は止まらなかった。


足音がした。

ゆっくりと、慎重な歩調。


マリーナは顔を上げなかった。

誰が来たか、分かっていたからだ。


「……マリーナ様」


低く、落ち着いた声。

老いた獣のように、

しかし確かな重みを持つ声。


「ガルム……」


名を呼ぶと、それだけで涙が溢れた。

視界が歪み、彼の姿は滲んで見えない。


彼女は、震える声で言った。


「お父様はもう…いないのね…。」


ガルムは沈黙を貫く。

そして、その沈黙が答えであった。


「……最初の、命令よ」


その言葉に、ガルムの背筋が僅かに強張る。


マリーナは、顔を伏せたまま、

それでもはっきりと告げた。


「もし…もしも私が……この先、

何もかも捨てて逃げ出すのであれば……」


言葉が詰まる。

だが、噛み締めるように、続きを吐き出した。


「……貴方の剣で、私の胸を貫きなさい」


一瞬、空気が凍った。


「そして……

 私の遺体は……腐って、

 ボロボロになった状態で……

 誰にも弔われずに、捨て置きなさい」


それは、命令だった。

誰かを守るための言葉ではない。

誰かを導くためでもない。


自分自身に逃げ道を与えないための、

残酷な誓い。


ガルムは、しばらく沈黙した後、

静かに首を横に振った。


「……それは、受けられません」


短く、だが揺るぎない拒絶だった。


マリーナの肩が、びくりと震える。


「……どうして…?」


問いではなかった。

 震える声が、勝手に零れただけだ。


「命令よ」


 言い返した瞬間、

 自分の声が尖っていることに気づく。


「受けられません」


 ガルムは否定する。


「領主の、命令なの」


 ガルムは、視線を逸らさない。

 剣にも、手を伸ばさない。


「なりません。」


「どうして…」


病の痛み、苦しみに顔を歪ませることしかできなかった領主様の、最期の笑顔。


ーーマリーナを頼むーー


子を思う父の、最後の頼み。

しかし、ガルムは答えない。


「どうして聞いてくれないの⁉︎」


声がうわずる。

掠れながらもマリーナは叫び続ける。


「私には…もうこの領地以外に…お父様と私を繋ぎ止めるものは…もう無いのにっ…‼︎」


ガルムは、ただ沈黙を守っている。


「ここが、私の家なのよ。

家族も、墓も、責任も。

全部、ここにあるの。ここにしかないの。」


声が恐怖で震える。


「もし私がここで逃げたら――

領民は死に、私の帰る場所は無くなるの。」


声の震えが収まる。

ひとつの覚悟を決めたかのように。


「だから…あなたに命じたのに。」


涙で潤んだまっすぐ瞳で、ガルムを見る。


「私が、私でなくなるくらいなら…

ここで、終わらせてほしいって…

思っていたのに…

それが、領主としての最低限の責務なのに…」


 言葉は途切れ途切れ…だが、言い切った。


 マリーナの背は曲がってる。

 心も挫けている。

 だが…芯は折れてはいなかった。


それだけで…

覚悟を受け継ぎ、背負うものとしての責務が、

少女の小さな背中には確かに存在した。



 一拍。

 一瞬ではない一拍。

 顔を上げ、ガルムは語りかける。


「……感謝を。」


 否定ではない。

 理解した者の声だった。

 マリーナは顔を上げる。


「あなたが、ここに立つ理由も、

逃げないと決めていることも。

この地があなたの家であることも。

すべて受け取りました。

そのお覚悟に、心から感謝を。」


マリーナの瞳がガルムを映す。

しかし、期待しているからではない。

次の台詞を、マリーナは予知していた。


「それでも。」


その一言が、重く落ちる。


「その命令は、受けられません」


 マリーナの眉が、わずかに動いた。

 だが、声は上げない。


 ガルムは、一歩前に出た。

 いつもと同じ距離。

 彼女の、半歩前。


「あなたの覚悟は、本物です。

逃げないという決意も、揺らいでいない」


 だからこそ、と続ける。


「私が剣で、それを縛ることはできない」


 ガルムは、自分の腰の剣に視線を落とした。


「この剣は、敵を斬るためのものです」

「逃げようとする者を、止めるためのものではない」


 視線を戻す。


「あなたが背を向ける日が来るとすれば――」

「それは、芯が折れた日です」


 声は、低く、揺れない。


「その瞬間に、

 私はあなたを斬ることはできません」


 沈黙。


「私は、あなたを生かすためにここにいます」


 それは、命令ではない。

 宣言だ。


「あなたが逃げるなら。

 私は、その前に立ち塞がります」


 盾の言葉だった。


「斬るのではなく、止める

押し倒してでも、ここに戻す」


 一歩、さらに前。


「あなたが倒れるなら

私は、その前に倒れます」


 視線が、微動だにしない。


「それが、

 私が引き受けた役目です」


 マリーナを、見下ろさない。

 見上げもしない。


 同じ地面に立ったまま、

 一歩前に立つ者の距離。


「ですから――」


 ガルムは、はっきりと言った。


「あなたの覚悟を、

 剣で縛ることはしません」


 その代わり。


「あなたが進む限り、

 私は必ず、先に立ちます」


 言葉が、空気を定める。


 マリーナの前から、

 逃げ道が消えた。


 それは、剣ではなく――

 盾である事の誓いであった。

 


 「ありがとう…でもねガルム。」


ガルムの言葉に、

マリーナの心に刺さった

氷柱の表面にヒビが入る。

しかし、彼女の心には、

未だ冷たい氷柱が突き刺さっている。


「私、ひとりぼっちになっちゃった。

私に忠誠を誓ってくれる貴方や家臣はいる。

私を慕ってくれる民もたくさんいる。

でも…

マリーナと優しく声をかけてくれる人も…

私を抱きしめてくれる腕ももう無い。

私の頭を撫ででくれる感触も…

味わえないの。」


止まりかけた涙がまた溢れ出す。


「ガルムのように背中を押してくれる、守ってくれる人達は沢山いるのに…

貴方のように手を引いてくれる人はいるのに…

私を優しく包み込んでくれる人は…

もう、この世界には居ないの。」


 ガルムは、すぐには近づかなかった。

 剣にも、盾にも触れず、ただ一歩前に。

 立ったまま、静かに言葉を選ぶ。


「マリーナ様。

その寂しさは、

誰かの忠誠でも、民の感謝でも、

埋まるものではありません。」


 少しだけ、声を落とす。


「私は、貴女の盾です。

前に立ち、守ることは出来ます。

ですが――

父上のように、あなたを包むことは出来ません。」


 視線を逸らさない。


それは、出来ない。

それだけは、してはいけない。


 間を置いて、しかし逃げずに続ける。


……ですが。


 ガルムは、ゆっくりと膝をつき、

 それでも“抱きしめる距離”には踏み込まない。


「あなたが、ひとりぼっちだという事実から、

私は目を背けません。」


 低く、確かな声で。


その孤独を消すことは出来ない。

父上の代わりになることも出来ない。

――それでも。


 拳を胸に当てる。


「その孤独を抱えたまま立つあなたの前に、

私は必ず居ます。」


 盾としての誓い。


「あなたが泣く夜も、

声を出せない朝も、

ひとりぼっちなのだと思ってしまう瞬間も。」


 ほんのわずか、表情が緩む。


「手を引くことしか出来ません。

家族のように抱きしめることも、

頭を撫でることも…私には出来ません。

ですが――

あなたが倒れそうな時、

その一歩前で、必ず受け止めます。」


 静かに、しかし断ち切るように。


「それが、私に出来る唯一のやり方です。

そして私は、その役目から逃げません。」


 最後に、短く。


「……あなたは、ひとりです。

ですが、独りではありません。」


 その言葉だけを残し、

 ガルムは、いつもの距離に立ち続けた。


ガルムは優しかった。ランドに、マリーナに

心から忠誠を誓っていた。

故に、残酷だった。父の代わりになんてならないのだから。


「それならばガルム…お願い…

お父様のようにじゃない…

今は、泣きじゃくる孫をあやすおじいちゃんのように私を抱きしめて…」


新たな領主…いや、1人の少女は懇願する。


「大丈夫だマリーナ。って。

優しく抱きしめて、頭を撫でて、

安心させて。」



 ガルムは、もう一歩前に出た。

 盾としての距離でも、

 従者としての距離でもない。


1人で泣く孫をあやす、

優しいおじいちゃんのように。


大きな手が、ためらいなく

マリーナを抱き寄せる。

鎧越しではない、力のこもらない腕。


 逃がさないためではなく、

 領主が少女に戻る場所を与えるための抱擁。


……よし、よし。


 背中に回された手が、ゆっくりと上下する。

 戦場で部下をあやす時の動きではない。

 昔、まだ小さかった頃に覚えた、ただの癖だ。


「大丈夫だ、マリーナ。

大丈夫だぞ。」


 額に触れることはせず、

 代わりに、頭のてっぺんをそっと撫でる。


「……なぜなら君は、前領主

ランド・ワイローズの娘なのだから。」


 その名を、誇りとして。そして何より

 温もりとして口にする。


マリーナの啜り泣く声が、

次第に大きくなっていく。

まるで、ひとりぼっちで迷子になっていた子供が、祖父を見つけて安堵して、泣きじゃくるように。


泣いていい。

今は、泣いていい。


 声は低く、揺れない。

 だが、拒まない。


お父上は、

貴女を一人にするために

あの背中を見せていたわけではない。


 撫でる手が、止まらない。


貴女が、ここに立つと信じていた。

怖くても、寂しくても、

それでも前を向けると――

そう信じていた。


 少しだけ、抱きしめる腕に力が入る。


「私がいます。

祖父にはなれません。

ましてや父にもなれませんが…

私が側にいます」


 それでも、はっきりと。


……泣きじゃくる孫を抱くことくらいは、

この老いぼれにも出来る。


頭を撫でながら、繰り返す。


「大丈夫だよ、マリーナ。

大丈夫だ。」


 ここに居る。

 貴女はここに居る。

 それだけで、

 この老いぼれは死ぬわけにはいかない。


 ガルムは、何度でも、

 その言葉を与え続けた。


少女の泣き声は夜の闇に消えていく。

それは後に、「野薔薇姫」と呼ばれるようになる新たなる領主、

 マリーナ・ワイローズが生まれ変わった産声であるように――


夜は、まだ深い。

だがこの瞬間、確かに。


ワイローズの未来は、産声を上げた。








――第零章・了

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