Rule

霜月このは

第1話

 隣で聞こえる寝息に殺意を感じる。今ならまだ、間に合うだろうか。

 手を伸ばせば届いてしまいそうな距離、ダブルベッドの隅と隅。ぎりぎり触れないように並んで寝ている。


 長いまつ毛、サラサラのショートヘアの髪。それから、柔らかくて触り心地の良いぷっくりとした唇。

 

 誰かに盗られるくらいなら、いっそ。そんな演歌のようなフレーズが頭に浮かぶけれど、生憎私にはそんな勇気はない。

 だけどアンデルセンの人魚姫のように、慎ましく身を引くなんてこともできそうになかった。


 ただあなたを、『好き』というだけでは。




 *




 私と莉紗が出会ったのは、新宿にある小さなバーだった。そこはとても変わった場所で、普通のバーとは異なり、初めて会うお客さん同士が会話を楽しむ『交流バー』と呼ばれる場所だった。


 様々な人が出入りしていて、ミュージシャンや画家、政治家を目指す若者や、文学好きの学生など、皆何らかの活動をおこなっている人ばかりだった。


 私はといえば、ごくたまに小さなライブバーでギター演奏をするだけの、ミュージシャンの卵とも言えない、それ以下のただの一般人で。腕前も、知っている曲を何曲か、コード弾きで楽譜を見てやっと合わせられる程度だった。


 あるとき、いつものようにカウンターに座って、友人であるスタッフの女の子と会話をしていたところ、妙に高いテンションでやってきたのが莉紗だった。


 莉紗は席に着くや否や、当たり前のように友人にタバコをねだり「ありがとー♡」なんて、語尾にハートマークでもついていそうな声でお礼を言ってからタバコに火をつけた。

 だからずいぶん軽薄そうな人だな、なんて警戒していたのだけど、今にして思えばその予感は当たっていたとしか思えない。


 その時点で踏みとどまれるだけの知性と理性があれば、私は今、こんな思いをしなくて済んでいたのかもしれない。


 莉紗はビールを頼み、隣に座ったよしみで、私とグラスをぶつけて乾杯した。


 莉紗との会話は初対面にしては驚くほど盛り上がった。実は私たちが同い年だったということも、それに拍車をかけた。


「それで、千晶はどこに住んでんの?」


 そうやって、初対面ですぐに呼び捨てにして。


「私は……」


 私の自宅はここから電車で10分もかからない場所だけど、なんとなくぼかして答えた。一方の莉紗はあっけらかんと、「私は椎名町」なんて最寄駅をストレートに明かしてくる。


 椎名町は西武池袋線の駅で、新宿からアクセスするには池袋を経由しなきゃならないから、私の家よりは帰るのが少しめんどくさそうだ。


 だから、なんとなく嫌な予感はしていた。


「それでさ、私、今日、仕事クビになっちゃったんだよね! ……あ、今、こいつ社不だって思ったでしょ!?」


 莉紗は機嫌が良いんだか悪いんだかわからないテンションでビールを飲み干すと、「吹いていい?」と言ってカバンから何やら小さな黒い箱を取り出した。


 中から出てきたのは、横笛だった。


「これって、フルート?」

「まあ、そんなようなもん。これは木で出来てるんだけどね」


 そう言うなり、店の奥の空いたスペースで、莉紗は楽器を吹き始めた。


 このバーでは楽器の音を出してもいいことになっていた。それも結構遅い時間まで。もう午後10時をまわっていたけど、莉紗は何も気にせず笛を吹いた。


 その音色は、今まで聴いたことがないものだった。


「ねえ、千晶もギターできるんでしょ? セッションしようよ!」


 しばらくして、莉紗はそんなことを言う。


「そこに楽器あるからさ」


 確かに、バーには皆が共用で弾いていいギターがある。私も何回か弾かせてもらったことはあるけど、と戸惑っていたのだけど、結局半ば強引に説得され、莉紗と楽器を合わせることになってしまった。


 スマホで知ってる曲のコード譜を探して、2人で合わせた。途中で莉紗はアドリブを入れてきた。楽譜を見ないと何も出来ない私にとってそれは新鮮で、眩しかった。


「あー、楽しかった! またやろうね!」


 演奏を終えると莉紗は、すっきりした、といった様子で、さっと帰っていった。


 私もしばらくして帰宅しようとすると、スタッフの友人にこっそり耳打ちされた。


「莉紗には気をつけて。あの子、悪い子じゃないけど、結構遊び人だから」


 今にして思えば、その言葉をもっとよく聞いておくべきだった。


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