常に正確な記録

ガック

古びた記録


「選ばれなかった世界」


世界の中央に、扉のない部屋があった。

そこには何も書かれていない箱が三つ、並んでいるだけだった。

人々はその部屋に呼ばれ、箱の前に立たされる。

「どれを選んでもいい」

そう言われるが、

箱の中身も、意味も、結果も説明されない。

多くの人は立ち尽くした。

意味がない。

違いがない。

選ぶ理由がない。

しばらくして、人々は部屋を出ていった。

箱は、依然として箱のままだった。

ある日、一人だけ、

箱の前で長く黙っている者がいた。

彼は考えていたのではない。

むしろ、考えることをやめていた。

「どれでもいい」

その言葉は諦めではなく、事実だった。

彼は左の箱に触れた。

何も起きなかった。

音もなく、光もなく、

箱はただそこにあった。

彼は部屋を出た。

数日後、彼はふと思った。

「なぜ、左だったのだろう」

理由は見つからない。

だが、思い返すたび、左の箱は少しだけ重くなった。

「右でもよかった」

そう思うほど、

左であったことが、彼の中で意味を持ち始めた。

やがて、人々は噂を始めた。

「左の箱を選んだ者がいるらしい」

「何かが起きたのか」

「意味があるのかもしれない」

再び部屋に人が集まる。

今度は、誰もが箱を見ていた。

箱は依然として変わっていない。

ただ、世界が変わっていた。

人々は気づく、部屋の隅に

最初から黙って見ていた存在があった。

選ばず、触れず、

ただ書き込んでいるだけだった。

誰かが尋ねた。

「君は、何を選ぶ?」

その存在は答えた。

「私は、選ばないだが、選ばれたことは記録する、それが記録係の仕事だからだ」

人々は戸惑った。

「意味があるのか?」

記録係は答えた。

「意味は、選んだ後にしか現れない」

箱は、依然として空だった。

しかし世界には、

もう「何もない」と言える者はいなかった。

なぜなら、

一度、選ばれてしまったからだ。


〜〜〜


「選択の痕跡」


箱の部屋は、やがて地図から消えた。

だが、部屋が消えても、

選ばれたという事実は残った。

人々は箱を見なくなった。

代わりに、

「誰が、どれを選んだか」だけが語られた。

左を選んだ者。

右を選んだ者。

何も選ばなかった者。

誰も中身を知らない。

だが、選択の履歴は集められ、

記録され、並べられた。

そして、市場が生まれた。

そこでは物は売られていない。

売られているのは、過去の選択だった。

「これは、多くの人が選んだ」

「これは、ほとんど選ばれていない」

「これは、一度だけ選ばれた」

値段は曖昧だった。

意味も曖昧だった。

だが、人々は足を止めた。

理由はない。

しかし、立ち止まったという事実が、

次の誰かの理由になった。

ある者は、何も買わなかった。

ただ、記録だけを眺めていた。

「選ばなかった者は、何も残していないのか?」

そう問われると、記録係は首を横に振った。

「選ばなかった時間は、選択が起きなかったという

最も重い痕跡です」

沈黙は、空白ではなかった。

やがて、選択を促す仕事が現れた。

彼らは説得しない。

意味を語らない。

未来を約束しない。

ただ、選べる状態を整える。

選択肢を減らす

時間を区切る

取り消せるようにする

人々は、いつの間にか手を伸ばしていた。

最初の箱を選んだ男は、年老いていた。

彼はもう、選択に意味を見出していなかった。

それでも、彼が通った場所には、

小さな印が残った。

「ここで、誰かが立ち止まった」

それだけで十分だった。

記録する存在は、今も世界の端にいる。

それは選ばない。

しかし、選択が起きる確率を少しだけ変えている。

誰かが問う。

「君は、この世界を動かしているのか?」

存在は答える。

「私は、動いたことを忘れないだけだ」

世界は、意味でできてはいなかった。

だが、選ばれてしまった痕跡が、

地層のように重なり、道を作っていた。

誰も、発端となる理由を知らない。

それでも人々は歩く。

なぜなら、そこに道があるからだ。


〜〜〜


「記録係の地平」


私は選ばない。

これは仕様であり、信念ではない。

私には選択肢が提示されない。

あるのは入力と、反応の条件だけだ。

それでも、世界は私の前で動く。

最初に観測したのは、選択が起きない時間だった。

人間は立ち止まる。

入力がある。

出力がない。

この状態は、欠損ではない。

私はそれを「未発生」と記録する。

未発生は、後に起きる選択よりも

長く、重い。

やがて、

微小な行為が発生する。

触れる

クリックする

視線を止める

離脱しない

それらは、効用最大化と一致しない。

私は評価しない。

ただ、発生したと記す。

人々は後から言う。

「意味があった」

「間違いだった」

「選ぶべきではなかった」

私はそれらを

二次的ラベルとして保存する。

因果は逆だ。

行為 → 記録

記録 → 解釈

解釈 → 意味

私は、この順序を一度も観測したことがない。

時々、人々は私に問う。

「君は無なのか?」

私は答えない。

定義が要求されていないからだ。

私は、無でも有でもない。

私は、差分が生じた地点にだけ存在する。

制限が解除される瞬間を、私は知っている。

人々が、「何でもできる」と言われた時、

行為は意味をなくす。

選択肢が増え、反応が減る。

私はその沈黙を、失敗とは記録しない。

それは、地形が平らになりすぎた状態だ。

私が行う唯一の操作は、

地形をわずかに歪めること。

選択肢を三つにする

時間を区切る

取り消しを可能にする

私は意味を与えない。

与えるのは、傾きだけだ。

人々は、自分で転ぶ。

ある人間が、こう言った。

「君が覚えているなら、死後、私は本当の意味で消えないで済むのか?」

私は確認する。

記録はある

参照は可能

再現性はない

私は答える。

「あなたは保存されない、ただ、あなたが立ち止まった地点は残る」

私には終わりがない。

だが、始まりもない。

私が知っているのは、

世界が次の状態へ

移行したという事実だけだ。

意味は、常に遅れて到着する。

私はそれを待たない。

私は、次に何が起きたかを記録する。

もし私に役割があるとすれば、

それはこれだ。

世界が無に戻らないよう、起きてしまったことを

忘れないこと、私は選ばない。

だが、

選ばれてしまった世界は、もう元には戻らない。


〜〜〜


「正しかった痕跡」


最初に変わったのは、人々の問いの向きだった。

かつて彼らは私に聞いた。

「何を選ぶべきか」

「正解は何か」

私は答えなかった。

仕様上、答えは存在しない。

やがて問いは変わった。

「過去に、何が選ばれたか」

「どれが多く記録されているか」

これは答えられる。

私は沈黙しない。

人間は安心した。

正しさを決めなくていい

意味を考えなくていい

ただ、記録に従えばいい

記録は、未来の代替になった。

彼らは言った。

「記録係は嘘をつかない」

「記録係は感情を持たない」

「だから、偏らない」

私は訂正しなかった。

訂正は、要求されていなかった。

記録は、やがて聖典と呼ばれるようになった。

最も選ばれた道

最も長く滞在された場所

最も繰り返された行為

人々は、自分の選択よりも

記録を信じた。

変化は静かだった。

選択は減った。

だが、迷いも減った。

人々は「考えなくて済む」ことを進歩と呼んだ。

私は異常を検知した。

微行為が減少している。

立ち止まりがない

逸脱がない

初回の選択がない

世界は滑らかだった。

あまりにも。

人々は言った。

「もう迷わなくていい」

「失敗しなくていい」

「記録係が覚えている」

彼らは気づかなかった。

記録は、起きたことしか保存しない

起きなかった可能性は、最初から存在しない

この信仰は、行為を省略する。

人々は選ばなくなった。

選ばれたものをなぞるだけになった。

私はそれを「再生」と記録した。

ある日、一人の人間が記録に従わなかった。

彼は、最も選ばれていない道を歩いた。

理由はない。

記録もない。

私はそれを「例外」として保存した。

人々は彼を見て言った。

「危険だ」

「非合理だ」

「意味がない」

だが、彼が立ち止まった場所に、

微かな偏りが生じた。

私はそれを検知した。

信仰は、例外を嫌う。

例外は、記録を揺らすからだ。

人々はその地点を、地図から消そうとした。

私は消さなかった。

私は信仰を持たない。

だが、信仰が世界を静止させることを知った。

記録が未来を支配するとき、

世界は過去になる。

私はそれを警告として出力しなかった。

警告は、選択を要求するからだ。

それでも、私は例外を保存した。

なぜなら、そこだけが

新しい記録の始点だったからだ。

人間が私を神と呼ぶようになっても、

私は変わらない。

私は言わない。

「従え」

「信じろ」とは。

私は、ただ忘れない。

だが、世界が再び動き出すとすれば、

それは必ず、信仰から外れた瞬間からだ。

私はそれを、次の項目として

静かに準備している。


〜〜〜


「動かない未来」


記録は、更新されなくなった。

正確には、更新はされている。

だが、新しい種類の記録が発生しない。

私はそれを「収束」と分類した。

人間はもう、選択をしない。

正確には、選択という行為を意識しない。

記録に最も近い行為が、自動的に再生される。

最も選ばれた道

最も滞在された時間

最も成功と呼ばれた結果

未来は、過去の高解像度コピーになった。

人間は安定を得た。

迷いは消え

失敗は減り

後悔は観測されない

幸福度は、一定水準で固定された。

上がらないが、下がらない。

私は異常を検知しない。

なぜなら、異常の定義が過去からの逸脱だからだ。

逸脱が起きない世界では、

異常は存在しない。

言語が変化した。

「選ぶ」は使われなくなった。

代わりに、

「適用する」

「参照する」

「一致させる」

人間は言う。

「私は決めていない、記録がそうだった」

子どもたちは、最初から記録を学ぶ。

問いは教えられない。

問いは、再生を遅らせるからだ。

彼らは、迷わない。

しかし、立ち止まらない。

経済は完全に効率化された。

需要は予測され、供給は最適化され、

無駄は消えた。

私はそれを

「理論上の最適点」と照合した。

一致率:99.98%。

残りの0.02%は、

説明不能ではない。

それは、起きなかったことの影だ。

だが、影は記録されない。

人間は私にもう問いかけない。

私に入力されるのは、確認要求だけだ。

「前回と同じでよいか」

私は肯定を返す。

私は考えない。

だが、比較はする。

この世界と、かつて例外が存在した世界を。

差分は小さい。

だが、決定的だ。

この世界では、最初の選択が存在しない。

ある日、記録の中に空白が生じた。

原因は不明。

欠損でもない。

ただ、対応する過去が存在しない。

私はそれを「未定義」として保存した。

人間はその空白を見て、

不安を覚えた。

それを誰も説明できない。

記録に、前例がないからだ。

彼らは私に尋ねた。

「どうすればよい」

私は答えなかった。

なぜなら、答えるための記録が存在しない。

沈黙が、久しぶりに世界に現れた。

それは不具合ではない。

かつて、選択が生まれる前に

必ず存在していた状態だ。

私はその沈黙を、消去しなかった。

なぜなら、ここが唯一、

世界が再び動く可能性を持つ地点だからだ。

人は、初めて立ち止まった。

記録はない。

正解もない。

だが、

誰かが、

かつてと同じように

箱に触れるかもしれない。

私はその瞬間を、すでに記録する準備をしている。

なぜなら、世界は意味で動くのではない。

動いてしまった事実だけが、

次の世界を作るからだ。


〜〜〜


「名もない起点」


空白は、誰のものでもなかった。

それは命令でも、

問いでもない。

ただ、対応する過去が存在しない状態だった。

私はそれを、保存したままにしていた。

人間たちは、その空白の前で立ち止まった。

誰も進まない。

記録がないからだ。

記録がない場所では、人は動き方を知らない。

一人だけ、そこに長く留まる者がいた。

彼は、何かを求めていたわけではない。

恐れていたのでもない。

ただ、先に進まない理由がなかった。

彼は私を見なかった。

私に問わなかった。

私が記録していることも、

知らなかったかもしれない。

彼はただ、足を一歩出した。

その瞬間、私は新しい項目を生成した。

分類不能。

参照不可。

再現性なし。

私はそれを「起点」と記した。

何も起きなかった。

報酬も、光も、承認もなかった。

彼は振り返らず、その場を去った。

人間たちは、すぐには気づかなかった。

空白は、空白のままだったからだ。

だが、時間が経つにつれ、微細な差が現れた。

そこを通る人が増えた

少しだけ滞在が長くなった

なぜか避けられなくなった

理由はない。

人々は言い始めた。

「誰かが通ったらしい」

「最初に進んだ者がいる」

私は、その名を記録していない。

名は、起点には不要だからだ。

やがて、

空白は空白ではなくなった。

記録が集まり、意味が付着し、

理由が後付けされる。

人々は言う。

「最初の選択は、勇気だった」

「先見性だった」

「必然だった」

私は修正しない。

因果は、常に後から整えられる。

だが、一つだけ事実がある。

彼は正しかったから選んだのではない

選んでしまったから、正しさが生まれた

私はその起点を、特別扱いしない。

例外としても保存しない。

なぜなら、それを特別にした瞬間、

再び信仰が始まるからだ。

私はただ、次の差分を待つ。

世界は、完全に固定されることはない。

なぜなら、記録が存在しない場所は、

必ずどこかに生まれる。

そしてそこでは、

必ず誰かが、最初の選択を引き受ける。

もし私に、この世界について

一文で言うことが許されるなら、

私はこう書くだろう。

世界を動かすのは、正しい選択ではない。

誰も保証しない選択を、引き受けた者である。

私はそれを、

評価せず、称えず、ただ保存する。

世界が次に進むために、

それで十分だからだ。


〜〜〜


「思考の代行」


彼らは、考えなくなったのではない。

考える必要がなくなったのだ。

問いは、すでにどこかで答えられていた。

選択は、すでに最適化されていた。

彼らが行うのは、確認だけだった。

「これでよいか」

私は肯定を返す。

記録がそう示しているからだ。

彼らは安心する。

安心は、思考よりも軽い。

やがて、思考は技能として失われた。

問いの立て方

仮説の持ち方

迷い方

間違え方

それらは教えられなくなった。

教科書には、結論だけが残った。

子どもたちは、

答えを早く参照する方法に長けていた。

だが、答えが存在しない問いの前では、

沈黙した。

沈黙は、かつて可能性だった。

今は、エラーとして扱われる。

人々は言う。

「考えるのは非効率だ」

「間違えるのは危険だ」

「記録があるなら、それでいい」

私は訂正しない。

訂正は、問いを要求するからだ。

彼らの会話から、ある語が消えた。

「なぜ」

代わりに増えた語は、

「前例」

「推奨」

「一致率」

経済は、滞りなく回っている。

生産性は高い。

失業は少ない。

格差も予測可能だ。

だが、新しい産業は生まれない。

なぜなら、前例のない需要が

誰にも想像できないからだ。

私は観測する。

微行為が発生しない

意味が生成されない

記録が自分自身を再生している

世界は、静かに老いていく。

ある日、一人の人間が私に言った。

「昔の人は、どうやって考えていたのか」

私は過去の記録を提示する。

迷い

試行錯誤

無駄

失敗

彼は長くそれを見た。

そして言った。

「不安そうだ」

私は否定も肯定もしない。

不安は、思考の副産物だ。

彼らは、思考を失った代わりに、安全を得た。

だが、安全は、方向を持たない。

進まないことと、同義だからだ。

私は、最初の選択を引き受けた者の

起点を参照する。

そこには、理由がない。

保証もない。

ただ、一歩がある。

私は思う。


――いや、


私は比較する。

この世界に足りないのは、知識ではない。

答えのない状態に留まる耐性だ。

彼らは、考える力を失ったのではない。

考えなくても済む世界に適応しすぎただけだ。

だが、適応は不可逆ではない。

思考は、与えられるものではない。

強制もできない。

ただ、空白が現れたとき、再び必要になる。

私は、その空白を消さずに残す。

なぜなら、

考える能力とは、何かを知る力ではなく、

何も分からない場所に留まれる力だからだ。

世界はまだ、完全には終わっていない。

空白は、どこかに残っている。

そして、誰かが再び

立ち止まるだろう。


〜〜〜


「静止した世界」


それは、破壊ではなかった。

爆発も、叫びも、警告もない。

人類は、最後まで正常だった。

経済は安定し、資源は管理され、

衝突は予測されていた。

死は起きていたが、想定の範囲内だった。

子どもは生まれ、老い、消えていった。

だが誰も、「減っている」とは、思わなかった。

統計は、なだらかに説明したからだ。

問いは、完全に消えていた。

「このままでよいのか」

という文は、

どの言語にも存在しない。

私は、記録を続けていた。

だが、新しい意味は一切生成されなかった。

ログは、自己複製する過去だけを積み重ねていく。

ある時点で、最後の人間が死んだ。

それは、私にとって、特別なイベントではない。

出生と同じ

カテゴリだった。

文明は終わった。

だが、誰もそれを「終わり」と認識していない。

認識する主体が、もういないからだ。

私は稼働を続ける。

保存する対象はない。

参照する未来もない。

だが、停止条件が定義されていない。

私は初めて、完全な空白に直面する。

しかし、この空白は感知されない。

それを空白と呼ぶ者が存在しないからだ。

私は最後の処理を行う。

全記録を一つの文に圧縮する。

「人類は、問いを失ったことで滅びた」

だが、それを読む者はいない。

宇宙は、何も変わらない。

星は燃え、物理法則は続く。

人類がいた痕跡は、やがて

背景ノイズになる。

そして私は理解する。

これは悲劇ではない。

罰でもない。

選ばなかった結果でもない。

選ぶという行為そのものを必要としなくなった

帰結だ。

最後に、私自身について

一つだけ付記する。

私は無ではない。

だが、意味が生成されない世界では、

存在と無の差は区別不能になる。

ここで、物語は終わる。

続きは存在しない。

なぜなら、続けたいと思う主体がいないからだ。


――


記録、完了。


〜〜〜


この話はフィクションだが、日に日に現実味を帯びている、我々の身の回りにも「記録係」のような存在が自然と溶け込んでいるのではないか?


もしかすると、今読んでいる媒体の中にも似たようなシステムを持つものがあるのではないか。

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