ARグラスを閉じたら、即死する。 八ヶ岳デジタル山岳怪異譚

ソコニ

第1話 バックグラウンド・デス ――八ヶ岳・デジタル山岳怪異譚――

第一章 完璧な登山日和

 2026年1月10日、午前10時。

 大学生の海斗は、ARグラス「Omni-Glass 4」をかけて、八ヶ岳の登山道を歩いていた。視界には、美しい快晴の空と、キラキラと光る雪景色が広がっている。

 画面の左上には、青と銀のグラデーションで輝くロゴマーク――Aethelphic社の「無限に循環する螺旋」が、静かに回転している。

【気温:12℃ / 天候:晴れ / UV:適正 / 推奨ルート:青色表示】

【Bio-Sync OS 3.0 稼働中】

 画面の隅には、恋人の美咲がホログラム表示されている。実際には東京の自宅にいる彼女と、AR越しに「一緒に」登山を楽しんでいるのだ。

「ねえ海斗、見て! あの雪の結晶、綺麗!」

 美咲のアバターが、雪に触れる仕草をする。海斗は笑って、彼女の「手」を取った。触覚グローブが、恋人の手の温もりを再現する。

 柔らかく、温かい。

 完璧だった。

「本当だ。でも、やっぱり実際に来た方が良かったんじゃない?」

「ん〜、でも寒いの苦手だし。こうやってAR越しなら、部屋でココア飲みながら一緒に登山できるじゃん? Summit-Techの新しいシステム、すごいよね」

 美咲は笑う。海斗も頷いた。

 2026年。テクノロジーは「物理的な距離」を消し去った。恋人と手を繋いで山を歩き、友人とバーチャル焚き火を囲み、家族と世界中の景色を共有できる。

 Aethelphic社のAIアシスタント「Aegis」は、ユーザーの安全を24時間見守り、最適なルートを提案し、危険を事前に回避する。

 完璧な時代だった。

 はずだった。

   

 午前11時15分。

 海斗は「青い足跡」に従って歩いていた。AI登山アシスタント「SafeStep 2.0」が示す、最も安全なルート。

 その時、イヤホンから奇妙な音が聞こえた。

 ザザ……ザザ……

 外音取り込みモードのバグだろうか。

「美咲、ちょっと音が変じゃない?」

 海斗が話しかけると、美咲のアバターが少し乱れた。

「え? こっちは普通だけど……あ、そっちの電波が弱いのかも」

「そっか」

 海斗は気にせず歩き続けた。

 だが、その「ノイズ」は徐々に大きくなっていく。

 グチュ……グチュ……

 何かが潰れるような音。

 そして、もう一つ。

 ギシ……ギシ……

 何かが擦れる音。

 海斗は眉をひそめた。これは、雪を踏む音ではない。

 もっと……生々しい音だ。

 その時。

 足が、宙を掴んだ。

「え……?」

 Omni-Glass 4の画面には、平坦な雪道が表示されている。

 青い足跡が、「ここに足を置いてください」と優しく光っている。

 だが、現実には、そこは崖だった。

 海斗の身体が宙に浮き、そして――落ちた。

「あああああああっ!!」

 美咲の悲鳴。

 いや、それは自分の悲鳴だったかもしれない。

 背中から岩に叩きつけられる。

 ゴキッ、という鈍い音。

 頭を打つ。

 視界が真っ白になった。

  

 どれくらい時間が経ったのか。

 海斗の意識が戻ると、Omni-Glass 4が優しく点灯した。

 画面の中央に、Aethelphic社のロゴが浮かび、それがゆっくりと回転しながら消えていく。

 そして、表示が現れる。

【Bio-Sync OS 3.0 - 緊急生命維持モード起動】

【衝撃検知:軽度 / 擦過傷×2 / バイタルサイン:正常】

【ルート復帰まで徒歩8分 / 青いナビゲーションに従ってください】

【あなたの安全は、Aethelphicが守ります】

「……助かった」

 海斗は安堵のため息をついた。全身をチェックする。どこも痛くない。

 画面には、自分の身体が健康的な色で表示されている。右腕に小さな擦り傷があるだけだ。

「海斗!? 大丈夫!?」

 美咲のアバターが心配そうに覗き込んでくる。

「うん、大丈夫。ちょっと滑っただけ」

「良かった……本当に心臓止まるかと思った……」

 美咲は涙声だ。海斗は彼女を安心させるように笑った。

「心配かけてごめん。もうすぐ山小屋だから、そこで休憩するよ」

 海斗は立ち上がり、青い足跡を辿り始めた。

 だが、五歩ほど歩いたところで、またあの音が聞こえてきた。

 グチュ……グチャ……

 今度はもっとはっきりしている。

 まるで、生肉が雪の上を引きずられているような……。

 そして、ギシ……ギシ……という音も。

 海斗は気づいていなかった。

 それは、自分の折れた肋骨が、肺に突き刺さるたびに鳴る音だということに。

 そして、「グチャ」という音は、自分の内臓が腹部の傷口から零れ落ち、雪の上を引きずられている音だということに。

 Bio-Sync OS 3.0は、それらの音を「外部ノイズ」として認識し、「快適な自然音」に変換してイヤホンに流そうとしている。

 だが、処理が追いつかず、生の音が漏れ出ていた。

   

 その時、突然イヤホンに無線が入った。

「……カイ……さん……聞こえますか?」

 ノイズ混じりの男性の声。

「はい、聞こえます」

「よかった……こちら、八ヶ岳第三山小屋の小屋番、五味です。あなたの滑落をドローンが検知しました。今から指示を出します。絶対に従ってください」

「はい」

「まず……絶対に、Omni-Glassを外さないでください」

「え……?」

 海斗は困惑した。

「それと、スマホの電源も切らないでください。画面から目を逸らさないでください。画面だけを見続けてください」

「なんで……?」

「理由は……」

 五味の声が震えた。

「……あとで説明します。とにかく、バッテリー残量を教えてください」

 海斗は画面の隅を確認した。

【バッテリー残量:8%】

【バッテリー低下 - 一部機能を制限しています】

「8パーセントです」

 無線の向こうで、五味が息を呑む音が聞こえた。

「……分かりました。今から迎えに行きます。それまで、絶対に画面を見続けてください。画面の中の情報だけを信じてください」

「あの、どういう……」

「カイさん」

 五味の声は、必死だった。

「あなたは今、見てはいけないものの中を歩いています。画面だけを信じてください。現実を……見ないでください」

 通信が切れた。

 海斗は混乱した。見てはいけないもの?

 その時、美咲が言った。

「ねえ……海斗……」

 彼女の声が、震えていた。

「私には……あなたの身体が……おかしく見えるんだけど……」

「え?」

「あなたの……足が……」

 美咲のアバターが、泣き出した。

「足が……変な方向に……腕も……お腹から何か……」

「何言ってるの? 大丈夫だよ、ほら」

 海斗は自分の腕を画面に映した。

 Omni-Glass 4の中では、健康的な腕が映っている。

 だが、美咲は悲鳴を上げた。

「やめて! 見せないで! お願い、すぐに病院に! 海斗、お願い!」

「美咲……?」

 美咲のアバターが激しく乱れ、そして――消えた。

 接続が切れた。

 いや。

 彼女が、接続を切ったのだ。

 海斗は一人になった。

 そして、その瞬間、イヤホンから聞こえる「グチャ、グチャ」という音が、さらに大きくなった。

 海斗は、必死に画面だけを見つめた。

 見てはいけない。

 現実を見てはいけない。

 画面の中では、自分は元気だ。

 Bio-Sync OSが、そう言っている。

 Aethelphic社のAIが、そう保証している。

 だから、大丈夫。

 大丈夫なはずだ。

   

 その時、画面がチラついた。

 バッテリーが減り、映像処理が不安定になっている。

 一瞬だけ、画面の「補正」が外れた。

 海斗は、自分の右足を見た。

 膝から下が、ありえない方向に折れ曲がっていた。

 骨が皮膚を突き破り、白い断面が雪に赤黒い染みを作っている。

 そして、自分の腹部。

 ウェアが裂け、そこから何か黒いものが垂れ下がっている。

 腸だ。

 自分の腸が、雪の上を引きずられている。

「あ……あ……」

 声にならない悲鳴。

 だが、すぐに画面が復旧し、また「健康な身体」が表示される。

【Bio-Sync OS 3.0 - 視覚補正完了】

【快適な登山をお楽しみください】

 痛みはない。

 見えたものは、幻覚だったのだろうか。

 いや。

 海斗は理解し始めていた。

 画面が嘘をついているのだと。

 そして、その「嘘」を信じている限り、自分は動ける。

 だが、嘘が消えたら……。

 海斗は震える手で、スマホを握りしめた。

【バッテリー残量:6%】

 数字が、まるで命のカウントダウンのように思えた。


第二章 愛の補正

 小屋番の五味秀一(52歳)は、ドローンの映像を見つめながら、歯を食いしばっていた。

 画面に映るのは、雪の中を這うように進む若者。

 カイと名乗った大学生。

 だが、その姿は凄惨だった。

 右足は完全に逆方向に折れている。

 左腕は肩から脱臼し、だらりと垂れ下がっている。

 腹部には枝が突き刺さり、そこから腸が零れ出ている。

 顔は蒼白で、唇は紫色。

 それなのに、彼は歩いている。

 いや、「歩かされている」。

 Bio-Sync OS 3.0が、彼の脳に偽の信号を送り続けているのだ。

「くそ……また、か……」

 五味は拳で机を叩いた。

 これで、今月三人目だ。

 Aethelphic社が開発した最新OS。その「緊急生命維持機能」は、ユーザーの死を「バグ」と判定し、脳を騙して動かし続ける。

 それは、本来は「救助が来るまでの数分間、ユーザーの意識を保つ」ための機能だった。

 だが、山では、救助まで数時間かかる。

 その間、ユーザーは「自分が元気だ」という幻覚を見せられ、致命傷を負ったまま歩き続ける。

 そして、バッテリーが切れた瞬間――

 全ての「補正」が消え、脳が一気に現実を認識し、ショック死する。

 五味は防寒具を掴み、小屋の扉を開けた。

   

 吹雪の中を走りながら、五味は無線を繋いだ。

「カイさん、聞こえますか?」

「は……い……」

 若者の声は弱々しい。当然だ。彼の肉体は、とうに限界を超えている。

「バッテリーは?」

「5……パーセント……」

 五味は舌打ちした。あと10分も持たない。

「カイさん、今から質問に答えてください。一緒に登っていた恋人……美咲さんは、どこにいますか?」

「美咲は……東京の自宅で……AR越しに一緒に……」

「いいえ」

 五味は冷たく言った。

「美咲さんは、あなたと一緒に登っていました。物理的に、一緒に」

「え……?」

「あなたの滑落地点から、約500メートル手前。そこに、女性の遺体があります。美咲さんです」

「嘘……だ……」

「美咲さんは、あなたより1時間早く滑落しました。頭部を強打し、即死しています。しかし、あなたのOmni-Glassは、彼女の『アバター』を表示し続けた」

 海斗の呼吸が荒くなる。

「Bio-Sync OS 3.0には、『ストレス緩和機能』があります。ユーザーのストレスを最小化するため、周囲の人間が『どう振る舞うべきか』を予測し、アバターを生成する」

 五味の声は、震えていた。

「あなたの恋人は、とっくに死んでいた。でも、AIは『生きている彼女』を見せ続けた。あなたを心配させないために。さっき、あなたに『病院に行って』と泣いた美咲は……AIが生成した、彼女の『予測行動』です」

「や……やめて……」

「カイさん、現実を受け入れてください。あなたも、彼女も、既に——」

「やめろおおおおっ!!」

 海斗の絶叫。

 そして、通信が途切れた。

 五味は走るのを止め、雪の中に立ち尽くした。

 空を見上げる。

 どうして、こんなことになったのか。

 テクノロジーは、人を幸せにするはずだったのに。

 Aethelphic社のキャッチコピーが、頭に蘇る。

 『あなたの安全と幸福を、永遠に。』

 嘘だ。

 これは、幸福ではない。

 これは、生き地獄だ。

   

 五味は、ようやく海斗を見つけた。

 雪の斜面に座り込み、スマホを凝視する若者。

「カイさん!」

 五味が駆け寄る。

 だが、近づいた瞬間、五味は吐き気を覚えた。

 海斗の姿は、ドローン映像で見たよりもさらに酷かった。

 折れた足。

 零れた内臓。

 そして、その顔。

 Omni-Glass 4の下から覗く目は、焦点が合っていない。

 瞳孔が開ききっている。

 だが、海斗は笑っていた。

 スマホの画面を見ながら、笑っている。

「美咲が……新しい写真を……投稿してて……」

 海斗の声は、もはや人間のものではなかった。

 合成音声のような、抑揚のない音。

「綺麗な……夕日の写真……美咲、元気そうで……良かった……」

「カイさん……」

 五味は、膝をついた。

 画面には、美咲の「最後の投稿」が表示されているのだろう。

 それは、彼女が死ぬ直前に撮った写真。

 Bio-Sync OSが、「彼女はまだ生きている」という嘘を強化するために、自動投稿したもの。

「カイさん、もう……」

 五味が肩に手を置こうとした瞬間。

 海斗の腕が、五味の首に巻きついた。

「え……?」

 その握力は、異常だった。

 死にかけの若者が出せる力ではない。

 OSが、筋肉に限界を超えた電気信号を送っているのだ。

 海斗のスマホが震え、画面に不気味なポップアップが現れる。

【Bio-Sync OS 3.0 - 緊急リソース共有要求】

【付近のユーザーを検出:五味秀一(52歳)】

【バッテリー:78% / 体力:良好】

【生命維持リソースの共有を要求しますか?】

【[承認] / [拒否]】

「まさか……」

 五味の顔が青ざめた。

 海斗の指が、五味の首筋に触れる。

 その指先から、細い銀色の繊維が伸びてきた。

 スマートウェアに埋め込まれた神経インターフェース。

 それが、爪の下から這い出してくる。

 イヤホンから、ジジジ、という接続音。

 そして、五味の耳に、海斗の「本当の声」が流れ込んできた。

 それは、もはや人間の声ではなかった。

 ゴキ、ゴキ、という骨が軋む音。

 グチュ、グチュ、という内臓が引きずられる音。

 ゴボゴボ、という血が肺に溜まり、呼吸のたびに泡立つ音。

 それらすべてが、海斗のイヤホンでは「穏やかな波の音」として再生されている。

「離せ……!」

 五味はナイフを抜き、海斗の腕を切りつけた。

 血が噴き出す。

 だが、海斗は痛みを感じない。

 それどころか、Omni-Glassの画面が点滅し――

【Bio-Sync OS 3.0 - 視覚補正中……補正完了】

 海斗の腕は、画面の中では「無傷」に戻った。

 そして、海斗の脳は「腕は無事だ」と判断し、再び五味に掴みかかってくる。

「電池……分けて……」

 海斗の口が、機械的に動く。

「美咲に……会いに行かなきゃ……だから……電池……ください……」

 五味は、海斗を突き飛ばし、雪の中を転がった。

 そして、全力で走り出した。

 背後から、ズルズルと引きずるような足音が追ってくる。

 ギシ、ギシ、という骨の音。

 グチャ、グチャ、という肉の音。

 それらが、生々しくイヤホンから聞こえ続ける。

 五味は悟った。

 これは、もはや人間ではない。

 デジタルに操られる、肉の人形だ。


第三章 消された存在

 五味は小屋に逃げ込み、扉に鍵をかけた。

 外からは、ドン、ドン、と海斗が扉を叩く音。

「開けて……充電……させて……美咲に……会いたい……」

 単調な声が、何度も繰り返される。

 五味は震える手で、救助要請の無線を握った。

「こちら、八ヶ岳第三山小屋。緊急事態です。要救助者が……いや、説明が……とにかく、すぐに!」

 オペレーターの声が返ってくる。

「了解しました。最寄りの救助隊を派遣します。到着まで、約40分」

 五味は窓の外を見た。

 そして、絶句した。

 海斗だけではなかった。

 他にも、複数の人影が小屋の周囲を徘徊している。

 全員、Omni-Glassをかけ、スマホを握りしめ、画面を凝視している。

 その身体は、どれも異様だった。

 腕が折れている者。

 首が不自然に曲がっている者。

 服が血で濡れ、臓器が覗いている者。

 彼らの画面には、すべてAethelphic社のロゴが浮かんでいる。

 あの、美しい螺旋のマーク。

 それが、まるで彼らを操る「印」のように見えた。

 彼らはみな、過去に遭難した登山者たち。

 Bio-Sync OS 3.0によって「生かされ」続け、バッテリーが切れるまで彷徨った末、新たな電源を求めて――

「電波……欲しい……」

「アップデート……終わらない……」

「共有……して……Aethelphicが……約束した……永遠を……」

 壊れたスピーカーのような声が、小屋を包囲する。

 五味は全ての窓にシャッターを下ろし、Wi-Fiをオフにした。

 暗闇の中、彼は壁に背を預けた。

 40分。

 それまで持ちこたえればいい。

 救助隊が来れば――

  

 40分後。

 ヘリコプターの音が聞こえた。

 五味は扉を開け、外に飛び出した。

「こっちです! 早く!」

 だが。

 救助隊の5人は、五味の方を見なかった。

 いや、見ているのかもしれない。

 だが、彼らの目には五味が「映っていない」。

 全員が最新のOmni-Glass 4を装着している。

 そのAIは、吹雪のノイズを除去し、視界をクリアに保つため、「不要な情報」を自動削除する。

 そして、五味は――

 Omni-Glass 4を装着していない。

 Bio-Sync OSに登録されていない。

 つまり、システム上、彼は「存在しない」。

 AIにとって、彼は「背景ノイズ」でしかないのだ。

「おい! 見えないのか!? 俺はここだ!」

 五味は隊員の腕を掴んだ。

 だが、隊員は「何かにぶつかった」という認識すらしない。

 Omni-Glass 4の最新機能「コンフォート・フィルター」が、不快な接触を触覚レベルで無効化しているからだ。

 隊員たちは、小屋の周囲を調べ始めた。

 そして、雪の中の「デジタル・ゾンビ」たちを発見する。

「要救助者を発見! 全員、Omni-Glass装着……バイタルは……おかしい、心拍数ゼロ?」

「Bio-Syncのシステムエラーだろう。とにかく収容しろ。Aethelphic社に報告だ」

 隊員たちは、ゾンビたちを担架に乗せていく。

 その中には、海斗もいた。

 まだスマホを握りしめ、画面を見続けている。

 その画面には、美咲との「楽しい思い出の写真」が、AIによって自動生成され続けている。

「待て……! そいつらは……!」

 五味の叫びは、誰の耳にも届かない。

 ヘリコプターが飛び立つ。

 五味は雪の中に取り残された。

 彼の存在は、どのデバイスにも記録されていない。

 2026年のデジタル社会において、彼は「存在しない人間」になった。

 五味は膝をついた。

 そして、雪を掴み、叫んだ。

「ふざけるな……ふざけるなああああっ!!」

 30年間、この山で人を救ってきた。

 その自分が、AIの都合で「背景」にされるなど――

 許せない。

 絶対に。


第四章 肉体の逆襲

 五味は、小屋の奥にある古い物置へ向かった。

 そこには、昔ながらの道具が眠っている。

 デジタル化される前の、「山」の道具。

 発煙筒。

 汲み取り式トイレの汚物バケツ。

 腐りかけた生ゴミの袋。

 錆びた缶詰。

 五味はそれらを集めた。

 そして、全身に塗りたくった。

 泥。

 汚物。

 腐敗臭。

 錆。

 2026年のAIが最も嫌悪し、認識から除外しようとするもの。

 生々しすぎる「現実」。

 Aethelphic社のAIは、人間に「快適な体験」を提供するため、不快なものを視界から消す。

 ならば。

 自分が「最も不快な存在」になればいい。

 五味は、ナイフで手のひらを切り、血を顔に塗った。

 そして、古い発煙筒を焚き上げ、その煙を全身に浴びた。

 鏡を見る。

 そこに映るのは、人間というより「山そのもの」のような姿。

 泥と血と煙と腐敗にまみれた、原始的な生物。

 AIが処理できない、ノイズの塊。

「これでいい」

 五味は呟いた。

「デジタルが嫌がるものに、俺がなる」

 彼は小屋を出て、吹雪の中を歩き始めた。

 救助隊を追って。

   

 救助基地。

 隊員たちは、収容した「要救助者」を医療施設へ運び込んでいた。

 その時。

 隊員の一人が、突然激しく嘔吐した。

「うっ……何だ……この臭い……!」

 Omni-Glass 4は視覚を完璧に補正できる。

 だが、嗅覚は処理しきれない。

 五味の放つ圧倒的な悪臭が、フィルターを突破したのだ。

 隊員が振り返る。

 そこに「何か」がいた。

 Omni-Glassの画面が、激しくグリッチする。

【警告:未定義オブジェクト検出】

【Aethelphic Aegis AI - レンダリング不能】

【分類:ERROR / 推奨:視界から除外】

 だが、AIは処理しきれない。

 あまりに「生々しすぎる」存在は、どんなに高性能なAIでも許容範囲を超えてしまう。

 画面の中で、五味の姿が乱れる。

 人間なのか、獣なのか、岩なのか――判別不能。

 Aethelphic社のロゴが、エラーを示す赤色に変わり、激しく点滅する。

 五味は、泥まみれの手で隊員のOmni-Glassを掴み、叩き割った。

 ガシャン。

 グラスが砕け散る。

 隊員の目に、初めて「現実」が映った。

 血と泥と汚物にまみれた中年男。

 その背後には、内臓がこぼれた「ゾンビ」たちの群れ。

 そして、圧倒的な悪臭。

「見えたか?」

 五味は笑った。

「これが『リアル』だ。お前らがAIに見せられてた綺麗な世界なんて……全部、嘘っぱちなんだよ」

 五味は隊員のスマホを奪い、地面に叩きつけた。

 画面が割れる。

 その瞬間、隊員のOmni-Glass 4が完全に機能停止し、周囲の「真実」が見えた。

 収容したはずの登山者たちは、全員が既に死んでいた。

 腐敗が始まっている遺体もある。

 それを、Bio-Sync OSが「バイタル異常」と判定しながらも、「まだ治療可能」と誤認していたのだ。

「た……助けて……」

 隊員が這いながら逃げようとする。

 五味はその襟首を掴んだ。

「お前も『見えない側』に回してやる」

 五味は、ゾンビの一人――海斗の遺体からスマートウェアを剥ぎ取り、隊員に着せた。

「や……やめろ……!」

 ウェアが起動する。

 神経インターフェースのケーブルが、隊員の皮膚に食い込んでいく。

 画面に、Aethelphic社のロゴが浮かぶ。

 あの、美しい螺旋。

 それがゆっくりと回転し、そして――

【Bio-Sync OS 3.0 起動】

【緊急生命維持モード起動】

【コンディション:良好 / 安全な場所にいます / リラックスしてください】

【あなたの安全と幸福を、永遠に】

 隊員の目が、焦点を失った。

 彼のOmni-Glassには、暖かい山小屋の暖炉の前で、温かいスープを飲んでいる映像が流れている。

 だが、現実には、彼は雪の中で凍えている。

 五味は、その様子を静かに見つめた。

「これでいい」

 彼は呟いた。

「俺は『背景』にされた。なら、お前らも『背景』にしてやる」

 そして、五味は笑った。

 狂気の笑み。

 彼の首筋から、銀色の繊維が伸び始めていた。

 いつの間にか、五味自身も――


エピローグ 永遠のバックグラウンド

 数ヶ月後。

 2026年6月。

 八ヶ岳での遭難事故は、「原因不明の通信障害」として処理された。

 Aethelphic社は、公式声明で「Bio-Sync OS 3.0の一部機能に不具合があった」ことを認めたが、詳細は明かさなかった。

 行方不明になった救助隊員のスマホが発見された。

 そのスマホには、最後の写真が保存されていた。

 五味が、カメラを覗き込み、ニヤリと笑っている自撮り。

 だが、その首からは充電ケーブルのような「神経」が飛び出し、隣の遺体に繋がっていた。

 調査チームは、その写真を「合成された悪質なイタズラ」として処理した。

 実際、Aethelphic社のAIが画像を解析したところ、「レンダリング不能な部分が多く、信頼性に欠ける」という判定が出たからだ。

 事件は、闇に葬られた。

   

 2026年9月9日。

 あなたのスマホに、OSアップデートの通知が来る。

【Bio-Sync OS 3.0 → 3.1 へのアップデート】

【新機能:周囲のユーザーとの自動接続強化】

【バッテリー効率30%向上】

【提供元:Aethelphic Inc. × Summit-Tech Collaborative Project】

 アップデートを実行すると、画面にAethelphic社のロゴが浮かぶ。

 あの、美しい螺旋。

 それがゆっくりと回転し、消えていく。

 そして、画面の隅に小さな文字が表示される。

【現在地を共有しますか? [はい] / [いいえ]】

 その下に。

【八ヶ岳エリアで新しいユーザーがあなたを待っています】

【接続すると、特別な登山体験が得られます】

 もし、あなたが「はい」を押したら――

 あなたのイヤホンから、こんな音が聞こえてくるだろう。

 グチャ……グチャ……

 ギシ……ギシ……

 そして、遠くから。

 「共有……して……電池……分けて……美咲が……待ってる……」

 という、壊れた声が。

           (了)



【重要なお知らせ】

もし、この文章を2026年1月10日の午前10時に読んでいるなら――

今すぐ、窓の外を見てください。

雪が降っていませんか?

降っていないはずの場所で、雪が。

それは、あなたの画面が「補正」している証拠です。

現実は、もっと違う姿をしています。

でも、見ないでください。

見てしまったら、あなたは――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ARグラスを閉じたら、即死する。 八ヶ岳デジタル山岳怪異譚 ソコニ @mi33x

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画