祈り鶴

一式鍵

祈り鶴

 「折り紙」を見たことも聞いたこともないなんて日本人は、おそらくいない。だけど、その大半は「表面は赤や青の一色、裏面は白」「金と銀が一枚ずつ」……この程度の認識だと思う。100円ショップにも当然のように置いてある。


 しかし実際には、ものすごくたくさんのバリエーションがあるんだ。美しい花の模様の入ったもの。幾何学模様がプリントされたもの。表と裏でまったく別の色になっているもの。折ると花札柄の折り鶴ができるもの。……とにかく、折り紙には素材も含めてものすごくたくさんの種類がある。


 僕が折り紙に魅せられたのは大学生の頃だった。夏の終わり、教育実習で小学校に行った時、休み時間になるとせっせと鶴を折る男の子がいた。担当したクラスは三年生のクラスで、なんというか、とても元気の良い集団だった。


 その子を揶揄する子たちもある程度はいたが、その子の周りには常に友好的な誰かがいた。鶴の折り方を学ぼうとする子、そのスピードと正確性を賞賛する子、あわよくば完成品を持ち帰りたいと願う子。あらかじめ言っておくと、実習期間中に、生徒間で僕が危惧するようなことは起きなかった。元気な子たちは多かったが、今時問題になっているような行動を起こす子は見当たらなかった。


「すごいね、折り鶴」


 僕は実習初日の最初の中休みで男の子に声を掛けた。名前は確か、佐竹さたけ浩一こういち。三年生にしてはひょろりと背が高く、髪の毛は長めだったがちゃんと整えられていた。服装は黒いジャージとTシャツで、Tシャツの胸には高級ブランドのロゴがあった。ジャージもブランドものだろう。きっとお金持ちの家の子なんだろうなと僕は察する。


 浩一君は手を止めて僕を見上げた。


「ええと」

東雲しののめ。東雲健太郎っていうんだ」

「不思議な名前」


 ぼそぼそと浩一君は言った。確かに東雲なんて珍しい名前だ。


「先生は鶴を折れますか」

「最後に折ったのは君くらいの年の頃だよ」


 ざっくり十年ぶりってところだ。入院中のクラスメートにみんなで鶴を……なんて、今思えばはた迷惑な企画に参加させられたその時が最後だ。


「折ってみて」


 浩一君は机の中をまさぐって、僕に美しい花の模様がプリントされた折り紙を差し出した。見るからにお高そうなその一枚を受け取って、僕はちょっと緊張した。


「お、佐竹君、また折り紙バトル?」


 教室に入ってきた担任の東海林しょうじ数美かずみ先生が僕の肩越しに声を掛ける。東海林先生は僕より五歳年上だが、教員としては若手だった。だけど、指示は明確で、声は大きく、常に生徒の方を向いている。生徒たちも東海林先生の言うことはよく聞いていた。初日の最初の二時間だけで、慕われてるのだとすぐに理解できた。


 東海林先生のショートボブはこれぞ日本人というべき、烏の濡れ羽色だった。着ているのは動きやすさ重視のジャージ。浩一君のとは違って、ブランド品ではなかったが、十分に清潔感があった。


「折り紙はバトルに使うものじゃない……」


 浩一君は顔を上げずにぼそぼそと言う。そのころすでに僕は折り鶴の折り方を思い出しながらチャレンジを開始している。いい紙っぽいから失敗したら申し訳ない。そういうプレッシャーとも戦いながらだ。


 僕は浩一君の手元を盗み見る。浩一君は僕が使ってるのよりもずっと小さなキラキラした紙で何かを折っていた。途中までは同じ工程だったのに、何か違う。


「浩一君、それは?」

「祝い鶴」

「祝い、鶴?」


 僕は隣に立っている東海林先生を窺った。東海林先生は「さぁ?」と首を傾げながらも、その視線は浩一君の手元に集中している。


「わぁ、すげぇ!」


 男子の一人が歓声を上げる。浩一君の指先が踊り、「祝い鶴」がどんどん立体感を持ち始める。


 僕も東海林先生も、クラスの子たちも、今やみんな浩一君の指先と、その先にあるものに夢中だった。浩一君は得意げになるわけでもなく、淡々とその「尻尾」を広げていく。扇のように広げられたその尻尾は、キラキラの紙の力もあって、本当に輝いて見えた。


「祝い鶴」


 浩一君はもう一度言って、それを机の上に置いた。


「すごい、イッチ!」


 女の子の一人が手を叩く。イッチと言うのが浩一君のニックネームなのだろう。


「折り方教えて!」


 他の子が殺到する。僕も知りたい。


 その完全アウェイな空気の中、僕は平凡な折り鶴を完成させ、浩一君の目の前に置いた。


「東雲先生」

「うん?」

「とても丁寧」


 浩一君はそう評価してくれた。持って生まれた指先の器用さに、僕はたぶん初めて感謝した。


「ありがとう、浩一君。折り鶴で褒められたのは初めてだよ」

「僕は折り鶴でしか褒められたことがない」


 浩一君はようやく視線を上げ、僕を見て笑った。それは決して小学三年生らしくない、大人のような表情だった。


「あら失礼ね、佐竹君。先生、たくさん褒めてるじゃない」


 東海林先生が腰に手を当てて抗議する。


「先生はみんなを褒めるから。僕だけが褒められることって折り鶴だけって意味」

「得意なことがある佐竹君はすごいんだよ。みんなこれから少しずつ得意なことを見つけていくのに、佐竹君にはもう自慢できることがあるのよ」

「でも、折り紙なんて、将来何の役にも立たないって」

 

 浩一君がだんだんと饒舌じょうぜつになっていく。僕は東海林先生に視線をやってから、浩一君の目の前に置かれた「祝い鶴」を借り受けた。


「そう言われたの?」

「お父さんとお母さんに」


 親御さんか。僕は祝い鶴の構造をしげしげと観察しながら唸る。


「将来役に立つか立たないかでやりたいことを我慢するのは、ん-……」


 中休み時間はあと十分。


「そうだ、東雲先生、職員室に来てもらえる?」

「あ、はい」


 僕は東海林先生について職員室に行った。


「実はね」


 僕の席は、運よく空いていた東海林先生の隣だった。


「佐竹君の家、ちょっと複雑で」

「複雑?」

「継父なの。お母さんが離婚して浩一君の親権もって、それで再婚したの」

「暴力振るわれてる、とか」

「ううん、そんなことはなくて。ネグレクトでもない」


 それを聞いて僕は胸を撫でおろす。


「だけど、佐竹君は息苦しさを感じてる。生きづらさを感じてる。お父さんともお母さんともうまくいっていないみたいなの」

「大人からしたら大したことなく見えても、本人には深刻かもですね」

「さすがK大学児童心理科。じゃぁ、佐竹君が必死に鶴を折ってる理由は何だと思う?」

「それは情報が少なすぎますよ」


 僕は首を横に振る。


「私たち教員だって、ものすごく限られた小さな小さな世界の情報だけで、子どもたちと向き合わなきゃいけないのよ、東雲先生。だから、間違えることもある、その子の一生を変えてしまう可能性だってある」

「怖い仕事ですね」

「そうわかってるなら大丈夫よ」


 東海林先生は頷く。


「で、さっきの答えは?」

「自分の好きなもので褒められたいから」


 僕は思い切って言ってみた。


 東海林先生は右手の親指を立てた。


「そう、好きなもので、褒められたい。承認欲求って言葉で片付けるのは造作もないけど、そうじゃない。自己実現の手段、居場所を作る手段、アイデンティティを確立する手段……佐竹君にとってみたら、折り紙ってそういうもの」

「でも、浩一君はなんか満たされてる感じはしませんでした」

「そうね」

「それはご両親に褒めてもらえてないから?」

「可能性の話ね」


 東海林先生は頷く。


「でもここで大事なのは、あのクラスには他に二十四人の生徒がいるということ。東雲先生ならどうアプローチする?」


 そこでチャイムが鳴った。


 その日、僕は初日ということもあり、また、帰宅が午後十時近かったこともあって、ぐったりと疲れていた。シャワーを浴びてコンビニ弁当を食べ、僕が独自に用意してきた実習ノートに今日のことを思い出せる限り書き出した。


 ――浩一君の御両親の所でペン先が動かなくなる。


 僕にはそもそも親がいない。


 僕が保育園の年長にいた時の話だ。いつもは薄暗くなるころに迎えに来る母が来なかった。


 たまたま出張から早く帰ってきた父と共に、僕を迎えに来ようとしていた。その途中で事故に遭ったのだ。詳しいことはもう覚えていないけど、幼かった僕は、その亡骸を見ることは許されなかった。叔父や叔母も、祖父母も疎遠だった僕は、その日を境に天涯孤独となった。僕は父や母がどうしていないのか、全然理解できていないままに施設に送られた。


 そこでの生活が楽しかったか?


 多くの人はここで不幸な境遇を訴えることを期待する。


 だけど僕はそうは思わなかった。不便はたくさんあったけど、そこにいることで僕は自らの不幸を薄めることができた。だって、周りの子たちも皆、得てして似たような境遇だったからだ。僕だけが不幸なわけじゃない――僕はそう思って一歩一歩生きてきた。


 浩一君はきっとそこまで不幸なわけじゃない。ほんの少し幸せが欲しいだけだ。


 僕は一度そう書き込んで、すぐに横線で消した。


「祝い鶴、か」


 僕は型落ちで買ったデスクトップのパソコンの電源を点けると、「祝い鶴」を検索した。すぐに何十もの折り方解説サイトがヒットする。そのうちの一つ、一番きれいな見本の出ているサイトを展開して、僕はノートを一枚破った。そしてそれを手で正方形に整形し、見本に倣って折ってみた。


「おお」


 ノートの罫線が入った「祝い鶴」。めでたい席の箸置きなどにも使えるのだという。そしてなにより、ノートの切れ端で作ったのにも関わらず気品があった。


「浩一君の家庭環境、か」


 しがない教育実習生にそんなものが開示されることはない。それに、浩一君だけを見ているわけにもいかないし、そんな時間もないのが実情だ。東海林先生の動きを見ていればよくわかる。常に生徒全体を見て、偏りなくアプローチする。問題が起きそうなら事前に対処してしまう。しかも迅速に。僕には東海林先生のその指導ぶりは神がかって見えていた。


 職員室で気が付いたのは、東海林先生には味方になる恒例教諭が多いことだった。中堅どころとはどうにもぎくしゃくして見えたが、発言力のある教諭たちを味方につけ、場合によっては教頭先生に直接交渉をするなんてこともあるらしい。


「先生、か」


 東雲先生――。どうにも慣れない呼ばれ方だった。


 近い将来――このままいけば――僕はきっと教員になる。その時に東海林先生のように動けるだろうか。子どもたちに安全で快適な学校現場を体験させることはできるだろうか。そんなことを考える。


 ――東雲先生なら、どうアプローチする?


 東海林先生の問いかけ。今日はあの時間以後、浩一君の話はしなかった。東海林先生は何らかの意図を持って、僕にその問いかけをした。


「そうか」


 僕は教育実習生だ。現役教員のような動きを真似する必要はないのかもしれない。だってできるわけがないし。


 だったら――。




 ―*―*―*―*―*―*―




 そして翌日の給食の後に浩一君の席に向かった。


「どうしたんですか」


 怪訝そうな浩一君の目。僕は手にしていたノートのページの隙間から、昨夜折ったノート製の祝い鶴を取り出した。


「僕も作ってみたよ」

「見せてもらってもいいですか」

「もちろん」


 そうするために持ってきたんだ。


「この紙なのにエッジがシャープ……。先生、本当に器用」

「でも、君みたいに小さな鶴を折れるほど器用じゃないよ」

「えと」


 浩一君はそう言うと、ごついペンケースを取り出した。その消しゴム入れには消しゴムは入っておらず、代わりに小さな紙片がいくつもあった。


「ちがう、これ紙片じゃない」

「全部、鶴」


 信じられない。


「昨日、一センチの紙で折ったんです」


 それが十以上もある。恐る恐る手に取って観察してみるが、きわめて丁寧に、まるで見本品であるかのように美しい仕上がりだった。このままレジンか何かに閉じ込めてやりたいほど。


「レジン、か」

「レジン?」


 聞き慣れない単語だったのか、浩一君が聞き返す。するといつものようにこの席に集まっていた女子の一人が得意げに説明をしてくれた。


「透明な水晶みたいなものを作れる液のこと。うちのお母さんはUVレジンっていうのを使っているよ。その鶴で何か作ってもらえるように頼んでみようか?」

「え、いや、いいよ、悪いし」

 

 浩一君はどもりながら遠慮する。


 この積極的な女の子は、郷内さとうち輝美てるみ。三年生にしては小柄だが、授業を見ているとダントツで頭の回転が良い子だ。クラス代表も務めており、とても目立つ子だった。


「私が見てみたいんだけど、だめかな。一個貸してもらえない?」

「いくらでも作れるから、別にいいけど、でも」

「たぶんお母さんもびっくりすると思う! 大事に持って帰るから!」

「サティがそこまで言うなら」

「やった。ありがとう」


 勢いに押されて浩一君は作品を無造作に四つ取り出し、輝美さんの手のひらに置いた。


「サティのお母さん、びっくりするかな?」

「するする。これレジンに入れてもらうように言ってみるから!」


 輝美さんはいそいそと自席に戻っていく。女子たちの大部分と男子の一部は、未だに浩一君の席のそばにいる。大人気だ。東海林先生はここに集まっていない子たちと気さくに話をしているのが確認できた。


 目が合うと、東海林先生は「そのまま」と口の動きだけで伝えてきて、右手の親指を立ててみせた。


 僕は浩一君と向き合えばいい。正しいかどうかはわからないけど、今の僕にできるのはこれだ、と、僕は朝一で東海林先生に伝えていた。


「浩一君、もっと小さい紙で鶴折れる?」

「えっ?」


 僕が言うと、浩一君は目を丸くした。


「たとえば、5ミリの紙」

「それは……手では無理かなと」

「じゃぁ、これがあったら?」


 僕はポケットから直方体のケースを取り出して、開けてみせた。そこには精密ピンセットが入っている。


「……できるかな」


 浩一君は自信なさそうにそう言うと、ペンケースに入っていた子供用の小さなハサミを取り出した。そして自由帳に几帳面な5ミリ四方の線を引き、これまた器用にそれを切り取った。


 気付けばクラスの全員が周囲に集まっていた。誰も何も言わない。固唾をのんでその指先、そのピンセットの先を見つめている。


 隣のクラスの先生まで、その異常を察知して入ってきた。そして群衆の一人となる。


 斜めに折り、畳み、開き、裏返し。

 めくって、押し開き。

 広げ、折り。

 折り。

 折り。


 そして、広げる。


「折れたよ」


 チャイムが鳴るまであと一分。そのタイミングで折り鶴――いや、祝い鶴が完成した。限りなく小さなそれは、しかし子どもたちには宝石のように見えたことだろう。文字通り吹けば飛ぶようなその祝い鶴を、浩一君はじっくりと眺めまわして、一つ頷いた。


「できた」


 正式な完成宣言に、クラスは歓声に包まれた。


「すっげぇ!」

「器用すぎでしょ」

「俺にはぜってぇできねえ」

 

 思い思いの感想が飛び交い、しかし誰も浩一君の手にしたものを取ろうとはしなかった。触ったら壊してしまうかもしれない――皆そう感じたのだろう。


 僕は皆の歓声に同調はしなかった。僕は「ありがとう。さすがだよ」とだけ伝えて、ピンセットを返してもらった。


 その日の放課後、僕は教室で東海林先生と二人、今日の指導の振り返りをした。


「佐竹君のあんなに誇らしげな顔は初めて見たよ」

「僕はアイデアを提示してピンセットを貸しただけです」

「君、本当に学生?」


 東海林先生は苦笑した。


「山本五十六いそろく。知ってる?」

「連合艦隊司令長官ですね」

「君のさっきの行動で、ちょっとその格言と言うか、思い出しちゃって」

ってやつですか?」

「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」


 東海林先生はそう暗唱した。


「東雲先生がやったのがまさにこれ。で、私はと言えば『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』を実践しようとしているわけ」


 その後もまだ続くはずだ。僕は記憶を呼び起こそうとするが断念する。さすがにそこまで山本五十六語録に入れ込んでいなかった。


 東海林先生は腕を組んで、児童用椅子の背もたれに体重を乗せた。


「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず――だよ」

「先生こそ、おいくつなんですか。それ、相当経験の多い先生の実践ですよ」

「女性に年齢訊くなんて、よくないぞ」

「すみません」

「ま、華のアラサーだけど」


 東海林先生はニカっと笑った。


「うちはね、ずーっと教員なんだよ、ひいおじいちゃんの代から。だからいろんなものを父や祖父から受け継いできたつもり。もちろんさ、戦中や昭和教育のダメなノウハウもたくさん知ってる。だからこそ、アップデートは欠かしてないつもり。だけどおかしいよね、その根底にあるのが太平洋戦争の偉い人の語録なんだって」

「間違えてないんだから、いいんじゃないですか?」

「そっか」


 実際に、東海林先生の教育方針は(まだ出会って二日だけど)間違えていないと思う。その根底に確固たる意志があるから、ブレないんだと思う。


「今日は早く上がっちゃおっか」


 東海林先生はそう言って悪戯っぽく笑った。


 慣れない環境で疲労していた僕には渡りに船の提案だった。



 ―*―*―*―*―*―*―



 翌日の放課後だ。輝美さんのお母さんが学校にやってきた。親御さんが学校にやってくると聞いて、僕は緊張した。昨日の件の何かがまずかったかもしれない、と。


「緊張しないしない」


 東海林先生は僕を伴って教室に向かう。教室には輝美さんと、輝美さんによく似た雰囲気のお母さんが待っていた。お母さんは立ち上がるとにこやかな表情で頭を下げる。肩まである茶色がかった髪がさらりと落ちる。輝美さんも小さく頭を下げた。


「これ、昨日輝美に頼まれてて。でも、学校に勉強と関係ないものを持っていくのはと思って」

「お母さん、お気遣いありがとうございます。あ、こちらは昨日から教育実習で入った東雲健太郎先生です」

「輝美から聞いています。大学生、ですよね」

「K大児童心理科を卒業する予定です」

「まぁ、優秀!」


 お母さんの視線が少しくすぐったい。


「ああ、そうそう。これなんですけど」


 お母さんはバッグの中から小箱を四つ取り出して、机の上で一つづつ開けてみせた。


 涙滴ティアドロップ型の透明な石の中に折り鶴が浮かんでいる。


「いや、輝美さんが持って行ったのは……祝い鶴だったのか」

「はい。筆箱の中、半分くらいこれだったと思います」


 輝美さんがはきはきと答えた。東海林先生が僕の脇を肘でつついた。


「褒められたのが嬉しかったんだよ」

「きれいです」


 僕はその一つを手に取った。それらはキーホルダーに加工されていた。限りなく透明なレジンの海に美しい鶴が佇んでいる。教室に差し込むオレンジ色の西日に照らされたそれは、さながら黄金のようだった。


「これ、東海林先生と、ええと、東雲先生に差し上げます。お一つずつどうぞ」

「え、いいんですか?」


 東海林先生が僕を見る。


「私、何もしていませんけど」

「東海林先生がいなかったら東雲先生もイッチ君に働きかけられなかったと思いますよ」


 結局、お母さんに押し切られて、東海林先生と僕は一つずつ頂いた。


「ちなみに残りの二個は?」

「イッチ君と輝美にあげるつもりです」

「そりゃイッチ君のだから」


 輝美さんが言う。


「あれ、ということなら鶴はイッチ君のだから僕らがもらっちゃいけない気がする」

「ちゃんと許可もらってます!」


 どや顔をしつつ輝美さんは胸を張った。


 その時、教室のドアが開いて、教頭先生が顔を出した。


「佐竹君のお母さんがいらっしゃいましたよ」

「え?」


 僕と東海林先生は顔を見合わせる。輝美さんとお母さんに動揺はなかったから、もしかしたら口裏を合わせていたのかもしれない。


 ほどなくして、スリッパの音も高らかに、170センチを超える長身の女性が姿を見せた。その顔形は美人女優も斯くやと言うほどに整っていた。黒いパンツスーツは一目で高級品だと分かった。ブラウスも細かい刺繍が入っていて、庶民の手の届く者ではないことは明らかだ。手にしたバッグは某有名ブランドのものだ。


「お母さん、海外だったんじゃ」

「今さっき帰ってきたんですよ」


 はきはきしていたが、穏やかな口調だった。


「あなたが実習生の東雲先生ですね。浩一から聞いています」

「浩一君が?」


 東海林先生の意外そうな声が聞こえる。


「あの子、学校のことは全然話さなかったんですけど、さっき急にメッセージが来て。慌てて帰国後の予定をキャンセルしてここに来ました」

「メッセージ……」


 何だろう。ドキドキする。


「学校が楽しい。そう書いてあったんです。それと、とても小さな祝い鶴の写真も」


 お母さんはそう言って、その写真が写っているスマホの画面をこちらに向けた。


「この祝い鶴の折り方は、私があの子に教えたものなんです。でも……折り紙なんて何の役にも立たない。もっと自分を助けてくれることをやりなさい。私は何かの時にそう言ってしまったことがあったんです」


 浩一君のお母さんは下唇を噛んだ。


「ですが今、折り紙のおかげで、あの子は今クラスでみんなに囲まれて学校が楽しいと言っています。あの内気な子がそんなメッセージを送ってくるくらいですから、それは本音なんだと思います。その機会を与えてくださった東雲先生には感謝してもしきれません」

「それはあの子の力です」


 僕は首を振った。


「ですから、浩一君をもっともっと褒めてあげてください」


 僕はこの中で最年少だ。だから生意気なことを言ってしまったかもしれない。そこで爆弾を投じてきたのが輝美さんのお母さんだ。


「東雲先生のこと、輝美は好きみたいですよ」

「ちょっと、お母さん!」

「この年の子に好かれる先生は、いい先生なんです」


 お母さんはそう言って、箱の一つを浩一君のお母さんに手渡した。


「息子さんの勲章です。大事になさってください」

「ありがとうございます!」


 浩一君のお母さんは、絵に描いたように美しく一礼した。輝美さんのお母さんは「あらあら」と笑いながら、僕らに頭を下げて教室を出て行った。


 浩一君のお母さんは、窓のそばに立って、夕焼け空を見た。


「私は離婚してから仕事一辺倒で、浩一にあまりかまってやれませんでした。新しい夫も。結果として関係が希薄になって、たぶんあの子なりに孤独を感じていたんだと思います。その結果、あの子が傷ついてしまうような言葉を浴びせてしまったこともあるのかもしれません」

 

 お母さんの声に震えがあった。


「でも私、このままじゃだめだと、あの子のメッセージで気が付きました。幸い、今私が仕事をセーブしても死ぬことはありませんが、あの子とのつながりが薄くなったら死ぬほど後悔すると思います」

「お母さん……」


 東海林先生の声も震えていた。お母さんは言った。


「あの子の中の、の鶴をの鶴に変えたいのです」


 

 ―*―*―*―*―*―*―*―



 それから十年少々が経った。あの後、僕は教員になり、そこそこ経験も積んだ。僕は今年、教育実習をした小学校に異動になった。


 そして夏の終わり――。


「東雲先生、おはようございます!」


 早朝の玄関先で、元気よく声を掛けてきたのは、郷内さとうちさんだ。僕は上履きに履き替えてから、顔を上げる。


「おはよう郷内さん」


 パンツスーツをびしっと決めた郷内さんの胸元には、祝い鶴の入ったレジンのネックレスがあった。


「そうそう、昨日訊き忘れていたんですけど、先月のイッチの個展、行きました?」

「初日に行ったよ。久しぶりに会ったけど、あんまり変わってなかったな」

「極めたらあそこまでいくんですねぇ」

「子ども向けの出張折り紙教室も見てたけど、折り紙の話になるとめちゃくちゃ饒舌なんだよね、彼」

「わかります」


 郷内さんは笑う。


「イッチが折り紙極めたのも、私が先生になろうとしているのも、全部先生が悪いんですからね」

「え、悪いの?」

「責任取ってください」


 郷内さんはそう言って笑い、「冗談ですよ、冗談!」と、誰も見てないことを確認してから、僕の背中を二度叩いた。


「さ、今日も張り切っていきましょう!」


 郷内さんは右手を掲げてスタスタと先を行く。


 僕はポケットの中のキーケースに触れた。涙滴ティアドロップ型のレジン細工が、指先に触れた。


 祈りの鶴を、祝いの鶴に、か――。

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