三十年後に届いた白い手紙
柳澈涵
三十年後に届いた白い手紙
「公爵令嬢。
今日は、私の戴冠舞踏会です」
若い皇帝は、そう言って私を見た。
微笑みは礼儀正しく、声も抑制されていたが、その奥にある苛立ちは隠しきれていなかった。
「このような日に、三十年前に処刑された者の話を持ち出す必要が、あるのでしょうか」
音楽は続いていた。
天井から垂れ下がる無数の燭台が、舞踏会場を柔らかく照らしている。
笑い声、衣擦れの音、グラスが触れ合う乾いた響き。
ただ、私に向けられる視線だけが、少しずつ重さを増していた。
私は何も答えず、ドレスの内側から一通の手紙を取り出した。
黄ばんだ封筒だった。
角は擦り切れ、封蝋は乾いてひび割れ、紋章の形も判別できない。
両手で持ち、皇帝の前に差し出す。
「祖母が亡くなる直前、私に託したものです」
それだけを告げた。
皇帝は短く息を吐き、半ば投げるように封を切った。
最初は、ただ形式的に目を走らせているように見えた。
だが、数行を読んだところで、彼の動きが止まった。
顔から血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。
指先が、わずかに震えていた。
三十年前、帝国では一度きりの反乱が起きた。
それはすぐに鎮圧され、公式の記録からも姿を消した。
代わりに、一人の少年の名だけが「反逆者」として残された。
皇太子——後の太上皇の側近。
「帝国の剣」と呼ばれた、若い護衛だった。
処刑の日、街には人が溢れていた。
歓声と罵声が入り混じり、断頭台の周囲は祭りのようだったと聞く。
ただ一人、その罪を信じなかった者がいる。
当時の公爵家令嬢。
私の祖母だ。
冬の朝、彼女は裸足で屋敷を飛び出し、雪の積もった道を走った。
靴を落とし、裾を汚し、それでも足を止めなかった。
だが、間に合わなかった。
処刑が終わった後、雪の上に残されていたのは、引き裂かれた衣の切れ端だけだった。
そこに、血で小さく書かれていた名を見た瞬間、
祖母はその場に崩れ落ちたと、後に聞いた。
それは、幼い頃に彼だけが呼んでいた、彼女の名だった。
人々は言った。
「公爵家の令嬢は、気が触れた」と。
彼女は縁談をすべて断り、
帝国の辺境、ほとんど人の通らない山道に、小さな郵便局を開いた。
三十年。
その郵便局は、一日も閉じられることがなかった。
「……この手紙には、何が書かれているのですか」
皇帝の声は、掠れていた。
私は彼を見て、静かに答えた。
「謝罪でも、王家への抗議でもありません」
「彼が処刑される前に書いた、ただの記録です」
皇帝は視線を落としたまま、続きを促さなかった。
「彼は、自分が切り捨てられる存在だと、最初から理解していました」
「もし弁明すれば、真実を隠すために、王家は公爵家を滅ぼすだろう、と」
「だから、彼は沈黙を選びました」
言葉を選びながら、私は続けた。
「彼が悔やんだのは、ただ一つだけです」
「雪が止む前に、この手紙を、彼女に直接渡せなかったこと」
信の最後に記されていた一文を、私はそのまま口にした。
「もし三十年後、
私が別の名で生きていたなら、
あの郵便局の前で、もう一度、彼女の手を取りたい」
皇帝は、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。
北境で戦果を挙げながら、
褒賞をすべて辞退し、
辺境への配属を願い出た若い将軍。
その存在を、彼が知らないはずがなかった。
音楽は、いつの間にか止んでいた。
私はドレスの裾を持ち、舞踏会の中央で、静かに一礼した。
「この婚約は、お受けできません」
それ以上の説明はしなかった。
私は背を向け、扉へ向かう。
重い扉が閉じる音が、光と囁きと視線を、すべて遮断した。
夜、雪は音もなく降り続いていた。
辺境の山道に、郵便局の灯りが見えた。
三十年間、変わらず灯り続けてきた光だ。
門の前で、黒い軍服の青年が馬を降りる。
彼が顔を上げた瞬間、私は理解した。
説明は、必要なかった。
彼は私を「公爵令嬢」と呼ばなかった。
手紙に記されていた通り、
祖母だけが知っていた、その名で、私を呼んだ。
雪は、相変わらず降り続いている。
三十年遅れの手紙は、
その夜、ようやく宛先に届いた。
三十年後に届いた白い手紙 柳澈涵 @RyuChohan
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